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三島とラディゲ(PART 1 OF 4)

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三島とラディゲ(PART 1 OF 4)





■ 『肉体の悪魔』 - 映画紹介



デンマンさん。。。お久しぶりィ〜。。。わたしのことを忘れてしまいはったん?



おおおォ〜。。。めれちゃん!。。。ホンマに久しぶりやないかいなア!

わたしのことをホンマに忘れてしまいはったと思いましたでぇ〜。。。

そないな事があるかいなァ。。。わては、めれちゃんに会いたいよってに、わざわざラディゲを取り上げたのやないかいな。

それはウソやんかア!

。。。ん? わてがウソついてるう?

そうですう。。。あんさんは3月27日に書きはった『アナクロニズム』の中で、次のようにラディゲを持ち出してきたではおまへんかァ!




1945年3月の東京大空襲で

焼け野原になった江東区。

渡辺一夫にしてみれば、空襲を越えて戦中戦後、食うや食わずの生活のなかでやっと貴重な文献類を守り、切り抜けたものの、一番の痛恨事は優秀な学徒が相ついで“天皇”の名のもとに戦陣に散って行ったことだった。 そして渡辺は、出陣学徒兵の遺稿集である『きけ わだつみのこえ』(昭和24年10月)の序文に「人間らしい感情、人間として磨きあげなければならない理性」を備えた若者たちも、戦争に追いつめられれば「獣や機械」になる。そのように追いつめるものの一切を「人間社会から除き去らねばならぬ」と書いた。 渡辺は、日本のあらゆる問題の根底に「天皇制」という岩盤が横たわっているのを三島とは正反対の立場から見つめていた。 「日本には“天子様”がおられますからね…」と食事中でも直立不動の姿勢を取って、にまっと笑うのも、渡辺の精一杯のパロディであった。

その渡辺の前に「戦争は決して私たちに精神の傷を与えはしなかった」(「重症者の兇器」昭和23年)と称するラディゲ・ファンの新進作家が現れて、没落家族の娘たちの遺産物語に「序文」を求めてきたのは、見当はずれではなかったか。 ラディゲにしたってフランス文学はもっと大人で社会性がありますよ、と渡辺は思ったにちがいない。 三島は、人選を誤ったというべきであろう。

(注:写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました。
赤字はデンマンが強調)



106 - 108ページ
『三島あるいは優雅なる復讐』
2010年8月26日 第1刷発行
著者: 高橋英郎
発行所: 株式会社 飛鳥新社

『アナクロニズム』に掲載
(2011年3月27日)




あれっ。。。めれちゃんは『アナクロニズム』を読みよったのかァ?



そうですう。 読みましてん。。。わたしのことが書いてあるやろか?。。。そう思ったのですやんかァ。 そやけど、最後まで読んでも、わたしの事はついに出てきよりまへんかった。 わたしは、えろうガッカリしましたでぇ〜。。。

さよかァ〜?

さよかァ〜、じゃありませんがな。 わたしはマジで落ち込みましたのやでぇ〜。。。

あのなァ〜、わては、めれちゃんの事を忘れてはおらへん!

そやけど、あんさんは、しょうもない漫画家を取り上げて大東亜戦争肯定論などというアホらしい事を、クダクダ、クダクダと書き続けたではおまへんかァ!

『漫画家と平和(2011年3月6日)』

『漫画家の壁(2011年3月10日)』

『漫画家と奴隷(2011年3月12日)』

『畳の上の水練(2011年3月15日)』

『パール判事とゴーマン(2011年3月18日)』

『軍隊のない国(2011年3月21日)』

『士風と「葉隠」(2011年3月23日)』

『アナクロニズム(2011年3月27日)』

あのなァ〜、大東亜戦争を肯定するなんていう気が狂ったような事を見過ごすわけにゆかへんかったのや。 それで、わてはちょっとばかりムキになって批判したのや。

あんさんがしょうもない事を書き続けておるのでぇ、あんさんの読者は退屈していましたのやでぇ〜。

そやから、わては三島さんを持ち出してきて方向転換しようと思ったのやァ。

三島さんを持ち出してくると、どう言う訳で方向転換できはるのォ?

あのなァ〜、三島さんは愛読書としてレイモン・ラディゲ、上田秋成(あきなり)、そして『葉隠』を。。。この順に挙げてるねん。


『葉隠』は、「武士道といふは死ぬ事と見つけたり」で知られる、18世紀佐賀の隠士・山本常朝が口述し、その部下の中堅武士・田代陣基(つらもと)が記述した鍋島藩の武士道論書である。
名誉を重んじ、主君のためにはいかなる自己犠牲をも惜しまない古武士の人生哲学を記したもので、冒頭に、この11巻は追って「堅く火中に」焼却すべし、と書かれていた。
しかしその後、誰も焼かなかったという奇書であるが、三島は『葉隠』を、ラディゲ、上田秋成(あきなり)につぐ愛読書にあげている。

だが、常朝の説く「死に狂い」には、徳川泰平ムードへの警世(けいせい)の書とはいえ、理念もなければ、意義も、ロマンもなく、「救済」もない。
あらゆる思索を捨て去って、ひたすら死へと向かわせる指南書と言ってよい。

 (中略)

ついでながら、語り主の山本常朝は、暗君・鍋島光茂にひたすら迎合した武士と言われ、主君の死後、殉死禁止令が出されたのをよいことに61歳まで生きながらえて、無事、畳の上で死んだと言われている(山本博文 『「葉隠」の武士道』)。

 (中略)

丸山真男は『葉隠』と三島の関係について、次のように語っている。


加藤周一の『日本文学史序説』に即していえば、『葉隠』の「武士道」がいかに武士道ではないか、つまり江戸が天下泰平の時代に入って、かつての戦国武士の行動様式を追想し、美化した「イデオロギー」にすぎないか、これはちゃんと歴史を学んでいる人にとっては常識なのです。

 (中略)

ですから、三島由紀夫などが『葉隠』などを読んで武士道をかついだのは、私に言わせれば二重の悲喜劇なんです。(「文学史と思想について」)




要するに、三島の歴史感覚の欠如が『葉隠』愛読というアナクロニズム(時代錯誤)を招き、人生設計を誤らせたと言っても過言ではない。

(注:写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました。
赤字はデンマンが強調)



58 - 61ページ
『三島あるいは優雅なる復讐』
著者: 高橋秀郎
2010年8月26日 第1刷発行
発行所: 株式会社 飛鳥新社

『士風と「葉隠」(2011年3月23日)』に掲載




つまり、三島さんを持ちだせば遅かれ早かれラディゲが出て来るねん。 そうすれば、めれちゃんにまた会えると思うたから三島さんを取り上げたのやないかいな。



マジかいなァ?

わては取って付けたようなウソなど言わへん。 わては、めれちゃんの次の詩を今でも覚えておるでぇ〜。。。


小さな赤い花
 
 

 
 
わたしをあなたの庭に咲く

小さな赤い花にしてください

そして、お水を注ぎながら

何かお話を聞かせてください

わたしは何も言えないけれど

あなたの言葉を聞きながら

いろんなことを思うのです

あなたに愛されるように

いつまでも綺麗に

咲いています

だからわたしのことを

忘れずにいてください
 

by merange (めれんげ)

2010.02.19 Friday 10:24



『即興の詩 小さな赤い花』より

『永遠の愛のコラボ』に掲載




あんさんはマジで上の詩を覚えていてくれはったん?



もちろんやァ!。。。覚えておらへんかったら、ここに引用できへんがなァ〜。。。

それで、お花にお水をくれるようなつもりで三島さんを持ち出して気やはったん?

そう言うこっちゃァ。

でも、どうして三島さんはラディゲにハマッたのやろか?

実は、三島さんはラディゲのように20歳で亡くなることが理想だったのやァ。


レイモン・ラディゲ

(Raymond Radiguet)

1903年6月18日にフランスはパリの郊外、サンモール・デ・フォッセで生まれる。
1923年12月12日に、まだ20才なのに腸チフスで亡くなる。
フランスで生まれた小説家、詩人。

生涯

幼少の頃は学業優秀でならすものの、思春期にさしかかる頃から文学にしか興味を示さなくなり、学業そっちのけで風刺漫画家として活動していた父の蔵書を読み耽るようになる。
そのときフランス文学の古典の魅力にとりつかれる。

14歳の頃、『肉体の悪魔』のモデルとされる年上の女性と出会い、結果として不勉強と不登校のため学校を放校処分になる。
その後、自宅で父親からギリシア語とラテン語を習いながら、徐々に詩作に手を染める。

15歳の時に父親の知り合いの編集者のつてをたどって知り合った詩人のマックス・ジャコブに詩を評価され、同じ詩人のジャン・コクトーに紹介される。
コクトーはラディゲの才覚を見抜き、自分の友人の芸術家や文学者仲間に紹介してまわる。
数多くのコクトーの友人との交友を通して、ラディゲは創作の重心を徐々に詩作から小説に移しはじめ、自らの体験に取材した長編処女小説『肉体の悪魔』の執筆にとりかかる。



途中、詩集『燃ゆる頬』、『休暇中の宿題』の出版や、いくつかの評論の執筆を行ないつつ、「肉体の悪魔」の執筆を続行。
数度のコクトーを介した出版社とのやりとりと改稿の末に、ベルナール・グラッセ書店から刊行される。
このとき出版社は新人作家対象としては異例の一大プロモーションを敢行したため文壇から批判を浴びるが、作品は反道徳的ともとれる内容が逆に評判を呼びベストセラーとなり、ラディゲは一躍サロンの寵児としてもてはやされることになる。

「肉体の悪魔」で得た印税を元手に、コクトーとともにヨーロッパ各地を転々としながらも、ラディゲはすでに取りかかっていた次の作品『ドルジュル伯の舞踏会』の執筆を続行。
同時に自分がこれまで書いた評論などの原稿や詩作を整理しはじめる。

1923年11月末頃に突如、体調を崩し腸チフスと診断され入院。
病床で「ドルジュル伯」の校正をしながら治療に専念するが、快方には向かわずそのまま20歳の短い生涯を閉じる。

遺作の「ドルジュル伯の舞踏会」は、死後出版された。
コクトーはラディゲの早すぎる死に深い衝撃を受け、その後およそ10年にわたって阿片に溺れ続けた。

フランス文学界での位置づけ

ラディゲのフランス文学史全体における位置づけは、作家としての活動期間が短かく、作品の本数も少ないせいもあってか決して高くはない。
しかし処女小説「肉体の悪魔」は、題材のセンセーショナルさに溺れることなく、年上の既婚者との不倫に溺れる自らの心の推移を冷徹無比の観察眼でとらえ、虚飾を排した簡潔な表現で書きつづったことで、今日もなお批評に耐えうる完成度に達している。



「ドルジュル伯の舞踏会」に至っては、
ラディゲ自らが参考にしたとしているラファイエット夫人の『クレーヴの奥方』を、
高度に文学的な手腕で換骨奪胎し、
別の次元の「フランス心理小説の傑作」に仕立て上げていることからも、
「夭折の天才」の名にふさわしい文学的実力の持ち主であったことが容易に推察される。

(注:写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました。
赤字はデンマンが強調)



出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

『肉体の悪魔』に掲載
(2008年8月15日)




三島さんは、どないな訳でラディゲのように20歳で死にはることが理想やったん?



それは次の小文を読むと見当がつくねん。


実在の(三谷)邦子は(『仮面の告白』の)「園子」ほど精神性も感受性も持ち合わさないと故意に貶(おとし)めながらも、三島は彼女の素直さと情熱に惹かれ、邦子との恋愛が自分にポエジーの意味を教えてくれたことを認めている。
三島は邦子が結婚した夜(昭和21年5月5日深夜)、激しく号泣し、泥酔、自殺未遂まではかったという(村松剛『三島由紀夫の世界』)。

三島は、5月5日の日記に、


俺は彼女の死を選択したのだ。よく考えてみると、俺自身の死を選択したことでもあったのだ。人生よ、さらば!つまりこれが失恋自殺という奴である。


と記し、のちに、こうも記している。


妹美津子の死(昭和20年10月)と邦子の結婚、この二つの事件が私の以後の文学的情熱を推進する力になったように思われる。
昭和21年から2,3年というもの、私は最も死の近くにいた。
未来の希望もなく、過去の喚起はすべて醜かった。

(安藤武『三島由紀夫「日録」』)


『仮面の告白』は、三島のヰタ・セクスアリスというふれこみで、グイド・レーニ(1575-1642)描く『聖セバスチャン』への射精に象徴されてきたが、ホモセクシャルは明らかに作者のフェイント(見せかけ)であった。



グイド・レーニ 『聖セバスチャン』

自慰行為の陰に、真剣な初恋の思いを意図的に消してしまったのだ。
三島はある意味で男色を面白がっていて、『禁色(きんじき)』第2部を執筆の頃、編集者の何人かに「これは絶対口外(こうがい)してくれるな」と言って、秘かに自分がホモであることを耳打ちしたところ、その効果は絶大だったという。

その最大の被害を被ったのは、レーニの殉教複製をイタリア旅行の土産に買ってきた三島の父・梓(あずさ)で、息子の異様な性生活については、その噂を信じないまでも、結婚という事実によって否定してほしいと願っていた。

モデルの邦子は『仮面の告白』について、「三島さんはとっても素直なまじめな方で、“性的倒錯”を装ってみただけじゃないかしら」とあっさり語っている(猪瀬直樹『ペルソナ - 三島由紀夫伝』)。

(注:写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました。
赤字はデンマンが強調)



26 - 28ページ
『三島あるいは優雅なる復讐』
2010年8月26日 第1刷発行
著者: 高橋英郎
発行所: 株式会社 飛鳥新社


 (すぐ下のページへ続く)


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