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なぜ狭山事件?(PART 1)

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なぜ狭山事件?(PART 1)





あなたは「狭山事件」ってぇ知ってますか?
1963年5月1日に埼玉県狭山市で起こった事件なのですよ。
事件から、かれこれ半世紀が経ちます。
高校1年生の少女を被害者とする強盗強姦殺人事件なんです。
事件当時はずいぶんと騒がれたものです。

なぜ?

1963年3月に、これも有名な「吉展ちゃん誘拐事件」が発生しました。
狭山事件の2ヶ月前のことですよ。
警察は犯人を取り逃がしており、2年後の1965年に犯人を検挙したのだけれど、狭山事件が起こった当時は「吉展ちゃん事件」でも世間は騒いでいた。
だから、「またか!?」と世間は思った。
警察は何をしているんだ!。。。と世間は警察に対して批判的だった。

そのようなわけで、狭山事件が起こった時には、埼玉県警は165名からなる特別捜査本部を設置して捜査を開始したのです。
ところが捜査は難航した。



狭山市上赤坂の富裕な農家の四女で、川越高校入間川分校別科1年生の少女(当時16歳)が、午後3時23分に目撃されたのを最後に、午後6時を過ぎても帰宅せず行方不明になった。
午後6時50分頃、心配した長男(当時25歳)が車で学校に行き所在を尋ねたが確認できず、午後7時30分ごろ帰宅したが少女はまだ戻ってなかった。
午後7時40分ごろ、長男が玄関のガラス戸に挟んであった白い封筒を発見した。
それは四女の生徒手帳が同封されていた脅迫状であり、次のように書かれていた。

「子供の命が惜しかったら、5月2日夜12時、佐野屋の門前に現金20万円を女性に持たせて待て。。。」

ところが、その日に被害者のお姉さんが20万円分の現金に見せかけた偽造紙幣を持ち指定された場所に行ったのだけれど、現れた犯人を警察は取り逃がしてしまった。
警察は何をしているんだ!
世間は警察のだらしなさを詰(なじ)った。

5月23日、遺体遺棄現場近くの被差別部落に住む石川一雄(当時24歳、血液型B型)さんが傷害や暴行や窃盗などの容疑で別件逮捕されたのです。



石川さんは小学校5年修了後、農家の子守奉公や靴屋の店員見習い、製菓工場の工員、土工を経てI養豚場に住み込みで働いていたことがあり、同養豚場関係者21名の中で、B型の血液型を持つ人間は石川さんただ1人であった。
共同通信社は、逮捕前から有力容疑者が石川さんであるという情報を入手しており、逮捕前日の22日、工事現場で働いていた石川さんを撮影している。
また警察は、報道陣に対して逮捕当日から「筆跡などで石川さんが犯人であることに確信がある」と発表した。
一方「彼が犯人だという確信はあるか」との記者の質問には、竹内武雄副本部長(狭山警察署長)は「これが白くなったら、もうあとにロクな手持ちはない」と答えたという。
警察は20日以上にわたって取り調べを行ったが石川さんは自白をせず、別件で起訴された後、弁護士の保釈の申請が認められて6月17日に釈放されることになった。
ところが、釈放直後に警察は本件(強盗、強姦、殺人、死体遺棄容疑)で再逮捕した。

警察は捜査の失敗を重ねていたので、何が何でも犯人を挙げなければとあせっていたに違いない。
僕は子供ながら、そう思いましたね。
僕と同じような考えを持った人はたくさんいた。

とにかく、この事件は問題や疑惑がありすぎた!
狭山事件関係者が1963年から1977年にかけて次のように変死している。

•1963年5月6日 - 被害者宅の元使用人が農薬を飲んで井戸に飛び込み自殺。
•1963年5月11日 - 不審な3人組の目撃情報を警察に通報した者が包丁で自分の胸を刺して自殺。
•1964年7月14日 - 被害者の姉が農薬を飲んで自殺。
•1966年10月24日 - 石川がかつて勤務していた養豚場の経営者の兄が西武新宿線入曽駅近くの踏切で電車に轢かれて自殺。
•1977年10月4日 - 被害者の次兄が首を吊って自殺。
•1977年12月21日 - 事件を追っていたフリーライター片桐軍三が暴行死とも見られる変死を遂げる。

そのようなわけで、警察が犯人をでっち上げたという冤罪説が早くから世間には広まっていた。
しかし、1974年10月31日東京高等裁判所は、弁護団の主張を斥けて「無期懲役」の判決を下したのです。
死刑判決を選ばなかった理由について、東京高裁判決は「本件の犯行には … 偶然的な要素の重なりもあって、被告人にとって事が予期しない事態にまで発展してしまった節があると認められること、それまで前科前歴もないこと、その他一件記録に現れた被告人に有利な諸般の情状を考量すると、原判決が臨むに死刑をもってしたのは、刑の量定重きに過ぎて妥当でない」と述べた。

二審判決後、弁護団は新証拠をあげて上告したが、1977年8月9日に最高裁は上告を棄却した。
その結果、石川さんの無期懲役が確定し、1977年9月8日、千葉刑務所に収監された。

とにかく、この事件はずいぶんと世間を騒がせたのです。

ええっ。。。どうして僕がこの事件いついて書いているのかって。。。?
あのねぇ〜、僕は、もちろん、この事件には関係ないのですよ。
でも、全く関係ないというわけでもない。
なぜなら、ある新聞の埼玉県の地方版に次のようにして僕は登場したからです。


県内一周自転車旅行の途中で

狭山事件の被害者のお墓参り

行田市立行田中学校1年生の4人の仲間は夏休みを利用して県内一周の自転車旅行に出かけた。
約2週間の予定で行田市を出発、熊谷から
県道11号線を西にとって長瀞を経て秩父まで行き、
そこから国道299号線に沿って正丸峠を越えて飯能市へ行き、さらに狭山市に入り
狭山事件の被害者のお墓参りをする予定。

お小遣いを旅費に当てて、お金を使わずに「無銭旅行」に徹するらしい。
できるだけ野宿は控えるが安価な宿が見つからない場合にはキャンプ場で宿泊する予定とか。

3ヶ月ほど前の5月1日、埼玉県狭山市で、高校1年生の少女(16歳)を被害者とする誘拐殺人事件が発生した。
5月23日に被差別部落出身の石川一雄・容疑者(24歳)が逮捕されている。



被害者の少女は狭山市堀兼の農家の四女で、川越高校入間川分校別科1年生だった。
クラス委員でもあり頭の良い、性格の明るい少女だったが無慈悲にも殺されてしまった。

4人の仲間はこの不幸な少女の無念な思いに同情し狭山市を通過する時にお墓参りをする。
犠牲になった少女に対し、同じ世代として実に悲しいことだと4人の少年は声をそろえた。



左より高沢君、小林君、関根君、そして加藤君。
県道熊谷小川秩父線(11号線)
(埼玉県比企郡嵐山町杉山)



『狭山事件』より
(2011年4月22日)




この記事の「加藤君」というのが僕なのですよ。
「切抜き」を大切に保存していたのだけれど、探してみたら見つからなかった。
だから、上の文章は僕がうろ覚えで再現したものです。

去年の4月22日に『狭山事件』という記事を書いたのは、バンクーバー図書館から次の本を借りて読んだのがきっかけでした。





『狭山事件の真犯人』
図書館の本棚にタイトルを見た時に、僕はすぐに手にとって読み始めましたよ。
真犯人は誰なのか?
一気に読みました。
分かり易く書いてあったので、僕にも真犯人がすぐに判りましたよ。

もちろん、真犯人が確定しているわけではありませんが、本に書かれている真犯人がほぼ間違いないと僕は思いましたね。
事件当時、どうして警察は真犯人の見逃してしまったのだろうか?
警察も検察も全く無視して、まだ動いてないようですが。。。

おそらく僕以外にも、このように考えている人がたくさん居るのではないか!?
ええっ。。。? どうしてそう思うのかってぇ。。。?

あのねぇ、そもそも今日の、この記事を書こうと思い立ったのは次の検索ワードのリストを見たからですよ。


(hg20718c.gif)



これは7月9日から7月18日までの10日間に検索エンジンから「デンマン・シンジケート」のブログとウェブページへやって来たネットサーファーが、どの検索ワードを使ってやって来たのかをリストアップしたものです。
延べ 581人が「床上手」で
393人が「肥後ずいき」を入れて検索して僕の記事を読んだわけです。
その中で10人が「狭山事件」で検索して僕が4月22日に書いた次の記事を読んでいるのです。

『狭山事件』

(2011年4月22日)

上のリストをよく見ると、普通名詞がほとんどで固有名詞、つまり特定の人物だとか特定の事件を入れて検索しているのは「狭山事件」だけなのですよね。
最近、日本では狭山事件が話題になっているのだろうか?

それで、過去の記録を調べて見ました。 次のリストを見てください。


(hg20718f.gif)



去年(2011年)の11月から今年の6月までの8ヶ月間の集計を見ると60番までの人気検索ワードに「狭山事件」は入ってない。
やっぱり、最近になって狭山事件が日本で脚光を浴びているのかもしれない?
マジで。。。?
そう思ったので『狭山事件』が実際に読まれているか?調べてみました。


(wp20719.gif)

http://denman705.wordpress.com/



これは7月19日までの1年間に Wordpress.com で書いている僕の Denman Blog で読まれた記事のリストです。
『床上手な女の見分け方』が 延べ 20,258人に読まれてダントツです。
少ないながらも『狭山事件』が延べ 76人に読まれている。

『狭山事件』は「デンマン・シンジケート」の他のブログにも掲載されているのです。


(hg20718m.gif)

(hg20718.gif)



Anisen (アニセン)の人気記事リストを見ると次のようになっています。


(ani20719.gif)



つまり、2011年4月22日に投稿してから述べ134人に読まれているのですよ。
決して多い数字ではないけれど、これまでの統計を調べてみると、最近になって「狭山事件」に関心を持つ人が現れたと言えるのではないか!?

僕の書いた記事『狭山事件』がネット上で少しは広まっているのだろうか?
そう思ってGOOGLEで検索してみました。


(gog20719.gif)



「狭山事件 デンマン」と入れて検索すると7月19日現在で 26,500件ヒットしました。
もちろん、この件数すべてが僕の書いた『狭山事件』についてのページではないけれど、おそらく1万件ぐらいは僕の記事のタイトルがネット上に散らばっているのではないか?

1994年12月21日石川さんは31年7ヶ月ぶりに仮出獄しました。
仮出獄後の石川さんは故郷の狭山市の実家に戻ったのですが、1995年12月18日に実家が全焼。
泣きっ面(つら)に蜂とはこのことですね。
その後、実家跡には部落解放同盟の「狭山再審闘争勝利現地事務所」が建てられ、事件当時の石川宅が復元保存されています。

仮出獄2周年の1996年12月21日には支援者である徳島県の被差別部落出身の女性と結婚し、実家付近にカンパで8階建てのマンションを建て、不動産収入で悠々自適の老後を送っています。

弁護団はその後も異議申立て、再審請求を提出しているのです。
でも、2005年3月16日、最高裁第一小法廷は第二次再審請求の特別抗告を棄却。
この直前の2月13日、「ザ・スクープ スペシャル」(テレビ朝日)で、「見えない手錠をはずして! 狭山事件42年ぶりの真実」と題した特集が組まれ、冤罪説の立場から石川さんのロングインタビューなどが放送されました。

2006年5月23日、支援者と石川さんが東京高等裁判所に第三次の再審を請求しました。

2006年12月、石川さんは第18回多田謡子反権力人権賞を受賞しました。
石川さんは、現在も支援者の協力のもとに無罪を主張しつづけています。

2010年5月13日、東京高裁、東京高検および石川さんの弁護側と三者協議が行われ、検察側は裁判所の証拠開示勧告を受けて、確定判決で殺害現場とされた付近の畑で農作業をしていた男性の捜査報告書や、石川さんが犯行を自白した際の取り調べ録音テープ9本などあわせて36点の新たな証拠を開示しています。

僕の個人的な意見では、石川さんが冤罪で刑務所に拘束されていたことは明白なのです。
バンクーバーに住んでいる僕にとって、これ以上の事はできないけれど、
せめて、こうして冤罪が晴れるように支援を広めたいですね。

石川さんが無罪だということは明らかですよ。
有罪ならば、これほどまでに執拗に再審請求しないと思います。
あなたは、どう思いますか?


 (すぐ下のページへ続く)



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