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後白河上皇とポルノ(PART 1)

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後白河上皇とポルノ(PART 1)


(shibagaki4b.jpg)


(goshirakawa.jpg)



デンマンさん。。。、あんさんは、平安時代のポルノを持ち出しはるのォ〜?



あきまへんかァ〜?

そやかて、あんさんはすでにアメブロのファシスト管理人に目をつけられておますのやでぇ〜。。。

それがどうしたというのや?

あんさん!。。。いい加減にしいやあァ〜。。。この記事がアメブロで未公開にされてしまいますがなァ!

未公開にされるとしたら、アメブロだけやねん。

他のブログでは公開されるという自信でもおますのォ〜?

もちろんやァ! これまでに、わてが取り上げたポルノで未公開にされたのはアメブロだけやねん! わてのポルノの記事は未公開にされるような「悪質なポルノ」ではあらへん。。。文化的、歴史的なポルノやさかいに、ごっつう教育的なのやァ。 そやからアメブロ以外のどのブログでも公開されてるねん。 それに、この記事で取り上げるポルノというのはバンクーバー図書館で借りてきた次の本に載っていたものなのやでぇ〜。。。


(lib20802b.gif)



上の赤枠で囲みはった本を読みはったん?



そうやァ。 次のように書いてあったのやァ。



(goshirakawa.jpg)

平安時代の末期である院政期には「日本で一番前衛的な天皇様」である後白河上皇が大活躍をして、絵巻物の黄金時代を現出させた。

(中略)

日本の国宝級の絵巻物を続々と生み出した日本最大の文化プロデューサーである後白河上皇は、ポルノというものが嫌いだったのだろうか?---ということになると、そんなことはない。
彼はちゃんと、ポルノグラフィーの制作に関与している(らしい)のだ。
男女---あるいは人間同士の性交渉を描写した(たぶん)日本で最初の絵巻物《小柴垣草子絵巻》の詞書(ことばがき)は、後白河上皇が直接書いたのだといわれている。
彼はちゃんと、やっている(らしい)のだ。

 (中略)

平安時代には、賀茂神社と伊勢神宮という二つの大きな神社の神に仕える、“斎院”“斎宮”と呼ばれる特別な未婚の女性がいた。
“特別”というのは、この女性たちが内親王をはじめとする皇族の娘たちだったからだ。
“神の花嫁”となって、斎院は京都の賀茂神社へ、斎宮は伊勢神宮へと出向いていった。
彼女たちは当然“未婚の処女”でなければならないし、神に仕える間に男との交渉を持ってはならない。
がしかし、その神聖な処女である伊勢の斎宮が、ある時警護の男性と密通をしてしまった。
大スキャンダルになって、彼女は斎宮の地位を下ろされて出家させられてしまうのだが、《小柴垣草子絵巻》は、その“歴史上の大事件”を題材にした絵巻物なのである。

 (中略)

986年の夏、やがては伊勢に下ってゆくことになる斎宮・済子(さいし)は、京都の野の宮で、身を清めるための潔斎に時を過ごしていた。
決して男を近づけてはならない斎宮を守るために身辺警護の男達がいて、その中に平致光(むねみつ)という武士がいた。
《小柴垣草子絵巻》の詞書によれば、「この男を御簾の間からご覧になった斎宮はポーッとなってしまった」のである。
ポーッとなってしまった斎宮は、夜になって、その致光が庭の小柴垣のそばで横になっているのを発見した。
身辺警護の武士たちが夜勤の時にいつもそうするように、致光も庭の垣根のそばで寝ていたのである。
ポーッとなった斎宮は、御簾から出て、その男を誘惑してしまった。


(shibagaki4c.jpg)

(赤字はデンマンが協調のため。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより。)



168ページ 『ひらがな日本美術氏2』
著者: 橋本治
1997年8月25日 第1刷発行
発行所: 株式会社 新潮社




つまり、上の写真の映倫カットで肉色に塗りつぶされてある部分は、斎宮・済子(さいし)と平致光(むねみつ)が肉体的につながってるん?



あたりまえやんかア! 本にはカットなしの写真が載ってるねん。 後白河上皇は次のように書いてるのたでぇ〜。。。



(shibagaki7.jpg)

御髪(おぐし)はいと心くるしくこぼれかかりて、また、黒くにくさげなるところ、月の影にほのばかり見ゆる心まどひ、言はんかたなし。



(現代語訳)

長い髪は痛ましげにこぼれかかって、黒くてちょっとヤバいところが、月の光でかすかにセクシーに見えてドキドキしてしまうところは、もうなんとも言えないのだよ。




上の写真はぼんやりしてよく解りまへんけど、誘惑された平致光(むねみつ)さんが斎宮の「黒くてちょっとヤバいところ」を見つめているところやのォ〜?



そうやァ。 その気持ちが僕にも伝わってくるのやがなァ。 うししししし。。。

そのように下卑た笑いを浮かべんでほしいわ。 結局、男性が喜ぶだけのポルノやんかァ。

いや。。。ただのポルノやから下らんと言ってしもうたら身も蓋もないねん。

つまり、平安時代のポルノを持ち出したのには理由があると言わはるのォ〜?

あたりまえやァ。 実は、わては《小柴垣草子絵巻》が存在することを知らへんかった。 ポルノチックな画像は結構見ているつもりやったのやけど、《小柴垣草子絵巻》に登場するポルノ画像は見たことがあらへん。

好奇心が旺盛な、あんさんでも見逃してしもうたのォ〜?

そうなのやァ。 平安時代のポルノはあまり話題に上らへん。。。どうしてだか、めれちゃんには解るかァ〜?

分かりますう。。。平安時代には、現在のように性に対するタブーがあまりあらへんかったからやん。

そうやァ。 歴史の本を読んでも、平安時代は性に対しておおらかな考え方を持っていたのやァ。 そやから、現在のように隠れてコソコソとポルノを見るような雰囲気はあらへんかった。 語弊があるかもしれへんけど、現在と比べれば、フリーセックスの時代やったのやァ。 そやから、ポルノの需要がほとんどなかったと思うねん。

そやけど、後白河上皇が性交渉を描写した(たぶん)日本で最初の絵巻物《小柴垣草子絵巻》の詞書(ことばがき)を書いたとなってますやん!

あのなァ〜、平安時代には性に対するタブーは現在から比べれば極めて少なかったのやァ。 その少ない中のタブーが“斎院”と“斎宮”にまとわりついていた。

つまり、“斎院”と“斎宮”と呼ばれる女性は“未婚の処女”でなければならないし、神に仕える間に男との交渉を持ってはならないということやのォ〜?

その通りやァ。 そやから、当然、このタブーに男たちの関心が注がれるねん。 《小柴垣草子絵巻》という絵巻は、そのタブーを犯した事件があったから、男たちの関心が集まったというわけやァ。 原本は失われてしもうて、現在に伝わってないねん。 そやけど何度となく模写したらしくて、そのコピーが現代に伝わっているのやァ。

要するに性的タブーがあって初めてポルノが生まれると、あんさんは言わはるのォ〜?

それが大きな理由の一つやァ。 つまり、タブーを犯したという事実は、いつの時代にも、その当時の社会に衝撃を走らせるねん。 社会に波紋を広げてゆくう。 その波紋が好奇心をくすぐって《小柴垣草子絵巻》という絵巻が出現したと思うねん。

斎宮・済子(さいし)と平致光(むねみつ)の密通事件は、それほどの波紋を投げかけたのやろか?

あのなァ〜、平安時代の性的におおらかな時代に、“斎院”と“斎宮”に厳しい“戒律”を押し付けることがそもそも不自然なのやでぇ〜。 そやから、当然それを破る女性が出てくるねん。

“斎院”と“斎宮”の密通事件は他にもあるのやろか?

あると思うでぇ〜。。。 かつて、わても密通事件を取り上げたことがあるねん。


禁忌の愛



『伊勢物語』の第69段と第70段に〈狩の使い〉の物語がある。
そこに描かれた〈狩の使い〉は在原業平、〈斎宮〉は恬子(やすいこ)内親王のことだと言われている。
『伊勢物語』の第69段の最後には、
「斎宮は水の尾の御時、文徳天皇の御むすめ、惟喬の親王の妹。」
と記されており、すなわち恬子内親王のことである。
業平は恬子内親王の兄・惟喬親王と親交があり、『伊勢物語』の中にもその様子を描いた段がいくつかある。
兄と親しい間柄の業平と内親王はまるで知らない仲でもなかったらしい。
以下に〈狩の使い〉の段の概略を紹介する。

ある時、伊勢の斎王(斎宮)の元に都の親元から文が届いた。
「近い内に狩の御使いがそちらに赴かれるが、大事な方だからいつもの使いよりもずっと丁重におもてなしなさい。」
そういう内容であったから、斎王は準備万端心をこめて用意した。
さて、使いが斎宮に到着した時、斎王はその使者のすばらしさに感動し、使いの男の方も御簾(みす)ごしにほの見える斎王の面影の麗しさに心をときめかせた。
お互いに、
「どうかして二人だけの時間を過ごしたい。」
と願ったが、なかなかその機会が訪れない。
恋心に思い悩む男の寝所の外に、深夜人々の寝静まった頃、何者かの影が立った。
おぼろな月明りを背に夢のように訪れたのはかの斎王であった。
短か夜はしかしすぐに明けてしまう。
尽きせぬ名残の中、ふたりは歌を読み交わす。




斎王:

君やこし我や行きけむおもほえず

  夢か現(うつつ)か寝てかさめてか

男:

かきくらす心の闇にまどひにき

  夢うつつとはこよひ定めよ


このふたりの間に禁忌を犯した契りがあり、それによって男の子が生まれたという伝承があった。
それが事実であったのかどうか確証はないが、この伝承は秘されて生まれた子・高階師尚(たかしなのもろなお)を祖先に持つと言われている高階家に語り継がれていた。
そしてこの時代よりもずっと後、藤原道長の時代に公けの場で語られるのである。
一条天皇が三条天皇に譲位する際に、その皇太子を一条の皇子の誰にするかという問題が起こった時のことである。
故皇后・定子腹の第1皇子・敦康親王(あつやすしんのう)を退け、中宮(ちゅうぐう)・彰子(時の権力者・藤原道長の娘)の皇子・敦成親王(あつひらしんのう)を推す理由を、藤原行成(ふじわらのゆきなり)が帝に奏した言葉の中に現れているのである。

「立太子の儀は人間の意志ではなく伊勢の皇大神の意によって決められるのであるが、敦康親王の母・定子は藤原道長の実兄・道隆と高階貴子の間の娘である。
高階家はかつて斎宮のことがあり、伊勢の皇大神の不興を買っており、故に皇太子にはふさわしくない。」
というようなことを行成は奏上した。

定子の兄で同じく高階貴子腹の藤原伊周(ふじわらのこれちか)に道雅(みちまさ)という息子があったが、彼は三条天皇の愛娘でやはり伊勢の斎王に立った当子内親王(まさこないしんのう)と祝福されない恋を契り、高階家と斎宮との悲しい伝説をまたひとつ重ねた。



『恬子内親王』より

『愛と真実』に掲載
(2008年2月21日)




このように斎宮がタブーを破った事実は衝撃的だったので文学にも波紋を投げかけたのやァ。 要するに衝撃が走ったのはポルノの世界だけではなかったということやでぇ。



まだ他にもタブーを破った斎宮や斎院が居たのやろか?

わては居たと思うでぇ〜。 ただ、そういう事実は闇に葬られたと思うのやァ。。。だいたい、“戒律”が厳し過ぎる。 性的におおらかな、いわば“自由恋愛”の平安時代に独房に閉じ込めるようにして男を遠ざけることが不自然なのやァ。

そうやろか?

やだなあああァ〜。。。めれちゃんだってぇ、次のように女性の“性欲”についてカミングアウトしてるやないかいなァ!


 (すぐ下のページへ続く)





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