坊っちゃんと敬語(PART 1)
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デンマンさん。。。あんさんは敬語に対して反感を持ってますのやねぇ?
出鼻からそうそう、めれちゃんは、どうしてそないな事を言うのやァ〜?
そやかて、あんさんは次のよな事を言うてましたやないかいなァ。
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敬語には・尊敬語・丁寧語・謙譲語・美化語・気くばり語の5種類があり、人間関係や生活感情の潤滑剤になっている。
「日本は敬語が多くてわずらわしい」という学者先生や芸術家がいるが、どう致しまして、欧米にだって敬語表現がヤマのようにある。
一例を挙げると、丁寧語の言葉の使いわけは、日本語は7対3だが、アメリカは9対9である(井出祥子・日本女子大文学部教授)。
(赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
イラストはデンマン・ライブラリーより)
19ページ
『きれいな敬語 羞(はず)かしい敬語』
著者: 草柳大蔵
2002(平成14)年3月1日 初版第5刷発行
発行所: 株式会社 グラフ社
僕は人生の半分以上を海外で、主に欧米で暮らしている。 アメリカでも、カナダでも暮らしたことがある。 カナダには20年以上住んでいる。 でもねぇ〜、実感として「日本は敬語が多くてわずらわしい」のですよ。
あたくしもバンクーバーに行ってから、そう感じるようになったのでござ〜♪〜ますわ。
そうでしょう? 可笑しな敬語を使っている卑弥子さんならば、マジでそう実感したでしょう?
そうなのですわよ。 あたくしは京都の女子大学で「日本文化と源氏物語」を講義しているのですけれど、女子学生からも、あたくしの敬語の使い方が可笑しいと言われるのでござ〜♪〜ますわ。
解(わか)りますよ。 卑弥子さんの日本語は源氏物語の影響を受けてかな〜り時代錯誤していますよ。 (微笑)
そうでござ〜♪〜ますでしょうか?
今時、卑弥子さんのように源氏物語の時代を感じさせてくれる女性なんて日本でも化石的な存在ですよ。
つまり、あたくしは化石のような女なのでござ〜♪〜ますか?
その通りですよ。
。。。んで、デンマンさんは草柳さんに対して反論があるのですか?
もちろんですよ。。。あのねぇ〜、アメリカやカナダに住めば dumb という言葉は日常茶飯事のように、よく耳にする。 自分は使わなくても子供たちが使うから耳に入ってくる。
(中略)
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SOURCE:"Urban Dictionary"
つまり、dumb という単語は(北米では)子供時代からよく使う言葉なのですわね?
その通りですよ。 ネットの俗語辞典などにも載っています。 つまり、これほど頻繁に耳にする言葉なのにもかかわらず、草柳さんは耳にしたことがない。 おそらくアメリカやカナダに旅行に出かけたことはあるかもしれないけれど、日本人とだけ話していたのでしょう。 もちろん、北米で暮らした経験はまずないでしょう。 暮らしたとしても3ヶ月程度で、日本人だけと話していたのでしょうね。
でも、どうして、そのようなことがデンマンさんに判るのですか?
実に簡単なことですよ。 草柳さんは次のように書いている。
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「えひめ丸」のときも池田小学校のときも、「いま、どんなお気持ちですか」のダムベストな声を聞かされたのである。
「dumbestな声」を北米で暮らしたことのある人ならば、「ダメストな声」と書くものですよ。 「b」は発音しないのですよ。 確かに、英語にも敬語の表現はあります。 でも、日本語の敬語の体系と比べたら、現実の生活では、ほんのわずかしかない。 草柳さんは欧米にだって敬語表現がヤマのようにあると書いているけれど、自信がないから丁寧語の言葉の使いわけは、日本語は7対3だが、アメリカは9対9であると井出祥子・教授の言葉を引用している。
丁寧語の言葉の使いわけは、アメリカにはないのでござ〜♪〜ますか?
学問的にはあるかもしれないれど、現実の生活で日本人が敬語の使い方を気にするように、丁寧語の言葉の使いわけをアメリカ人が気にしているなんて考えられない。 それはアメリカで暮らしてみれば3ヶ月以内に、どんなに遅くとも3年以内には、はっきりすることですよ。 日本の敬語表現がエベレストぐらい高いヤマに相当するとすれば、アメリカの丁寧語など元横綱の高見山ぐらいの高さですよ。
そんな程度ですか?
もちろんですよ。 草柳さんは「敬語には・尊敬語・丁寧語・謙譲語・美化語・気くばり語の5種類があり、人間関係や生活感情の潤滑剤になっている」と書いているけれど、僕は敬語が潤滑剤になっているとは思えない。 むしろ、人間関係や生活感情の邪魔になっている。 だから敬語が廃(すた)れてくるのですよ。
デンマンさんは、敬語はない方がいいと主張るのでござ〜♪〜ますか?
いや。。。敬語を廃止しろ!とは言いませんよ。 でもねぇ、草柳さんは次のようにも書いている。
葉書にせよ電話にせよ、人と会話をはじめ会話を終わるときの、人間としての敬虔(けいけん)な態度がなければ、敬語を遺漏(いろう)なくふんまえた手紙は、かえって、“つくりもの”の味が濃厚になってしまうのではないだろうか。
つまり、「最初に敬語ありき」ではなくて、「最初に態度ありき」なのである。
その「態度」とは、通信をする相手の状況による。
結婚への祝いの言葉、破婚や失恋を慰める言葉、子どもが誕生したことへのよろこび、肉親を失ったことへの慰め、昇進ないし受賞した人へのよろこび、倒産失業した人へのいたわり……つまり、人生の光のスポットに自分の手紙を落とすとき、人生の陰の叢(くさむら)にメッセージを落すとき、それで心構えができるだろう。
(赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
136-137ページ
『きれいな敬語 羞(はず)かしい敬語』
著者: 草柳大蔵
2002(平成14)年3月1日 初版第5刷発行
発行所: 株式会社 グラフ社
つまりねぇ、敬語の使い方を考えること自体が本末転倒なのですよ。 問題は心なのですよ。 心に人を敬(うやま)う気持ちがあれば、どのような言葉を使おうが、その人の態度に敬語の意味が表現されている。
そうでしょうか? そんなに簡単に言って済ませていいものでござ〜♪〜ましょうか?
だってぇ、現に敬語が廃(すた)れているのですよ。 言葉は生き物なのですよ。 無駄な敬語は無くなっても当然なんですよ。 それが自然の成り行きなのです。
『愚か者と敬語』より
(2012年2月18日)
確かに、わてはこのように言うたでぇ〜。。。 その事が、めれちゃんには気になるのんかァ〜?
わたしは敬語は日本の文化の大切な一部やと思うてますねん。
わてかてぇ、そう思うとるのやでぇ〜。。。
そないな風には、よう見えしまへんがなァ〜。
あのなァ〜、言葉は生き物なんやァ〜。。。人がああせい、こうせい、と言うたところで言葉は政治家や時の権力者の思い通りにはならへん。 その証拠に江戸時代の武家の言葉は現在、使われてえ〜へん。 現在は庶民の世界やんかァ! 男は刀も差してえ〜へんし、ちょんまげも結(ゆ)うてへん。 女は腰巻もつけてえ〜へんし、髷(まげ)も結うておらへん。
あたりまえやんかァ! 時代が違いますやん。
そうやろう!? そやから言葉かてぇ、時代とともに変わってゆくんのが当たり前なんやァ。 そやのに、一昔前の敬語にこだわるのは、男はちょんまげを結うて、女は腰巻をつけろ!と言うてるようなものやんかァ!
そうやろかァ〜?
あのなァ〜、米谷ふみ子さんも次のような興味深いエピソードを書いていたのやァ。 めれちゃんも、ちょっと読んでみィ〜なァ。
敬語がいかに人間関係を難しくしているかを、あるフランス語の(日本人の)教授のエッセイが如実に示していた。
教授が授業を終えて教室を出た時、入り口で待っていた学生に呼び止められ、何かパンフレットのようなものを見せられて「これを訳してもらいたいんだけど」と言われた。
教授はそのものの言い方にむっとしたと書いている。
そしてよくみると、女性の避妊具の説明書きであった。
医者のところに行って相談しなさいぐらいに言ってその場を去ったと書いていた。
とにかくこの頃の学生の言葉遣いや態度に呆れたというのだ。
これを私はアメリカ人の夫に英語に訳して聞かせた。
彼は「なんと若者に不親切なんだろう。 若者に分からないことを教えてやるのが先輩としての義務ではないか」と言ったのだ。
つまり、英語には敬語がないからこの教授が失礼だと怒っている理由が分からないのだ。
日本では真実に入る前にこの敬語で人間関係を壊してしまう。
両者にとって不幸なことである。
永年アメリカで英語の生活をしていると、日本に帰った途端にこの人は私の上か下かと地位を考えねばならず、それが脳を充たし、肝心の重要な真実を、どこの世界にも通じる倫理的思考を、考えるスペースが脳からなくなってしまうように感じる。
人間は平等でないと真実を追究できないのではないかと思うようになった。
ことに自然科学分野では上下関係は有害である。
日本語は要らないことにエネルギーを消耗させている。
そして、それが美であるというまやかしをベールとして、日本人は騙されているのである。
(赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
イラストと動画はデンマン・ライブラリーより)
154-155ページ
『なんや、これ? (アメリカと日本)』
著者: 米谷ふみ子
2001年6月5日 第2刷発行
発行所: 株式会社 岩波書店
このエピソードを見る限り敬語に対する中年の教授と女子大生の考え方は喰い違ってるねん。 女子大生が教授を見下したり、馬鹿にしたようには思えん。 それにもかかわらず敬語を使わなかったというだけで教授はムカついている。
そやけど、若い女子大生といえども常識的な敬語の使い方ぐらい知っているべきやと私は思うわ。
その常識かて敬語と同じやァ。。。時代と共に変わってゆくのやでぇ〜。。。腰巻や、ちょんまげは江戸時代には常識やったのやァ。 今時、そないな物を身に着けていたら、チンドン屋と間違われてしまうでぇ〜。。。そのチンドン屋も、わての子供の頃には行田市でも、よう見かけたけど最近、帰省しても全く見かけんようになってしもうたのやァ。 常識も変わる、時代も変わる、敬語も変わるものなんやァ。。。ただ、心だけは変わらへん。 そやから、アメリカ人である米谷さんの夫は、敬語抜きで教授と女子大生のやり取りを読んで、教授が不親切やと思うたのやないかいな。 それが変わらぬ心というものやんかァ。 日本語にあるような複雑な敬語を知らないアメリカ人の目から見たら、教授が女子大生の質問に対して誠意を持って答えるのが当たり前やァ。
そうやろか?
そうやァ。。。ところが日本人は敬語にこだわる人が居る。 草柳さんも、そのうちの一人やァ。 それで次のようなことも言うている。
敬語はそれが意識されずに語られたり書かれたりすると、まるで生命(いのち)あるもののように、いきいきとしたり、冴(さ)えわたったりするようである。
その心地よさ、おもしろさを味わって頂こうと、日本の名作八篇から素敵に運ばれている会話の部分を収録した。
「素敵」の条件は、会話の中の言葉がその位置にふさわしいこと、短切(たんせつ)な表現なのに過不足なく意味と情感を伝えていること、一人の話にリズムがあって、しかも二人の会話にひびきあうものがあること、以上の四つである。
(中略)
夏目漱石の作品からは明治・大正の会話を選んだ。
昭和の言葉の基礎になっているからそれほど大きな違いはないが、それでも言葉の響きの微妙な違いが聞き取られると思う。
『坊っちゃん』では、清(きよ)という、“ばあや”の言葉を伝えている。
わずかに江戸時代の武家言葉が残っているのではないだろうか。
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(赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
イラストはデンマン・ライブラリーより)
182-183ページ
『きれいな敬語 羞(はず)かしい敬語』
著者: 草柳大蔵
2002(平成14)年3月1日 第5版発行
発行所: 株式会社 グラフ社
その例として次の『坊っちゃん』が紹介されてるう。
(すぐ下のページへ続く)