アッと驚くマキアベリ!(PART 1)
上の絵の中のおっさんがマキアベリです。
フルネームは次のとおりです。
Niccolo di Bernardo Machiavelli
1469年に生まれ、1527年に亡くなってます。
多分知っていると思いますが、念のために、ちょっとひと言。
日本の戦国時代に当たりますが、当時の、イタリアは、
フィレンツェ市国(公国)の役人をしていた人物です。
1513年に、“The Prince” というタイトルの本を書きます。
これはいわば、政権の座にある者のための、
治世の書とも言われるもので、現在の考え方からすると、ひどくエゲツナイやり方で国を治める方法が書いてあります。
したがって,マキアベリズムと言う場合、たいてい、悪い意味に使われることが多いようです。
そういう本を書いたマキアベリもびっくりする、というのですから、藤原鎌足が愛読していた「六韜(りくとう)」という兵書がどのようなものであったか、大体想像がつくでしょう。
たぶんマキアベリは、この兵書を読んでいなかったでしょう。
私の知る限り、マキアベリが「六韜」を参考にしたとは、どこにも書いてありません。
この「六韜」のどこがすごいかと言うと、例えば、
■権力者がいたら側近になって徹底的におだてろ、そうすれば彼は反省を失い判断力が鈍るだろう。
■寵姫がいたらもっと美しいライバルを送り込め、そうすれば宮廷は二つに分かれて大変なことになるだろう。
(yang103.jpg)
■外交使節に隣国から優秀な人物が交渉にきたら話をまとめるな、愚鈍な人物のときにまとめろ、そうすればその人物が重んじられ優秀な人物は失脚し、隣国は弱まるだろう。
というわけで、政略、謀略を通して、
時の政治をどのように操って行けばよいかということが書かれているマニュアル本だったのです。
これには、さらに、「八徴の法」という人物の本性を見抜く八つ
の方法がのっています。
質問してみて理解の程度を観察
追及してみてとっさの反応を観察
間者をさしむけて内通を誘い誠実かどうかを観察
秘密を打ち明けてその人徳を観察
財政を扱わせて正直かどうかを観察
女を近づけてみて、人物の堅さを観察
困難な任務を与えてみて勇気があるかどうかを観察
酒に酔わせてみてその態度を観察
エゲツナイといえば、確かに、その通りには違いないわけですが、人間の弱いところ、痛いところを見極めて、なかなか意味のあることを言っています。
もちろん、まともなことも、たくさん書いてあります。
くだらないことばかり書いてある本だとしたなら、藤原鎌足が見向きもしなかったでしょうし、結局現代まで、伝わらなかったでしょう。
この六韜(りくとう)は、周の太公望の撰とされ、「荘子−徐無鬼」という本に「金版六囁」(「囁」は「とう」で「韜」に同じ)と出ています。
現存するものは、それに仮託して3世紀以降に作られた偽作であるという説もあります。
文韜・武韜・竜韜・虎韜・豹韜・犬韜の6巻からなっています。
ちなみにこのうちの「虎韜」から派生した言葉が、今日よく耳にする「虎の巻」という慣用語です。
また三略(さんりゃく)と呼ばれる兵書もあり、これは3巻からなる兵書です。
これも周の太公望の撰で、黄石公(こうせきこう)が土橋の
上で漢の張良に授けたと伝えられています。
しかし、これとても、後世の偽撰書だとする学者が居ます。
老荘思想を基調にした治国平天下の大道から戦略・政略の通則を論述したものですが、日本には遣唐使上毛野真備が初めて伝えたということになっており、「六韜」と併称して、「六韜三略」と呼ばれることが、よくあります。
日本人とは何か?
藤原鎌足が、なぜ六韜を愛読するようになったのか?
そんな疑問が頭をもたげませんか?
その疑問に答える前に、ここで日本とは何か?
日本人とは何か?をちょっとばかり考えてみたいと思います。
そうでないと、なぜ藤原鎌足が六韜を愛読していたのか、また、それを実践したのか、がよく理解できません。
まず、よく考えなくても分かることなのですが、日本へやってきた人はどういう人たちかというと、それ以前は強い人たちだったかもしれませんが、
戦争に敗れて逃げてきたか、自分が住んでいるところが、戦地になって追い出されてきたか、飢饉や、病気が蔓延して作物がなく、喰いっぱぐれて、着の身着のままでやってきたかの、いづれかです。
もっと時代をさかのぼって、人類史の上から見れば、アジア人がどうして体が小さいかということも、上のような理由で説明がつきます。
つまり、アフリカで、我われの祖先が生まれたわけですから、前のページの地図で見るように、そこから四方八方に広がっていったわけです。
(afroeve.gif)
では、どういう人たちが広がって行ったかといえば、端的に言えば、弱い人たちです。
この「弱い」にも二通りの意味があります。
肉体的に弱いのと、頭脳的に弱いということです。
当時のアフリカ人は肉体的にも、
頭脳的にも強かった。
したがって、肉体的に弱かった人たちが、ヨーロッパやアジアへと、生存競争に敗れ、新天地を求めて去って行ったわけです。
好奇心を満たすために、よその土地へ行くとか、旅行気分で他国へ行くとか、そういうことは、20世紀の後半になってからの話で、
それまでは、99パーセントまでが、喰うために他所へ移っていったわけです。
これは、アメリカの移民史を見ればすぐに分かることです。
アジア人は、そういうわけで、アフリカからアジアへと移住していった。
日本の原住民といわれるアイヌ人でさえ、祖先をたどってゆけば、
そういうアジア人のなかで生活していた時期があったはずです。
ところで、その当時、逃げていった人たちのたどり着いた土地に、
誰も居なかったのか?といえば、決してそうではなかったわけです。
どういう人たちが住んでいたかと言えば、ネアンデルタール人のような人たちが居たわけです。
最近の遺伝子の研究に見るように、
どうやら、我われは、
この人たちから進化してきたのではない事が分かってきました。
それでは、ネアンデルタール人は一体どういう人たちかといえば、もちろん、我われアジア人とは比べものにならないくらいに、肉体的には頑強です。
脳味噌の量も我われとほぼ同じぐらい持っていました。
量だけから言えば、中には、我われよりも、多くの脳味噌を保持していた人も見つかっています。
しかし決定的に我われよりも劣っていた点がありました。
それは何かというと、最近の研究に因って、彼らが言葉をうまく操れなかったということが分かってきたのです。
解剖学的に調べると、彼らの、喉の構造から、余りよく発声ができなかった。
つまり、そのような理由で、たくさんの言葉を持っていなかったらしい。
このことは、戦争のような、
団体行動をとる時には、致命的な欠陥です。
コミュニケーションがよくできないということは、戦略、謀略が効果的に使えないということになります。
これはどういうことかといえば、体の小さなアジア人が、肉体的に頑強なネアンデルタール人に対して、『六韜』を実践することに因って、勝ちぬいてきたようなものです。
そうすることで彼らの土地を奪って、生存競争に生き残ったわけです。
おそらく、生存競争に敗れて絶滅したネアンデルタール人から見れば、
我われホモ・サピエンス・サピエンスは、全く、ずるがしこい人間に見えたでしょう。
ちょうど今の我われが、『六韜』を読んでエゲツナイと感じるように。
ここで、日本に焦点を当てて考えてみたいと思います。
気の遠くなるような年月を経て、ようやくアイヌ民族が東の果てに、到達しました。
果てしのない生存競争に勝ち抜いて、やれやれと思ったことでしょう。
もうこれより東へは行くことができない。
大陸には、もっともっと広い土地があるのに、
どうしてこんな地の果てにやってきたのか?
理由は簡単です。
このアイヌ民族は、もともと好戦的な民族ではなかったからです。
大陸では、町の周りに城壁をめぐらせて、同じアジア人同士が果てしもない戦いを繰り広げている。
アイヌ民族は、もう戦争に懲り懲りした民族だったでしょう。
町の周りに城壁をめぐらすことなど、はなから、ばかげたことだと思っていたようです。
それよりも、みんなで仲良くして、作物でも作って、のんびりと暮らそうじゃないか、と。
したがって、聖徳太子の『和の精神』こそは、先住民族のアイヌ人から受け継いだに違いないのです。
絶対に大陸的発想ではありえない。
その証拠に、魏志倭人伝には、日本では、町の周りに城壁をめぐらしてないということが書かれ、大陸人はびっくりし、あきれています。
いずれにしても、戦争を避けて、暮らそうとすれば、アイヌ民族のように、僻地を選んで生活するしかないわけです。
しかし、いつまでも、そのようなアイヌ民族を、そおっとしておいてくれない。
前に書いたように、戦争に敗れて逃げて来るものが後を絶たない。
自分が住んでいるところが、戦地になって追い出されて来る者も居る。
飢饉や、病気が蔓延して作物がなく、喰いっぱぐれて、着の身着のままでやってくる人たちもいる。
日本はさしずめ、そういう人たちの、吹き溜まりのようになってしまった。
迷惑するのは、先住民族のアイヌ人たちです。
この後の、アイヌの歴史というのは、現在の日本人の先祖に追い立てられて、北海道の片隅に押し込められた歴史です。
したがって、アメリカ・インディアンが、現在のアメリカ人たちの祖先に追われていった歴史と全く同じといっていい。
「歴史は繰り返す」、と言われているとおり、このことは、まさに、その言葉を実証しているものです。
したがって、先住民族のアイヌ人を原日本人と見なす場合、現在日本に住んでいる日本人の95パーセント以上の人たちは、原日本人ではないことになります。
むしろ、在日百済人の子孫、在日新羅人の子孫、在日高句麗人の子孫、在日呉人の子孫というべきところです。
『呉服』という言葉を知っていると思いますが、
これは、呉人が着ていた服のことです。
呉というのは、もちろん下に示す地図で見るとおり中国にあった国です。
(3goku.gif)
さきほど、引き合いにだした魏志倭人伝というのは上の地図に見える、魏という国の人が、倭人、つまり、その当時の日本人について書いた
文章です。
日本人が使っている漢字の読み方には、漢音、呉音、唐音、宋音と大体この4通りの読み方があります。
もちろん、すべての漢字に4通りの読み方があるというわけではありません。
とにかく、日本語で使われている漢字の読み方に、漢音と呉音が多いということを考えれば、いかに、この時代に、日本と中国の交流が激しかったかがよく分かります。
ということは、当然、文物だけではなく、多くの人間が、漢や呉からやってきたわけです。
もちろん、その多くの人たちが、古代の朝鮮半島を経由してやってきたはずです。
おそらく、現在日本に住む99パーセントの日本人は『呉服』という言葉を知っているでしょう。
しかし、聖徳太子が生まれる300年以上も前から、この呉からやってきた人たちが、今で言うなら、最新流行のパリのファッションとでも呼ぶべき、呉服を持ち込んだということは,すっかり忘れていることでしょう。
しかし、日本語としてすっかり定着して、いまだに、呉服屋さんという人たちが居ます。
じゃあ、今、日本に
住んでいる人は
日本人でないの?
これは重要な問題です。
ページを改めて、お話したいと思います。
次のリンクをクリックして読んでみてください。
『一体、日本人とは?』
『マキアベリもビックリ、藤原氏のバイブルとは?』より
(2003年7月17日)
デンマンさん!。。。どうして『新しい日本古代史』の中から上の記事を書き出したのですか?
上の記事にコメントをもらったのですよ。
あらっ。。。珍しいことですわね?
そうですよ。 僕の記事にはめったにコメントをがつきませんからね。
それで、どのようなコメントをいただいたのでござ〜♪〜ますか?
次のようなコメントです。
From: servicemail@bravenet.com
To: barclay1720@aol.com
Date: Fri, Nov 2, 2012 12:18 am
MESSAGE SENT THROUGH YOUR WEBSITE
This form was submitted: Nov 02 2012 / 00:18:28
userid = barclay1720
FreeCity = oldhist-rikutou-superb
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Comments :
面白い読み物です
Thank you for using Bravenet Email Form Processing!
あらっ。。。コメントってぇ、たったのこれだけですか?
そうですよ。
これはイタズラではありませんか!?
あのねぇ〜、イタズラをするような愚か者は上の記事にはコメントを書かないのですよ。
どうしてデンマンさんは、そのように断定なさるのですか?
卑弥子さんもコメントを書けば解るけれど、投稿すると英語のサイトに誘導されるのですよ。 だから、真面目にコメントを書く人以外は、引いてしまうのですよ。
。。。んで、身元はわかったのですか?
IPアドレスから静岡県に住んでいる人だということが判りました。
(すぐ下のページへ続く)