あなたの中の阿修羅(PART 1 OF 3)
興福寺の阿修羅像
デンマンさん!。。。どうして「あたくしの中の阿修羅」を取り上げたのでござ〜♪〜ますか?
別に卑弥子さんの中の阿修羅に拘(こだわ)っているわけではないのですよ。 この記事を読んでいるネット市民の皆様を「あなた」と読んでいるわけで。。。
でも、どうして急に「阿修羅」を取り上げたのでござ〜ますか?
夕べ本を読んでいたら、たまたま次の箇所に出くわしたのですよ。
アスラとインドラ (阿修羅と帝釈天)
(indora02.jpg)
インドラ (帝釈天)
アスラに美貌の娘がいた。
名をスジャーといい、またシャナーとも呼ばれる。
神々の世界で美人コンクールがあれば、間違いなく彼女は栄冠に輝くだろう。
それほどの美人、いや美神であった。
父親のアスラは、この娘をインドラの妃(きさき)にしたいと考えていた。
「力」の神のインドラと「正義」の神のアスラの娘とが結婚すれば、理想のカップルになるに違いない、と信じて。
ところが、「力」の神であるインドラは傍若無人のせいかくで、直行径行タイプの神格である。
彼はある日、街でシャチーを見るや否や、
(これはいい女だ……)
と思い、彼女を拉致して自分の宮殿に連れ込み、暴力でもって犯し、自分の「女」にしてしまった。
さあ、怒ったのは父親のアスラである。
(絶対に許せぬ……)
アスラはそう考え、武器を持って立ち上がり、インドラに挑む。
だが、悲しいことに、アスラは「正義」の神であり、インドラは「力」の神だ。
「正義」が「力」に勝てるわけがなく、アスラは敗北を喫する。 (略) 彼は三度、四度と、執拗にインドラに挑みかかる。
アスラは執念の鬼となる。
(中略)
阿修羅像といえば、まず最初に思い出すのが、あの三つの顔を持った興福寺阿修羅像である。
それほどにあの像は美しいい。
幸いに、わたしは立派な写真を手に入れた。
そして、ベッドの横にその写真を飾った。 (略) 全宇宙を支配していたアスラがインドラやヴィシュヌのペテンによって神々の座を追われることに、なんとも苛立たしい思いを感じはじめたのである。
アスラとインドラの対立抗争は、そっくりそのまま仏教に持ち越された。
インドラ神は仏教において「帝釈天」の名を得た。 (略) では、アスラ=阿修羅はどうか……。
阿修羅は、まだ「天」であった。
あるいは、ときに、“非天”と呼ばれることもある。
「アスラ(asura)」の語が、通俗語源解釈によって a-sura と解され、この a を「否定」の意味にとったためである。
「スラ(神)でないもの」ということで、“非天”と呼ばれる。
(中略)
仏教の本来の面目は反政治的であり、それゆえに反体制的である、と。
ただし、ここで体制的というのは、強者の救いを優先させる態度を支持することであり、反体制とは、そうした制度を否定して、
「まず弱者を……」
との叫びを発することをいう、としておこう。
そして本来の仏教のあり方が反体制的であるのなら、何もわざわざアスラだけを、反体制のチャンピオンに仕立て上げる必要はない。
わたしが阿修羅への感情移入を中断した理由は、まさにここのところにあった。
しかし、それにしても、やはり戦う阿修羅には魅力がある。
そんな阿修羅の魅力を思うとき、ふと考えてみることがある。
もしも、決して強者に加担することなく、弱者の側に立って戦う阿修羅がいたとすれば、……。
と、考えたとき、わたしはもう一度、あの興福寺の阿修羅像に思いを致すのであった。
あの像に、わたしは涙の表情を読みとる。
悲しみに耐え、ぐっとこらえたときの表情が、怒りと恨みと綯(な)い交(ま)ぜになって、あの天平の仏像のうちに刻されている。 (略) そうなのだ。 あの阿修羅は、人間の苦しみ、悲しみに同情し、ともに哭(な)きつつ、弱者の側に立って戦う存在であるのかもしれない。 (略) けれども、もしそうだとすれば、それはもう阿修羅ではない。
阿修羅の名を持った一個の歴然たる天である。
それはもう一つの阿修羅なのだ。
(デンマン注: 読み易くするために改行を加えています。
赤字はデンマンが強調。
写真はデンマン・ライブラリーより)
10-11、140-141、230-231ページ、
『わたしの中の阿修羅』
2005(平成17)年4月30日 初版第1刷発行
著者: ひろさちや
発行所: 株式会社 佼成出版社
この部分を読んで阿修羅のことを考えたのですか?
その通りですよ。
でも、なぜ阿修羅なのでござ〜ますか?
あのねぇ〜、僕はかつて興福寺の阿修羅像について次のような記事を書いたことがある。
日本女性の愛と美の原点
この女性は西暦734年当時16才でした。
どうですか?
なんとなく現在でも通用する容貌を備えていると思いませんか?
。。。と言っても、これは興福寺の国宝館に安置されている阿修羅像です。
僕は、この仏像のモデルになった女性のことを話しています。
この阿修羅像を造ろうと言い出したのは誰あろう光明皇后(光明子)なんですよね。
しかも、その目的は亡くなった母親である橘三千代の供養のためなのです。
そして、そのモデルになった女性と言うのは、聖武天皇と光明皇后の娘---当時16才の阿部内親王なのです。
この阿部内親王こそ、後に孝謙天皇(称徳天皇)となる女性なのです。2度女帝になった人です。
阿部内親王は、聖武天皇が皇太子時代の18才の時(718年)に、安宿媛(あすかべひめ:光明子)との間に生まれました。
聖武天皇が即位して3年後(727年)に、光明子との間に男の子が誕生します。
この子は基(もとい)親王と呼ばれ、生後わずか1ヶ月あまりで正式に皇太子になります。
まだ立つことすらできない乳児を皇太子にすることは、当時でも無法なことでした。
藤原一族が、何が何でも自分たちの血とつながりのある親王をゆくゆくは天皇にしたいためだったのです。
ところが、このような無法なことをあたかも天が許さないかのように、この基親王はその1年後に亡くなったのです。
基親王の死は、聖武天皇一家と藤原一族に深刻な悩みをもたらしました。
上の系図で見るとおり、聖武天皇の母親は宮子です。
聖武天皇の皇后は光明子です。
どちらの女性も藤原不比等の娘です。
実は、藤原不比等は持統天皇と組んで天皇家の“設計図”を描きました。
つまり、持統天皇の血を絶やさないような形で皇統を継続させてゆく。
その過程で、藤原氏の血を天皇家に取り込んでゆく。
上の系図は、正にその事を物語るような“証拠”となっているのです。
持統天皇から続いている持統皇統と藤原氏は上の系図で見るように強固な姻戚関係を結んでしっかりと結びついていたのです。
しかし、女帝など即位させずとも天智天皇と天武天皇の血を引く天皇後継者が他にも居たのです。
天武天皇には舎人(とねり)、長(なが)、穂積(ほづみ)、弓削(ゆげ)、新田部(にいたべ)、刑部(おさかべ)という6人の皇子が居ました。
天智天皇にも施基(しき)皇子が居たのです。
この皇子たちは上の系図の女帝たちよりも天皇になる資格が充分にあったのです。
しかし、持統天皇と藤原不比等はこの皇子たちを天皇にはさせなかった。
なぜか?
この皇子たちには持統天皇と藤原不比等の血が流れていないためでした。
しかし、すべてが持統天皇と藤原不比等の思い通りには運ばなかった。
聖武天皇と光明子の間に11年目にして生まれた男の子(天皇後継者)が満2才になる前に亡くなってしまったのです。
つまり、藤原氏につながる皇位継承権者が居なくなってしまったのです。
これは、藤原氏にとっては危機でした。
どうしたらよいのか?
まるで、天が持統天皇と藤原不比等の勝手な“設計図”を白紙に戻すかのように基親王の命を召し上げてしまった。
さらに、持統天皇と藤原不比等のわがままを懲らしめるかのように、皮肉にも天は聖武天皇の妃の県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)という女性に男の子を産ませたのです。
この子は安積(あさか)親王と名づけられました。
この親王は将来聖武天皇の跡を継いで天皇になる可能性が充分にあります。
しかし、藤原氏にとって、藤原氏以外の女性が産んだ親王が天皇になることは我慢がならない事です。
さらに、当時、他にも皇位継承権を持つ天武天皇の皇子の舎人親王と新田部親王が健在でした。
この皇子のどちらが天皇になっても、持統天皇の血と藤原氏の血はなくなってしまう。
藤原氏にとって、そういうことは絶対に許すことができないことでした。
すでに藤原不比等は亡くなって居ませんが、その子供たちがその当時、政治の実権を握ろうとしていました。
藤原4兄弟は額をつき合わせるようにして策略をめぐらせたのです。
こうなったら使える“駒”は阿部内親王しかいない。
何とかしてこの女の子を天皇位につかせることはできないものか?
そのためには光明子を皇后に昇格する必要がある。
そうすれば、光明子が中継ぎの天皇になることができるし、その娘の阿部内親王に皇位を譲ることもできる。
しかし、皇后位は皇族出身に限られており、藤原不比等と橘三千代の娘である光明子にはその資格がないのでした。
ところで、このようなことを充分に考えて、藤原不比等は聖武天皇には皇族の出身である妃をおかずに光明子を事実上の“皇后”として正妃の座に着かせていたのです。
藤原4兄弟は政治の実権を握る前に、考えねばならない強力なライバルが居ました。
それが、当時の政府のトップに居た左大臣の長屋王です。
長屋王は臣下の出の女性が皇后になることを認めないに違いない。
この際、“目の上のタンコブ”である長屋王を葬り去りたい。
藤原4兄弟の陰謀は、こうして実行されたのでした。
(すぐ下のページへ続く)