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色男不比等(PART 1)

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色男不比等(PART 1)







デンマンさん。。。「色男不比等」ってぇ、もしかして藤原不比等のことでござ〜♪〜ますか?



もしかしなくても藤原不比等のことですよ。 「不比等」という名前は彼しかいないでしょう!

でも、どうして急に藤原不比等が色男になってしまうのでざ〜ますか?

いや。。。別に最近になって藤原不比等が色男だったと判明したのではありませんよ。

あらっ。。。歴史的にもに藤原不比等は色男だったのでござ〜ますか?

もちろんですよ。

その証拠でもあるのですか?

あのねぇ〜、何度も言うようだけれど僕は根拠の無い事は言わないように努力しているのですよ。

分かりましたわ。 前置きは結構でざ〜ますから、その根拠とやらを見せてくださいましなァ。

卑弥子さんがそう言うのなら、まず次のYouTubeを見てください。

小鹿野こども歌舞伎編 

『妹背山婦女庭訓』

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あらっ。。。可愛い子供たちが歌舞伎を演じているのではござ〜ませんかア!



そうですよ。 卑弥子さんも上のビデオクリップを見てビックリしたでしょう!

かなり本格的でござ〜ますわね。 小鹿野というのは町の名前でござ〜ますか?

そうですよ。 僕のふるさとの埼玉県にある町ですよ。


(saitama2.jpg)


小鹿野歌舞伎について

約二百数十年前の江戸時代中頃に始められた。
町内には寛政4年(1793年)に歌舞伎を上演した記録も残る。
文化・文政期(1804〜30年)に活躍した初代坂東彦五郎が一座芝居を組織し、その後”勇佐座””天王座””大和座”と引き継がれ、秩父地域はもとより群馬県まで興行を行っていた。
映画・テレビの影響を受け、昭和30年代以降は衰退の時期を迎えたが、旧大和座系の役者と町内各地で地芝居を続けてきた人たちが合同して昭和48年に小鹿野歌舞伎保存会を結成、昭和50年には埼玉県文化財の指定を受けている。

町内では、十六・小鹿野・津谷木・奈倉・上飯田・両神小森に伝承され、それぞれ地元の神社の祭に氏子が中心となって歌舞伎を演じている。
町内には常設舞台が10箇所程度残り、掛け舞台や祭り屋台(山車)に芸座・花道を張り出す舞台もある。
近年は子ども歌舞伎、高校生の歌舞伎、奈倉女歌舞伎などの活躍も見られる。
衣装・かつら・下座・化粧・振り付けなどすべて町民でこなし、地芝居のデパートとも言われている。



出典: 「小鹿野町」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




。。。で、子供たちが演じた『妹背山婦女庭訓』が藤原不比等が色男だという証拠なのでござ〜ますか?



その通りですよ。 この『妹背山婦女庭訓』は、あの有名な「大化の改新(645年)」を題材にして作られたのですよ。

そんな昔のことを題材にして作られたのでござ〜ますか?

藤原不比等や彼の父親の藤原鎌足が登場するのだから、ずいぶん古い話なのです。

。。。で、史実に基づいて作られたのでござ〜ますか?

いや。。。 『妹背山婦女庭訓』が作られたのは1770年頃ですよ。 「大化の改新」が進められたのは645年だから、1000年以上も前の歴史的事件を扱った演目なのです。 だから史実からは、かなり離れた脚色になっている。 神話や伝説なども取り入れられているのです。 蘇我入鹿を天皇の座に着こうとした「恐るべき怪物・大悪人」にしたてあげて、善玉が悪玉をやっつけるという現代のファンタジーアクションに通じる構成になっているのですよ。

。。。で、このお話が人気があったのですか?

作られたのが1770年頃です。 上のクリップで見たように現在でも、小鹿野町の子供歌舞伎で『妹背山婦女庭訓』が演じられている。 劇作家が作ってから、ほぼ20年後の寛政4(1793)年に歌舞伎を上演した記録が残っているということは、まず間違いなく、その時にも『妹背山婦女庭訓』が演じられたに違いない。

それ程『妹背山婦女庭訓』が、その当時の庶民に受けたのでござ〜ますか?

今で言えば1000年前の夢とロマンの「時代劇」ですからねぇ、ロミオとジュリエットのような話まである。 だから、人気があったと思うのですよ。

。。。で、どのようなお話なのでござ〜ますか?

ウィキペディから「あらすじ」を書き出すから、卑弥子さんもじっくりと読んでみてください。


妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)


(imo02.gif)

人形浄瑠璃及び歌舞伎の演目のひとつ。
全五段、明和8年(1771年)の1月28日より大坂竹本座にて初演。
近松半二・松田ばく・栄善平・近松東南・三好松洛の合作。

大序

【大内の段】

天智天皇は病に侵され盲目となり、政務を執ることが適わない。
そのすきを狙った蘇我蝦夷は、中臣鎌足に謀反の濡れ衣を着せて失脚させる。

【春日野小松原の段】

大判事清澄と太宰の後室定高は領地争いで対立している。
だが清澄の子・久我之助と定高の娘・雛鳥は恋仲である。
二人が仲良く恋を語らっているところへ鎌足の娘・采女の局が逃げてくる。
采女の局は帝の寵を受けていたが、蝦夷が自分の娘・橘姫を帝の后に立てようと望んだことにより身に危険が及び、宮中を脱出したのである。
久我之助は采女の局を変装させて窮地を救う。

【蝦夷館の段】

蝦夷の子入鹿は、父の暴挙に怒り座禅をしているが、思いつめて父に意見する。
怒った蝦夷は妻を斬り、入鹿に謀反の連判状を渡すよう詰め寄るが、蝦夷謀反の取り調べに大判事清常と安倍中納言が来る。
入鹿は大判事に連判状を渡し、父を追い詰め切腹させる。
だがこれはすべて父に代わり帝位を握ろうとする入鹿の計略であった。
入鹿は父・蝦夷が白い牡鹿の血を妻に飲ませて産ませたので超人的な力を持ち、日本の支配者たらんことを宣言し宮中に攻め入る。

二段目

【猿沢池の段】

盲目の帝は采女が猿沢池に身を投げたことを聞いて、池に行幸する。
そのとき凶事の知らせ。
入鹿が宮中に乱入し、帝位を称したというのだ。
鎌足の息子・藤原淡海(藤原不比等)は、帝を猟師・芝六、実は家臣・玄上太郎の家に匿う。

【つづら山の段】

芝六は入鹿を滅ぼすには爪黒の鹿の血と嫉妬深い女の血が必要と知り、禁を破って葛籠山で爪黒の神鹿を射殺す。

【芝六住家の段】

山中の芝六の家は帝が逃げ込んだことで、にわか仕込みの宮中に早変わり。
多数の官女や公家が詰め、そこに米屋が掛取りの催促に来るわ、帝の無聊を慰めるために芝六の子の三作が萬歳を披露するわで大騒ぎである。
芝六が神鹿を殺したことが露見し、その罪を三作が被って石子詰の刑を受けようとするが、鎌足の働きで助けられる。
采女と神鏡も見つかり、神鏡の力で帝の眼も治る。
こうして鎌足たちによる反撃が始まる。

三段目

【花渡しの段】

権力を手にした入鹿は暴政の限りを尽くす。
清澄と定高に久我之助をわが家臣に、雛鳥を我が側室にせよと無理難題を言い渡し、花の枝を渡しその返事として吉野川に流せと命令する。
だが入鹿は久我之助については采女の局の行方を知っていると見て、召抱えると称して拷問し白状させる魂胆だった。

【山の段】

「古は神代の昔山跡の、国は都の初めにて、妹背の初め山々の、中を渡るる吉野川、塵も芥も花の山、実に世に遊ぶ歌人の、言の葉草の捨て所」という格調高い浄瑠璃の詞で始まる。
吉野川を挟んで大判清澄と太宰家の後室・定高の両家は満開の桜の妹山、背山に住む。


(imo04.jpg)

雛鳥と久我之助は川越しに、両家の不和のために一緒にならない身の不幸を嘆く。
思いつめた雛鳥が「とても叶わぬ浮世なら、法度を破って此川の、早瀬の波も厭いはせぬ」の浄瑠璃の言葉通りに川に飛ぶ込もうとするのを「ヤレ短慮なり。雛鳥」と久我之助が咎める。

そこへ「打ちしおれ、登る坂さえ別れ路は、力難所を往く心、空に知られぬ花曇り」の浄瑠璃で清澄、定高が重い足取りでそれぞれの館に帰ってくる。
入鹿の命には従うことができないと決意した二人は、久我之助、雛鳥に事の顛末を語り、涙ながらに子を手にかける。
たがいに相手の子の命を救おうとするのだが、川越しに双方とも死んだことを知り、「嫁入り道具、行器、長持犬張子、小袖箪笥の幾棹も、命ながらへ居るならば、一世一度の送り物、五丁七丁続く程」の華やかにも悲しい床の浄瑠璃に合わせ、定高は雛鳥の首を雛人形とともに川に流し大判事に受け取らせる。(雛流し)

こうして二つの家は過去の行きがかりを捨てて和解し、二人は死して夫婦となる。

四段目

【杉酒屋の段】

三輪山のふもとの杉酒屋の娘お三輪は、隣に住む烏帽子折の美男子園原求女に一目ぼれする。
実は、求女こそ藤原不比等の世を忍ぶ仮の姿であった。
だが求女には入鹿の妹・橘姫という恋人がいた。
求女は入鹿の館に潜入するため、姫の裾に赤糸をつけて跡を追う。
お三輪も求女の裾に白糸をつけて追跡する。


(imo06.jpg)

道行恋苧環(みちゆきこいのおだまき)

夜の布留(ふる)の社(石上神宮)で繰り広げられる、求女をめぐっての橘姫とお三輪の争いを見せる所作事。
最後は求女が橘姫を再び追いかけ、お三輪も求女のあとを追って行く。
平成15年(2003年)の歌舞伎座では人形振りで演じられた。

【三笠山御殿(金殿)の段】

「栄うる花も時しあらば、すがり嵐のあるぞとは いざ白雲の高座、新たに作る玉殿は、彼の唐国の阿房殿、茲に移して三笠山、月も入鹿が威光には覆われますぞ是非なけれ」の浄瑠璃で、三笠山の麓に作られた宮殿が舞台に現れ、家臣の宮越玄蕃、荒巻弥藤次が入鹿の栄光を称える。 入鹿は官女たちを侍らせて宴会をしている。そこへ難波の漁師鱶七という者が鎌足の使いと称してやってくる。いぶかる入鹿に鱶七は、入鹿の家臣になるという鎌足からの手紙を見せるが、納得しない入鹿は実否をただすまで鱶七を人質にせよと言い捨て奥に入る。豪胆な鱶七はさまざまな罠にもびくともせず、悠々と奥に入る(鱶七上使)。

「されば恋する身ぞつらや、出ずるも入るも、忍ぶ草、露踏み分けて橘姫」の床の浄瑠璃で、橘姫が帰ってくる。
そのあとを赤い糸をしるべに求女が追ってくる。
橘姫は求女に、妻になるため、命にかけて入鹿が所持する十握の宝剣を奪うことを誓う(姫戻り)。

「迷いはぐれし、かた鶉、草の靡くをしるべにて、いきせきお三輪は走り入り」の浄瑠璃になり、お三輪は求女に付けた糸が切れながらもようよう御殿にたどりつき、来かかった豆腐買いの女から求女と橘姫との祝言がおこなわれると聞いてあせる。
御殿の奥に入ろうとするが、官女たちに見つかりさんざんに嬲られる。
心傷つき帰ろうとするお三輪の耳に、花嫁花婿をはやす声が聞こえる。
ついに嫉妬に狂ったお三輪は、髪振り乱し奥へ駆け入ろうとすると、鱶七に刺される。
鱶七は実は鎌足の家臣金輪五郎であった。
五郎はお三輪に、「女悦べ。それでこそ天晴高家の北の方、命捨てたる故により、汝が思う御方の手柄となり入鹿を滅ぼす術の一つ、オゝ出かしたなあ」と声をかけ、主君の命を受け入鹿を討つべく来たのであるが、爪黒の鹿の血と嫉妬に狂う女の生血を鹿笛にかけて吹けば、入鹿の力が衰えることを知り、不憫ながらもお前を刺したと物語る。
お三輪は自己犠牲が恋人求女、実は藤原淡海のためになることを知り、嬉しげに死んでいく(竹雀)。

そして鹿笛の霊力で魔力の衰えた入鹿は、金輪五郎をはじめとする人々によってついに討たれるのであった。

五段目

【志賀都の段】

入鹿が討たれてめでたく帝は復位、平和が訪れる。
志賀の都で忠臣たちへ恩賞が授与され、久我之助と雛鳥の供養が行われる。



出典: 「妹背山婦女庭訓」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




あらっ。。。求女こそ藤原不比等の世を忍ぶ仮の姿であると書いてありますわね。 歴史的にも藤原不比等は女性にもてたのでござ〜ますか?



藤原不比等は日本史の上で藤原氏を立ち上げた人で政治的には、ずば抜けた才覚を表した人だけれど、女性問題でも政治以上に手腕を見せた人なのですよ。

マジで。。。?

だからこそ、「大化の改新」から1000年以上時間がたっているにもかかわらず、藤原不比等の評判は下々にまで伝わっていた。 それで1770年当時の劇作家の近松半二が藤原不比等を題材にして「求女」とダブらせて道行恋苧環(みちゆきこいのおだまき)という場面を作り上げた。

『道行恋苧環』

「妹背山婦女庭訓」のお三輪と求女

(近鉄奈良駅前にて)

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。。。で、歴史的にも藤原不比等は女性に対して手腕を見せたのでござ〜ますか?



そうなのですよ。 だからこそ現在にまで「妹背山婦女庭訓」という物語として語り継がれているのです。 かつて藤原不比等について書いたので卑弥子さんもじっくりと読んでみてください。

 (すぐ下のページへ続く)


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