ブス 家持 本音(PART 1)
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デンマンさん。。。 あんさんは、またけったいなタイトルを付けはりましたなァ〜? まるで三題噺やんかァ〜。。。
あきまへんか?
ネット市民の皆様の目を引きつけようとする下心が見え見えですやん!
めれちゃんは、そないに思うのかァ〜?
それ以外に考えられしまへん。
あのなァ〜、実はバンクーバー図書館から借りてきた次の2冊の本を読んだのやがなァ〜。。。
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赤枠で囲みはった『美人の日本語』と青枠で囲みはった『日本の空をみつめて』を読みはったん?
そうやねん。
。。。で、その中にブスと大伴家持(やかもち)はんが出てきましたん?
そういうことやねん。
そやけど、ブスって誰のことやのォ〜?
次の小文を読めば、めれちゃんにも想像がつくと思うねん。
恋忘れ草
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萱草(かんぞう)の異称です。
初夏から夏にかけて咲く、百合のような美しい花で、昔から、つらい恋を忘れさせてくれる花として、和歌にも詠まれてきました。
漢方薬で使われる甘草(かんぞう)と同じ音ですが、甘草はマメ科、萱草はユリ科の植物です。
忘れ草 我が下紐(したひも)に つけたれど
醜(しこ)の醜草(しこくさ) 言(こと)にしありけり
『万葉集』 大伴家持
忘れ草を下着の紐につけたれど、ひどい草だ。 全然違うじゃないか。
醜の醜草とは、よほど腹に据えかねたのでしょう。
つらい恋を忘れさせる効きめはなかったようです。
恋忘れ貝というのもあります。
昔は、恋を忘れたい人が多かったのでしょうね。
(注: 赤字はデンマンが強調。
写真はデンマン・ライブラリーより
読み易くするために改行を加えています)
6月15日のページ 『美人の日本語』
著者: 山下景子
2005年7月20日 第16刷発行
発行所: 株式会社 幻冬舎
ブスは出てきまへんでぇ〜。。。
醜の醜草という響きから、わてはブスを想い浮かべたのやがなァ〜。。。
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それは、あんさんの思い違いですやん。 この歌は家持はんが、従妹で将来の妻になる坂上 大嬢(さかのうえの おおいらつめ)はんに贈った歌ですやんかァ。 つまり、忘れることができへん。。。 そないに思い焦がれている女性が坂上大嬢はんですやん。 そやさかいに、醜の醜草は ブスとは関係あらへん。
あれっ。。。 めれちゃんは、この歌を知っておったのかァ〜?
あたりまえやんかァ!
。。。ん? あたりまえ。。。? どないなわけで、そないに言うねん?
あんさんは忘れてしまいはったん?
何を。。。?
何をってぇ〜、かつてあんさんは次の記事の中で大伴家持はんを取り上げておりましたのやでぇ〜。。。
■『萌える恋歌の裏に』
(2011年5月7日)
おおおォ〜。。。 めれちゃんの萌え萌えの姿を見て思い出したでぇ〜。。。 そう言えば、めれちゃんと次の萌え萌えの短歌について語りおうたのやなァ〜。。。
くちづけ
罪深き
ことと知りつつ
この夜も
きみのくちづけ
もとめて止まぬ
by めれんげ
2009.01.14 Wednesday 14:21
『即興の詩 冬枯れ』より
『めれんげさんと六条の御息所』に掲載
(2010年2月12日)
あんさん。。。 やっと思い出してくれはったん? うふふふふふ。。。
めれちゃん。。。 もし万葉時代に住んでおったら、大変なことになっておったでぇ〜。。。
どないなわけで、あんさんはそないな事を言わはるのォ〜?
めれちゃんが家持の上の歌を盗み聞きしたら、間違いなく家持のおっさんに近づいて「きみのくちづけ もとめて止まぬ」と言いながら関係を迫ったに違いないねん。
あんさん! いい加減にしいやあああァ〜。。。 わたしが、そないなハシタナい真似をするわけないやろう! そないな事よりも「忘れ草 我が下紐に… 」がどないしたと言うねん?
あのなァ〜、家持はんが詠んだ上の歌は、従妹で将来の妻になる坂上 大嬢(さかのうえの おおいらつめ)はんに贈った歌ではないと、わては思うねん。
そやけど、どの参考書を見ても。。。 それにネットで調べても上の歌は家持はんが坂上 大嬢はんに贈った歌やと書いてありますやん。
確かにそうやァ。。。 そやけど、わては違うと思うねん。
どないなわけで、あんさんはそないな事を言わはるのォ〜?
それを説明する前に次の小文も読んで欲しいねん。
このような悲秋感覚が普遍化するのは中国では漢の時代、日本では古今和歌集(平安時代)あたりからで、中国最古の詩集『詩経』や日本の万葉集には「秋は悲しい」と詠んだものは少ないという(『唐詩歳時記』植木久行)。
最も喜ばしい収穫の季節の秋が悲しくなったのは、農業の生産現場から離れた宮廷の文人たちが詩歌を詠むようになってからであり、物心両面にある程度の余裕ができはじめて、「洗練」とか「優美」といったものとともに、秋の感傷が生まれたのかもしれない。
もっとも『大漢和辞典』では、春傷、春恨、春慮、春心など春の物思いを表した言葉もたくさん載っている。
春の野に 霞(かすみ)たなびき うら悲し
この夕影に うぐいす鳴くも
(万葉集・大伴家持)
この歌が詠まれたのは現行暦(グレゴリオ暦)では753年4月5日、清明のころ。
奈良の都は、花の梢(こずえ)に晩春の風が光る季節だった。
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前年、東大寺の大仏開眼供養が行われたが、造営の財源確保の功績を自負する家持の名は、叙位の名簿から洩(も)れていた。
この歌の背景には、その後の彼の人生の波乱の予感があったに違いない。
(注: 赤字はデンマンが強調。
写真はデンマン・ライブラリーより
読み易くするために改行を加えています)
176ページ 『日本の空をみつめて』
著者: 倉嶋 厚
2009年11月13日 第3刷発行
発行所: 株式会社 岩波書店
家持はんが詠んだ上の歌がどうやと言うのォ〜?
あのなァ〜。。。 家持はんは、うららかな春の日に鶯が鳴いているにもかかわらず「悲しい」と言ってるねん。 春のうららかな日に鶯が鳴いていたら、普通の人ならば、なんとなく心が癒されて、ウキウキしてくるねん。 それなのに「悲しい」と言っているのは、実は、差し障りのないように霞と鶯を持ち出して歌を詠んでいるけど、それは建前(たてまえ)で、本音は「東大寺の大仏開眼供養にあたって、私には造営の財源確保の功績があるはずだ。 それなのに、わざと私の名前を名簿からはずしている。 このような陰険な事が朝廷でまかり通っているのは、なんとも悲しいことだ」と詠んでいるねん。
そうやろか?
めれちゃん! 思い出して欲しいねん。 わては、かつて次のように書いたのやでぇ〜。。。
この大伴家持と言う人は歌人と言うよりも政治家、あるいは政治評論家と呼んだ方がこの人の人物像をより的確に表現する事ができると僕は思いますね。
なぜなら、この人物の経歴を見てみると実に良く分かりますよ。
“藤原政権”に反抗的だった人で、そのために都から追放されたこともある人です。
大伴 家持 (おおとも やかもち)
養老2年(718年) - 延暦4年8月28日(785年10月5日)
奈良時代の政治家、歌人、三十六歌仙の一人。
祖父は大伴安麻呂。
父は大伴旅人。
弟に大伴書持がいる。
叔母には大伴坂上郎女がいる。
鑑真を日本に密航させた大伴古麻呂は、大叔父と言われている。
『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父安麻呂、父旅人と同じく政治家として歴史に名を残す。
天平の政争を生き延び、延暦年間に中納言まで昇る。
天平10年(738年)に内舎人と見え、天平12年(740年)九州の大宰府にて藤原広嗣が起こした乱の平定を祈願する聖武天皇の伊勢行幸に従駕。
天平17年(745年)に従五位下となる。
天平18年(746年)3月に宮内少輔。7月に越中国国守となる。
天平勝宝3年(751年)までに赴任。
この間に220余首の歌を詠んだ。
少納言となって帰京後、天平勝宝6年(754年)兵部少輔となり、翌年難波で防人の検校に関わる。
この時の防人との出会いが、万葉集の防人歌収集につながっている。
橘奈良麻呂の変には参加しなかったものの、藤原宿奈麻呂・石上宅嗣・佐伯今毛人の3人と藤原仲麻呂暗殺を計画し立案した。
事件は未遂に終わり、良継一人が責任を負ったため罪には問われなかったが、天平宝字8年薩摩守への転任と言う報復人事を受けることになった。
宝亀7年伊勢国国守。伊勢神宮の記録では5年ほど勤めたという。
宝亀11年(780年)、参議に昇進したものの、氷上川継の謀反事件(氷上川継の乱)に関与を疑われて都を追放されるなど、政治家として骨太な面を見ることができる。
延暦2年(783年)、中納言に昇進するが兼任していた陸奥按察使持節征東将軍の職務のために陸奥に滞在中に没した。
没直後に藤原種継暗殺事件が起こり、家持も関与していたとされて、埋葬を許されぬまま除名。
子の永主も隠岐国に流された。大同3年(806年)に従三位に復された。
SOURCE:
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つまり、大伴家持は章子さんのような“人道的”な立場から天智天皇の政策にも批判的であったし、後の藤原政権に対しても批判的だったわけです。
この大伴家持が子供の頃、家持の家庭教師をしていたのが、誰あろう、この山上憶良なのです。
山上憶良(やまのうえのおくら)
斉明天皇6年(660年)頃に生まれた。
天平5年(733年)頃に亡くなったとされている。
奈良時代初期の歌人。
万葉歌人。従五位下。
下級貴族の出身
中西進ら文学系の研究者の一部からは百済系帰化人説も出されている。
姓は臣(おみ)。
702年の第七次遣唐使船に同行し、唐に渡り儒教や仏教など最新の学問を研鑽する。
帰国後、東宮侍講(皇太子家庭教師)や、国司(県知事)を歴任。
筑前守(福岡県知事)在任中に、太宰府長官として赴任していた大伴旅人と親交があり、「筑紫歌壇」を形成。
また、旅人の子、家持の家庭教師を引き受ける。
仏教や儒教の思想に傾倒していたため、死や貧、老、病などといったものに敏感で、
かつ社会的な矛盾を鋭く観察していた。
そのため、官人という立場にありながら、
重税に喘ぐ農民や防人に狩られる夫を見守る妻など
社会的な弱者を鋭く観察した歌を多数詠んでおり、
当時としては異色の社会派歌人として知られる。
抒情的な感情描写に長けており、また一首の内に自分の感情も詠み込んだ歌も多い。
代表的な歌に『貧窮問答歌』、子を思う歌などがある。
万葉集には78首が撰ばれており、大伴家持や柿本人麻呂、山部赤人らと共に奈良時代を代表する歌人として評価が高い。
SOURCE:
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大伴家持は、この山上憶良から強い影響を受けているわけです。
万葉集の編集長として山上憶良の歌を78首載せた事からもそのことが良く伺われます。
つまり、大伴家持も山上憶良も、当時としては異色の“社会派歌人”だったわけです。
でも、現実には天智天皇の政策を見れば分かるように、庶民は決して人道的には扱われておらず、防人は“捨て駒”のように扱われていた。
僕はすでに何度も書きましたが、『万葉集』は“政治批判の書”であると見ている訳です。
それは、今述べたように大伴家持も山上憶良も、当時としては異色の“社会派歌人”だったわけですよね。
しかも、大伴家持自身、当時の藤原政権に反抗的だったということからも分かるように、
大伴家持が『貧窮問答歌』を載せた理由には、政治告発の意味があると僕は見ているわけですよ。
ところが藤原政権は、全く当時の庶民の生活には無関心だったわけです。
山上憶良の『貧窮問答歌』など完全に無視されましたよ。
その証拠が平安時代の庶民の実態です。
“平安時代”なんて誰が命名したのか?
けっして平安ではなかった!
いわば地獄時代だった。
ここで書くとさらに長くなるので、関心のある人は次の記事を読んでくださいね。
■『平安時代は決して平安ではなかった』
(注:写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました。
赤字はデンマンが強調)
『万葉集の謎と山上憶良』より
(2006年7月1日)
(すぐ下のページへ続く)