紅のボートピープル(PART 1)
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デンマンさん。。。 「紅のボートピープル」ってぇ、ベトナム戦争後の日本にやって来たあの難民のお話でござ〜♪〜ますか?
卑弥子さんは「紅のボートピープル」という言葉から、そう思うのですか?
だってぇ、それ以外に思い浮かびませんわ。
あのねぇ〜、僕はバンクーバー図書館で借りた『暮らしの年表 流行語100年』を見ていたのですよ。
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赤枠で囲んだ御本でざ〜ますか?
そうです。。。
そう言えばデンマンさんは1991年の「ヘア論争」の事を書いていましたわね? その「ヘア論争」を取り上げるのでござ〜♪〜ますか?
ヘア論争
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1991(平成3)年2月、篠山紀信による樋口可南子のヘアヌード写真集『water fruit』画発売、11月には宮沢りえのヌード写真集『Santa Fe』が155万部を売り上げた。
これをきっかけに、陰毛が写っているものはわいせつか、写っていなければわいせつではないかなど、ヘア論争が盛んに行われた。
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スポーツ
藤島部屋の貴花田と兄の若花田兄弟が人気。 若貴フィーバー起こる。
映画
『八月の狂詩曲』 黒澤明監督、村瀬幸子、吉岡秀隆
『息子』 山田洋次監督、三国連太郎、和久井映見
『羊たちの沈黙』 ジョナサン・デミ監督、ジョディ・フォスター、アンソニー・ホプキンス
本
『大地の子』 山崎豊子
『だから私は嫌われる』 ビートたけし
ヒット商品
もんじゃ焼き
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(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
193ページ 『暮らしの年表 流行語100年』
2011年5月19日 第1刷発行
発行所: 株式会社 講談社
『宮澤理恵@Macao』に掲載
(2013年2月28日)
卑弥子さんは1991年の「ヘア論争」の事しか思い浮かばないのですか?
だってぇ〜、マスコミがずいぶんと騒いでましたわよう。 うふふふふふ。。。
あのねぇ〜、僕は1979(昭和54)年の出来事について語ろうとしているのですよ。
1979(昭和54)年
3月28日 アメリカペンシルベニア州のスリーマイル島で原発事故発生。
6月1日 ハーバード大学教授エズラ・F・ボーゲル著「ジャパン・アズ・ナンバーワン」が日本で刊行。アメリカは日本経営を見習うべきという内容。
7月1日 ソニーが「ウォークマン」を発売。
インベーダーゲーム
タイトーが1978年に発売した業務用テレビゲーム「スペース・インベーダー」のこと。
ゲームセンターや喫茶店などに設置され、若者やこどもの間で社会現象になるほどの爆発的人気となった。
ウサギ小屋
日本の狭くて粗末な住宅。
EC事務局がEC委員会に提出した「対日経済戦略報告書」の秘密文書のなかに「日本人は、西洋人から見ると、うさぎ小屋とさして変わらない住宅に住む仕事中毒者」とあったことがわかり、話題となった。
対日貿易赤字が増大していたECの対日感情のあらわれといえた。
自嘲をこめて日本でも流行語化した。
ボートピープル
1975(昭和50)年のベトナム戦争終結後、インドシナ三国(ベトナム・ラオス・カンボジア)では相次いで政変が発生、新体制からら迫害を受けるおそれのある人々や国の将来に不安を感じた人々は、他国に保護を求めて小船で国外へ脱出した。
これらの人々をボートピープルと呼び、日本への上陸も相次いだ。
1979年、日本政府は500人の定住枠を設定した。
陸路でタイ領に逃げた人々は「ランドピーブル」と呼ばれた。
スポーツ
小林繁(阪神)が沢村賞。
映画
『復習するは我にあり』 今村正平監督、緒方拳、小川真由美
(160−161ページ)
『暮らしの年表 流行語100年』
デンマンさんは、このボートピープルの事がそれほど印象に残っているのですか?
卑弥子さんも思い出してくださいよ。 僕はかつて古代のボートピープルの事で次の記事を書いたことがあるのですよ。
呉人が日本へ呉服をもたらした西暦200年代というのは、気の遠くなるような古い時代です。
しかし、呉という国は、上の地図に書き込んだように、その寿命は、せいぜい50年です。
日本の長い歴史の中では、ほんの一瞬というような短い間なのに、呉人たちは、日本の文化に大きな影響を残しているわけです。
そのことは前にも書いたように、漢字の読みの呉音というかたちで、日本語の中に消しがたい足跡を残しています。
しかも、呉人のことをすっかり忘れ去っても、『呉服』という言葉をいまだに使っているように、『呉』は日本語にすっかり定着しています。
これとちょうど同じように、その当時の呉人の血は、間違いなく我われの体の中に、流れているわけです。
50年と言えば、一人の人間の一生の長さです。
一人の呉人がやってきたぐらいでは、これほどの影響はないでしょう。
ということは、国が滅んだ後に、相当数の呉人が日本へやってきたはずです。
一体、幾人の呉人がやってくると、これほどの影響が日本に残るのか?
ちょっと考えてみてください。
聖徳太子が生まれるのは、この呉の国が滅んでから、約300年後です。
しかし、見逃してならないのは、この300年というのは、大陸はもちろん、朝鮮半島も、日本も含めて、激動の時代でした。
中国では、下の年表に示すように、西晋、東晋を経て南北朝時代に入ります。
隋が中国を統一するまでに、なんと、11王朝が起こっては滅びます。
しかも平穏に王朝が交代するというようなことはありません。
必ず戦乱がつき物です。
すると、当然のことながら難民が出ます。
これは何も、古代にかぎったことではありません。
ベトナムからの難民騒ぎを覚えているでしょうか?
サイゴン(現ホーチミン市)が無血陥落(1975年4月30日)してベトナム戦争は終わりました。
しかし、その後の迫害を恐れる者、よりよい生活や自由を求める者などが小船に乗って次々とべトナムをあとにします。
いわゆる「ボートピープル」と呼ばれる大量の難民の出現です。
漂流中を漁船や貨物船、タンカーなどに救助された難民が、1977年5月28日の37人を皮切りに、日本へもやってきました。
1989年以降はベトナム難民を装った中国人の偽装難民も出現し、同年9月には、鹿児島に回航した149人もの“難民”を収容する施設がなく、神戸に再回航するというような事態も発生しました。
現代においても、このような事態が出現するわけですから、古代において、しかも、もっと身近な、中国沿岸、あるいは朝鮮半島からの、たび重なる難民の数は、相当なものだったことが容易に想像されます。
280年に呉が滅んでから、663年に百済が滅びるまでの間は、おそらく、日本史上で最も渡来人が数多く日本へやってきた時期だったでしょう。
『あなたは日本人ではない』より
(2007年3月23日)
つまり、呉の国が滅びて難民の人たちが“ボートピープル”になって日本へやって来たということをデンマンさんは信じているのでござ〜♪〜ますか?
その通りですよ。 ベトナムからだって日本に難民がやって来たぐらいですよ。 呉の国はベトナムよりもずっと日本に近いのです。
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つまり、呉の国も滅び、越の国も滅んで、その国の人々が“ボートピープル”になって日本へやって来たとデンマンさんは主張なさるのでござ〜ますか?
1979(昭和54)年の“ボートピープル騒動”の記事を読めば呉の国や、越の国が内乱や戦争で無茶苦茶になっている頃から、結局、国が滅んでしまった後になって、難民の人たちが日本を目指してやって来た事は充分に考えられますよ。
そうかしら。。。?
卑弥子さんは1979(昭和54)年の“ボートピープル騒動”の記事を読んでも確信が持てないのですか?
だってぇ、呉の国がシッチャカ、メッチャカになっている頃というのは1700年から1800年も昔の事でしょう? 越の国の場合はもっと前でしょう?
あのねぇ〜、もう一度ベトナムからやって来た“ボートピープル”の写真を見てくださいよ。
この程度のボートを作る事ぐらい1700年から1800年前に生きていた人たちだってわけなく出来ますよ。 決して難しい事じゃない。 そう思いませんか? それにベトナムからの距離を思えば呉の国も越の国もずっと日本に近いのですよ。
でも、当時の記録は残ってないのでしょう?
あのねぇ〜、藤原氏も含めて当時の大和朝廷を牛耳(ぎゅうじ)る人たちは都合の悪い記録はすべて焼き捨ててしまったのですよ。
そのような事は日本史の時間に教わりませんでしたわ。
当時、新聞社があったとしたら次のような記事を残していたはずです。
紅の難民
呉の国、越の国から
続々と難民が…
呉の国では第4代の皇帝・孫晧(そんこう)に対する反乱が起きている。
孫晧は反省する事もなく後宮に数千と言う美女を集め、逆らう家臣は拷問して殺している。
皇族や重臣の中で国を支えようとするものも現れたが、270年に朱績が、271年には丁奉が、さらに274年に陸抗が死去すると、もはや呉には柱となる人材はいなくなった。
そして279年、晋は20万という大軍を繰り出して呉へ侵攻してきた。
呉の将兵は孫晧に見切りをつけ、戦わずして晋に降る者も多く、翌280年3月に晋軍は建業に達して孫晧は降伏、呉は滅亡した。
このような状況の中で、より良い生活を求める者などが小船に乗って次々と故国をあとにした。
「難民船」に乗った大量の難民が我が国にやって来たのは自然の成り行きである。
この時代よりもずっと以前の事ではあるが、越の国の人たちも隣国の反乱や戦争に危機感を感じて「難民船」を仕立てて故国を後にするものが多かった。
応神天皇(在位:270-310)の時代、機織・縫製技術を得るために呉の国に派遣された猪名津彦命が、呉王に乞い、呉服媛(くれはとりのひめ)・穴織媛(あやはとりのひめ)・兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)の4姉妹を我が国へ連れ帰ったことがある。
この時の縁で皇族たちや貴族は大和朝廷を頼って我が国にやって来た。
最近になって“呉音”が我々の話し言葉の中に影響を与えるようになったのも、
“呉服”が貴族はもとより庶民にまで広がりつつあるのもこのためである。
また、中には“紅梅”の苗木を持って来る者も現れた。
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「紅(くれない)」という色名は「呉国伝来の藍」、つまり、“くれのあい”から、そう呼ばれるようになったのである。
越の国の人たちは我が国の朝廷との縁が薄いため輪島半島を越えた海岸近くに漂着し“越の国”を自称する共同体を立ち上げたようである。
聞くところによると、ゆくゆくは大和の皇族の一人を迎えて大和の政治にも発言権を持とうという野望を抱いていたそうである。
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つまり、上の記事の中の“越の国”から継体天皇が出たとデンマンさんは言いたいのでござ〜ますか?
そうですよ。 それで、かつて次の記事を書いたのです。
■『呉越の謎』
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