よく考えた?(PART 1 OF 4)
私が、古代の有名人を何が何でも朝鮮半島に結びつけるのではないだろうかと、疑問をもたれる方が居ると思うので、本題に入る前に、一言二言付け加える必要があると思います。先ず、ひと言で言うならば、遠い昔、日本の原住民と考えられている、アイヌ民族でさえ、大陸から渡ってきた人たちです。その当時は、日本と大陸は陸続きでした。
それでは、なぜ、そういうことが言えるのか?それは、ある程度、というよりほぼ間違いない程度に科学的に実証されています。
もちろん、完璧ということは望めないので、今でも異を唱える学者が居ます。しかし、判断を下すのは、あなたですから、以下の説明を読んでもらえば、納得が行くと思います。
上の地図で示されるように、人類が始めて現れたのは、アフリカだと考えられています。もちろん、それまでには、気の遠くなるような年月がかかって、類人猿から進化したわけです。この我われ人類の祖先が、地図で示したように、世界に広まっていったと考えられるようになりました。
それぞれの人種に分かれ始めたのは、10万年ほど前だと推定されています。
どうしてこういう結論が出たかというと、アメリカのカリフォルニア大学、バークレー校の研究者たちが遺伝子を調べることに因って解明したからなんです。
上の表は、我われ人類の人種間において、遺伝子が一体どのように類似しているのだろうか、ということを図に示したものです。これで見ると分かるように、東アジア人とイヌイト、いわゆるエスキモー人は一緒のグループです。
次に東アジア人とよく似ているのが、いわゆるアメリカン・インディアンです。これは、外見だけを見てもよく分かるわけですが、遺伝子の配列が、よく似ているということです。この遺伝子の配列の状態を調べることによって、我われがたどってきた、枝分かれの様子が、上の図に示すように分かってきたわけです。
詳しいことは、このページ (我われ、現代人は同じ祖先から枝分かれして来た。) を見てください。
この流れは、いわば、人類史、言い換えれば人間の歴史の大動脈のようなものであって、この流れを変えるということは我われ人間の『言い伝え』、あるいは、『教え』では可能でも、『科学』に因っては不可能です。
日本でも最近、この遺伝子(特にDNA)の研究が盛んになって日本人が一体どこからやってきたのかを解明しようとしている研究者が出てきましたが、非常によいことです。
そのうち科学的にも、朝鮮半島との関連が裏付けられることと思います。
振り返って、日本史を考えるとき、たとえば、あなたが学校で日本史を教わった時のことを思い出してもらえばよいのですが、「古事記によれば。。。」、「日本書紀によれば。。。」、ということで古代史の勉強が終わってしまったと思うのです。
ところが、この古事記や日本書紀が、当時の支配者の都合のよいように書かれた『教え』であるわけです。
したがって、科学的に授業を進めてゆけば、当然、今まで述べてきたようなことを先ず始めに『教え』なければならないはずです。
ところが、そうしないばかりに、古代日本史には謎が多い。たいてい有名人を調べてゆくと、出生地だとか、いつ誕生したとか、そういうことがぼやかされている場合が実に多いわけです。すでに述べた、継体天皇などはその最たるものです。
時代が古いばっかりに、はっきりとは断定できない場合もあるでしょうが、状況から判断して、明らかに、朝鮮半島から渡ってきたと考えられるような場合にも、そうは書かない。
あくまでも、日本古来の祖先から連綿と続いているかのような書き方をしている。たとえば、これから述べる藤原氏の祖先のように、そこに作為の跡を見ることができるわけです。
何も、このことは、古代に限ったことではありません。何も日本史に限ったことでもありません。時の「支配者」というのは、しばしば作為を持って、歴史的事実を変えようとします。
最近の例を挙げれば、ケネディー大統領の暗殺がよい例です。真相を究明しようにも、この事件の重要証拠や資料が75年間封印されてしまっています。そういうわけで真相が分かるのは、現在生きている我われがほとんど死んでからのことになります。
こういうことを、民主主義の本家といわれているアメリカがやっているのですから、本当に理解に苦しみます。もっと分からないことは、アメリカ市民が、このようなことを見逃しにしているということです。
ケネディー大統領の暗殺の裏に、隠された陰謀があったのかどうか、関心のある方は、このページ (Gemstone File) を読んでください。
だいぶ前置きが長くなりました。ここでは、そういう古代日本の「支配者」の作為の痕をのぞいてみたいと思います。
聖徳太子と共に、日本書紀において分からない人物は藤原鎌足(614-669)です。
藤原氏の基礎を築いた人だというにもかかわらず、この藤原鎌足、すなわち中臣鎌足という人物についてはよく分かっていません。
一体どんな素性の、どんな生まれの人であるのか、このへんのところが、ぼやかされています。もちろん、この辺りに作為の跡があると言いたいわけです。
何しろ、藤原家というのは、日本の政権に、500年以上もかかわりを持ってきました。世界に例がないほど、息の長い家系だといえます。
しかも武士が政権を取ってからも、家系が耐えることなく続き、昭和になって、近衛文麿という首相を出しているほどです。
これほどの類まれな家系の基礎を築いた人だというのに、藤原鎌足の生まれはよく分かっていない。
もちろん、いろいろな説がありますが、これといって、決定的なものがないというのが実情のようです。
まず、神話において、藤原氏の先祖と言われているアメノコヤネノミコトは天孫ニニギノミコトの側近第一号であり、藤原氏が祭るタケミカズチ,フツヌシの神は国土平定の大功績をたてたことになっています。
とすれば、当然そういう大功績があった神の子孫が神武帝以後の実際の歴史で活躍するのではないかと、おそらく誰もが期待を持つはずです。
しかし、中臣氏は古事記には全く姿を現さない。
要するに、ここに作為の跡が見えるわけです。もし、本当に、藤原氏が、天皇家と同じぐらい古い家系であったならば、古事記にも登場して、もっと、もっと活躍するはずです。しかし、あまり根も葉もないことを書くと、嘘がすぐにばれてしまう。
それでは、元も子もないわけで、そのぐらいの見識はあったと思われます。書きたくとも書けないという、ジレンマがあったことでしょう。
しかし、日本書紀には、中臣氏は、神話時代を除き、鎌足の父とされる御食子(みけこ)以前に、4度登場します。
その第一番目に、中臣氏の人間の時代における最初の子孫、中臣連大鹿嶋(むらじ・おおかしま)という形で登場します。
『大鏡』には、中臣鎌足は鹿島の生まれであると書かれています。
しかし、これは、中臣連大鹿嶋の鹿嶋と地名の鹿島の音が似ていることから、後になって考え出されたものだと私は思うのです。その理由は、この後述べるように、鹿島ではないという、もっと強力な資料があるからです。
2番目に中臣氏が登場するのは、仲哀紀から神功紀にかけてです。ここで中臣烏賊津連(なかとみのいかつのむらじ)という男が登場します。仲哀9年、突然に仲哀帝が亡くなります。
その時神功皇后は大臣武内宿禰と相談して、この天皇の死を内緒にして天皇を葬ります。この宮が豊浦宮です。今でもこの宮は、一週間の間、忌祭をします。
それは火をたかず、物音を立てず、つまり内緒で行う葬式です。ここで中臣烏賊津連は、この内緒の葬式の命令を承るものとして登場するのです。
この中臣烏賊津連は次の神功皇后紀では、以下に示すように重要な役割を担当します。
「皇后、吉日を選びて、斎宮(いはひのみや)にはいりて、親(みづか)ら神主(かむぬし)と為(な)りたまふ。則ち武内宿禰に命(みことのり)して琴撫(みことひ)かしむ。中臣烏賊津使主(おみ)を喚(め)して、審神者(さには)にす」
つまり中臣烏賊津連は審神者となり、神の託宣の真意を知る役をするというわけです。中臣というのは神と人との間に立って、神の言葉を人に伝え、人の言葉を神に伝える役目です。もちろん、ここで神と言うのは天皇のことです。それゆえ中臣の役割は、天皇の言葉を臣下に伝え、臣下の言葉を天皇に伝える役目をするということです。
ここで神功皇后は新しい神、住吉の神の教えによって新羅征伐を決意します。その意味で、この託宣は、古代日本の運命を決めることになり、この託宣の審神者となった中臣烏賊津連は、実に大切な役割を果たしたはずです。
しかし、不思議なことに、その後の神功皇后紀には、彼の名前は出てこないのです。
先ほど、中臣鎌足の鹿島出身説に触れましたが、それに関連して、ここで『続日本紀』の光仁天皇の天応元年(781)7月の項の次の記事について考えてみたいと思います。
「右京の人正六位上栗原勝子公言す。子等が先祖伊賀都臣(いかつのおみ)は、是中臣の遠祖、天御中主命20世の孫,意美佐夜麻(おみさやま)の子なり。
伊賀都臣、神功皇后の御世に、百済に使いして、彼の土の女を娶りて,二男を生み、名づけて本大臣、小大臣といふ。
はるかに本系を尋ねて聖朝に帰す。
時に美濃国不破郡栗原の地を賜ひて以て居らしむ。その後、居に因って、氏を命じて、遂に栗原勝の姓を負へり。
伏して乞らくは、中臣栗原連を蒙り賜はむと。是に於いて子公等男女十八人請に依って、改めて之を賜ふ」
ここに中臣栗原連の先祖として中臣伊賀都臣が顔を出します。そして、その人を説明して言います。
この伊賀都臣(いかつのおみ)は、中臣の遠祖にあたる天御中主命20世の孫,意美佐夜麻(おみさやま)の子であると。
要するに、神代の天御中主命を持ち出してきて、ここに、中臣氏が、古来から、日本に土着した氏族であることを印象付けています。
しかし、すでに述べたように、古事記において、中臣氏が、いかに古い氏族であるか、しかも天皇家と並ぶほど古い家系であるか、ということを、それとなく述べています。
しかし、具体的にどのようなことをしたかと言うことは、書きたくても書けなかったと言うのが真相でしょう。
変なことを書くと嘘がばれますから。
それでも、そこ、ここで、それとなく、小出しに、日本古来の氏族であることを述べています。
ほとんど、くどいくらいに繰り返されています。20世と言うと、一世代が20年とすると400年、30年とすれば、600年です。
仮に私が、「400年前の私の祖先は加藤清正です」と言ったら、あなたは信じますか?私の知る限りでは、それは事実ではないようです。
わたしの家には、家系図は伝わっていませんから。しかし、誰が一体、確信を持って、私が、加藤清正の子孫ではないと言いきることができるでしょうか?
私の体の中には、400年という年月の間に加藤清正の子孫の血が、一滴か二滴ぐらいは混じっているかもしれません。
上の記述で延べていることは、言ってみれば、そのような程度のことです。
それを、すでに見てきたように、くどくどと言っているわけです。
もちろん、それが、『古事記』、『日本書紀』、『続日本紀』の編集に携わってきた藤原氏の狙いです。
「ここまで書けば、もう大丈夫だろう。
我われが日本古来から連綿と続いている氏族であると認めてくれるだろう。
そろそろ本当のことを書いても、我われが、百済からやってきたとは、もう誰も思うまい」
そういう作為が感じ取れます。
伊賀都臣、神功皇后の御世に、百済に使いして、その土地で現地の女と結ばれて、子供を作った。
その子供たちがやがて成長して、日本にやってきた。その者たちがやがて中臣栗原連と名乗るようになったと、さらりと述べています。
注意して読まないと、読み飛ばしてしまいそうな箇所です。
しかし、この意味は非常に重要だと私は思います。
藤原氏が政治の舞台に踊り出てきたのは、なんと言っても、大化の改新からです。
これが、古代における、一大イベントだということは、おそらく誰もが認めることでしょう。
しかも、このとき以降、藤原氏は、実権を握ってゆくことになります。教科書では、なぜこのイベントが重要かというと、氏族制から、先進国中国で行われている律令制に移行したからだ、という事になっています。
確かに、それは重要だったかもしれません。
しかし藤原氏の、本当の狙いは、このことよりも、その後に行われる新羅征伐にあったと私は信じています。
つまり“祖国”を救うことです。
すでに述べたように、中臣氏というのは、天皇と、臣下の間に立って命令を伝達したり、臣下からの言葉を取り次いだりする立場にありました。
つまり、天皇の側近であり、したがって、天皇に対して、強い影響力を持つことができます。
事実、神功皇后が、住吉の神の教えによって新羅征伐を決意した時の、取り次ぎ役が中臣烏賊津連です。
しかも、実際に、百済へ援助の手を差し伸べ、日本軍が、新羅と唐の連合軍と戦うために、指揮を執ったのは、天智天皇でした。
この天智天皇の知恵袋が、大化の改新を一緒にやった中臣鎌足、後の藤原鎌足です。
おそらく、この時、鎌足の強い説得力がなかったなら、天智天皇は、新羅征伐をやらなかったかもしれません。
なぜなら、あまりにもリスクが多きかったからです。
実際、この時の、白村江の敗戦に因って、天智天皇への批判は強まります。
しかも、初めから、新羅派であった天武天皇へ周囲の者がなびいてゆきました。
そして後で見るように、壬申の乱に因って、この天武天皇が政権を取ることになります。
しかも、これだけの対立があったにもかかわらず、藤原氏は、決して失脚しませんでした。
それはどうしてか?
大雑把に言って2つの理由があったでしょう。
ひとつは、藤原氏の力なくしては、天武天皇には政権が維持できなかった。
そしてもうひとつは、藤原氏には、しぶとく生き残ってゆくための、いわばバイブルが、代々受け継がれていたということです。
それをバイブルと呼んだら、バイブルの方が、きっと迷惑するぐらいに、すさまじい処世術書です。
■マキアベリもビックリ、
藤原氏のバイブルとは?
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