村山たか女(PART 1)
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デンマンさん...、 どうして急に「村山たか女」を取り上げる気になりはったん?
あのなァ〜、バンクーバー市立図書館から次の本を借りたのやがなァ〜。。。
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赤い枠で囲んだ本をバンクーバーの市立図書館から借りて読みはったん?
そうやねん。
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この本はなかなか読み応え、見応えのある本なのやがなァ〜。。。 きれいな写真がたくさん貼ってあってぇ、眺めているだけでも飽きへん。。。 バンクーバーでこの本を手にとって眺めてるとォ〜、京都の風景が本当に懐かしくオツムに蘇(よみがえ)ってくるねん。
あんさんには、それほど京都に思い出がありはるのォ〜。。。?
めれちゃん、何を言うてんねん。 わての『新しい古代史サイト』を手伝(てつど)うてくれてる卑弥子さんは京都生まれで京都育ちなのやでぇ〜。。。 忘れてるわけではないやろう?
そやかてぇ〜、あんさんと卑弥子さんは犬猿の仲ですやん。
そないなことはあらへん。。。 わては心の奥では卑弥子さんを尊敬して慕っておるのやでぇ〜。。。
ホンマかいなァ〜。。。 そないなことよりも上の本の中に「村山たか女」が出てきよったん?
そうやねん。 その箇所をちょっと読んでみィ〜なァ。
村山たか女と蕪村ゆかりの
寺院に咲く
一乗寺下り松の「武蔵・吉岡決闘之地碑」から山手の方へ民家の間を抜けると、金福寺(こんぷくじ)の門がひっそりと開いている。
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与謝蕪村が建立した芭蕉庵があり、また村山たか女ゆかりの寺である。
幕末、安政の大獄で三条河原にさらされたたか女は、尼となり晩年をこの寺で過ごした。
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金福寺には位牌と筆蹟が残され、近くの圓光寺(えんこうじ)の竹林に囲まれた墓に彼女は静かに眠っている。
本堂の前に白砂が広がり、皐月(さつき)の刈り込みがさわやかな印象を与えている。
庭の小道をたどると小高い場所に、簡素な茶室風建築の芭蕉庵がある。
この季節、茅葺き屋根が楓の緑に映えて鮮やかな景色を作り出している。
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(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
56ページ 『花物語で歩く京都』
著者: 川端洋之
2006(平成18)年3月15日 第1刷発行
発行所: 株式会社 淡交社
この箇所に惹かれて、あんさんは「村山たか女」を取り上げる気になりはったん?
めれちゃんかてぇ〜、興味をそそられるやろう?
わたしは血生臭(ちなまぐさ)いことは、いややねん。
いや。。。 決して血生臭い話とはちゃうねん。 本来ならば村山たか女は晒されてから打ち首になるところやねんけど、女だったさかいに命までは取られへんかったのやがなァ〜。。。 その代わり、たか女の息子の多田帯刀が母親のかわりに、あの悪名高い「人斬り以蔵」と呼ばれた岡田以蔵らによって斬殺され、首を晒されたのやがなァ。
やっぱり、血生臭い話やんかァ〜。。。
確かに、その当時は血生臭い時代やったのやァ。 そやけど、たか女は生き抜いて余生を全うしたのやがなァ〜。
つまり、たか女がどのような経緯で晒されることになったのか? あんさんは、その事に関心をもちはったん?
そうやねん。。。、かつて「村山たか女」のことはどこかで読んだような気がするねん。 そやけど、どう言う訳か、その時にはそれ程強い印象を受けへんかったのやァ。
今になって、『花物語で歩く京都』を読んで強烈な衝撃を受けはったと、あんさんは言うのォ〜?
その通りやァ。 あのなァ〜、金福寺には与謝蕪村が眠っておるねん。
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。。。で、近くには蕪村が建てたという芭蕉庵がある。
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なるほどォ〜。。。 これが芭蕉庵の由来ですねんなァ。。。!?
そういうことやァ。。。 金福寺の小さな門を入って左手に大振りな楓の木があるねん。 その楓の木の傍らに「村山たか女創建の弁天堂」という小さなお堂があるのやがなァ〜。。。
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この弁天堂は、たか女(妙壽尼)が慶応3年に建てたものやァ。 お堂の傍らには次のよな説明書きがあるねん。
たか女は文化六年(一八〇九年)己巳(きみ)の年に生まれました。
巳(白い蛇)は、弁天様の御使ひとされて居るので、たか女は、弁天さんを深く信仰して居たものと思われます。
井伊大老が、櫻田門外で遭難してより二年後の文久二年たか女は、金福寺に入り、尼僧として行いすまし、明治九年九月三十日当寺に於いて、六十七才の生涯を閉じたのでした。
法名、清光素省禅尼
こないに書いてあるのやでぇ〜。。。
これを読みはってぇ、あんさんは強烈な衝撃を受けはったん?
いや。。。 ちゃうねん。 それまでに、わては待賢門院璋子(たいけんもんいんしょうし)のことで卑弥子さんと語りおうていたのやがなァ
美貌の女院が造った
浄土の庭に咲く
平安末期、待賢門院璋子(たいけんもんいんしょうし)はたぐいまれな美貌で白河法皇の養女となり、法王の孫の鳥羽天皇に嫁ぐ。
中宮となった璋子は、天皇との間に男児を出産。
だが、この男児は法皇の子だったともいわれている。
やがて鳥羽天皇は譲位し、男児は幼くして崇徳天皇となる。
そして時代が下り、璋子が生んだもう一人の子である後白河天皇との間に、皇位を巡って戦争が起こることになった。
このことが後に源平の争乱へとつながっていき、やがて武家社会へと体制を変えるきっかけとなる。
このような戦乱の中で、璋子は煩わしい骨肉の争いを避け、亡き法皇の菩提を弔うために双ヶ岡の山裾に寺院を建立した。
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法金剛院
(中略)
それはまさに、極楽浄土もかくやと思わせるにふさわしい、壮麗な伽藍が美しさを競う一角であった。 (略) この寺に伝えられる彼女の肖像画からは、権力者を虜にしたという美貌をしのぶことができる。
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浄土の庭にふさわしい蓮の花は本堂前に据えられた鉢から華麗な姿を見せ、池面には数多くの蓮の花と葉が群れるように揺らめいている。
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(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
70ページ 『花物語で歩く京都』
著者: 川端洋之
2006(平成18)年3月15日 第1刷発行
発行所: 株式会社 淡交社
『美貌の女院』にも掲載。
(2013年4月22日)
つまり、同じ本の中で語られている待賢門院璋子はんと比較しやはってぇ、あんさんは強烈な衝撃を受けはったん?
多分、そういうことやと思うねん。 わては璋子はんの美しさと蓮の花のうつくしさに、なんとのう、わてのふるさとの「古代ハス」のことを思い出しておったのやがなァ〜。。。
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わては夢見心地になって、こうして卑弥子さんがハスの花に乗ってるイメージまでが、わてのオツムに想い浮かんできたのやがなァ〜。。。 そんな時にページをめくり返していたら安政の大獄で三条河原にさらされたたか女はんが出てきよったのやァ〜。
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それで、あんさんは血生臭い幕末の時代に引き戻されて、たか女さんの数奇な運命に衝撃を受けたと言うわけやのォ〜?
そういうこっちゃがなァ〜。。。 村山たか女の波乱に満ちた人生が衝撃的に、わての興味を掻き立ておったわけやァ〜。。。
村山 たか
文化6年(1809年) - 明治9年(1876年)9月30日)
江戸時代末期(幕末)から明治時代初期に活躍した女性で、舟橋聖一著の『花の生涯』のヒロインとして知られる。
別名村山加寿江(かずえ)。
1809年(文化6年)、近江国犬上郡多賀町で、多賀大社にあった寺坊尊勝院の娘として生まれる。
生後すぐに寺侍村山氏に預けられ、18歳の時に当時の藩主である井伊直亮の侍女となる。
20歳になり京都に上って、祇園で芸妓となり、その際男子をもうけるが、私生児であった為に自らが引き取り、生まれ故郷の彦根に戻る。
その際彦根城下で蟄居生活を過ごしていた井伊直弼と出会って情交を結び、またその数年後に直弼を通じて出会った長野主膳とも深い関係になったとされる。
やがて直弼が大老となり、江戸に移った後二人は別れたとされるが、安政の大獄の際には京都にいる倒幕派の情報を江戸に送るスパイとなり大獄に大きく加担した。
日本の政権に属した女性工作員としては、史上初めて名をとどめる存在である。
1860年(安政7年)の桜田門外の変で直弼が暗殺された後、1862年(文久2年)に尊王攘夷派の武士に捕らえられ三条河原に3日3晩晒されたが、女性ということで殺害を免れた。
その後、洛外一乗寺の金福寺で出家し妙寿尼と名乗り、1876年(明治9年)亡くなった。
墓は金福寺の本寺である円光寺にあり、金福寺には詣り墓がある。
長らく、たかと井伊直弼の具体的な関係は不明であったが、2011年(平成23年)の末、京都市東山区の井伊美術館で、井伊がたかへと宛てた手紙が発見された。
手紙は井伊が20台後半に書かれたものと思われ、藩の反対で、たかと会えなくなった際の、辛い心情が綴られている。
出典: 「村山 たか」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
つまり、動乱の時代に女スパイになったということが、あんさんの興味を掻き立てはったん?
それもそうやけど、 何と言うか。。。 井伊直弼と長野主膳。 この二人の男を惹きつける人間的な魅力が、たか女にはあったに違いないと思うてなァ〜。。。
それもそやけど、たか女はんは女の命を愛に捧げはったと、わたしは思うねん。
。。。ん? 女の命を愛に捧げたァ〜。。。?
そうですう。。。 わたしには、ようわかりますねん。
ほおォ〜。。。 めれちゃんには自分のように。。。、手に取るように、たか女はんが女の命を愛に捧げたという気持ちがマジでわかるのかァ〜。。。?
そうですう。
どないなわけで、めれちゃんは、そないに思うねん?
たか女はんは1876(明治9)年に亡くなってますねん。
うん、うん、うん。。。 確かに、そないに書いてあるなァ。 それがどうしたと言うのやァ〜?
その2年後の1878(明治9)年12月7日に、たか女はんの魂を貰い受けて生れてきよった女性がおりますねん。
。。。ん? たか女さんの魂を貰い受けて、生れ変わった女性がおったと、めれちゃんは言うのんかァ〜?
そうですう。。。
生れ変りなんてぇ〜、最近のミーちゃん、ハーちゃんは信じへんでぇ〜。。。 めれちゃんは仏教の輪廻(りんね)を信じておるのんかァ〜。。。 んで、1878(明治9)年12月7日に生れた、たか女はんの「生れ変り」というのんは、いったい誰なんやァ〜?
その人は成長してから次のような歌を詠みましてん。。。
(すぐ下のページへ続く)