愛の夕顔(1 OF 3)
天の夕顔
私が京都の大学生のころ、はじめてあき子に会いました。 彼女は、下宿先の家の娘で、すでに結婚した身で、子供ももおり、夫は外国にいました。
まもなく、彼女の母親が病気で亡くなりました。 私が通夜や葬儀、さらに四十九日の観音講(かんのんこう)の際、なにくれと手伝ったため、彼女からその礼などを認(したた)めた手紙が送られてきました。 知人の家に移っていた私は、どういうわけか、その通りいっぺんに見える手紙がうれしくてたまらず、思えばそれが、私の運命を左右するきっかけになったのです。
(中略)
6月の末、私は試験の準備に忙しいころでした。 彼女は結婚生活に悩んでいる様子を話しました。 はじめは姉弟のような気持ちだったが、しだいに私に惹かれるようになり危険を感じ出した、これ以上交際を続けているのは自分の立場が苦しくなるので今日は別れを言うために来た、と言うのです。 私は恋愛の気持ちなどなく、友情だと思っていたのに、「別れに来た」と言う言葉には少なからず狼狽し、意外な気持ちながら、彼女の威厳ある堅い決意に従うほかありませんでした。
これが、彼女から突き放された最初です。 それまで会うこともなかったのに、こんな気持ちになったのが不思議でしたが、これ以来私は今に至る20数年、あの人のことを思い続ける運命に陥ったのです。
(注: イラストはデンマン・ライブラリーから)
92 - 93ページ
『天の夕顔』 中河与一・著
「あらすじで読む日本の名著 No.2」
編著者: 小川義男
2003年11月13日 第2刷発行
発行所: (株)樂書館
デンマンさん。。。なんだか不倫めいたお話を持ち出してきたのですわね。
いけませんか?
デンマンさんは、そのようなお話が好きそうですから私はかまいませんけれど、なんとなく引っかかるものを感じますわ。
ん。。。? 引っかかる。。。?
そうですわ。。。私とデンマンさんのお付き合いについて何か言いたいのですか?
いや。。。小百合さんと僕の付き合いについて、とやかく言いたいわけではありませんよ。 たまたま上の話を読んで、なんとなく惹かれるものを感じたのです。
どういうところに。。。?
その事について書きたいと思ったのですよ。 でもねぇ、僕は「中河与一」という作家を知らなかった。 初めて見た名前だったのです。 小百合さんは知っていますか?
いえ、私も初めて見るお名前ですわ。
けっこう有名らしいのですよ。
中河与一 (1897 - 1994)
香川県に生まれる。
1918年に画家をめざして上京。
翌年、早大予科文学部に入学するが、中退。
1935年以降、日本浪漫派に接近し、しだいに民族主義を唱え始める。
1938年、新感覚運動を川端康成、横光利一らと興す。
代表作である『天の夕顔』において東洋的叙情に到達し、戦後に発表された『失楽の庭』『悲劇の季節』とあわせ、三部作と見なされている。
作者は「文藝春秋」の初期の同人として横光利一、川端康成と並んで世に称えられた。
泉鏡花、谷崎潤一郎、佐藤春夫と続いた王朝以来のロマンチシズムの系譜が作者へと継承されている。
『天の夕顔』が1938年に発表された当時は、世俗的、大衆的という理由で文壇からは受け入れられなかったが、永井荷風や徳富蘇峰らは激賞し、また当時の青年子女に愛読された。
あらっ。。。有名な人たちとお仲間なのですわね。 川端康成も横光利一も知っておりますわ。
日本人ならば横光さんを知らなくても、川端さんの名前はまず間違いなく知っていますよ。 とにかくノーベル文学賞をもらったのですから。。。
でも、どうして中河与一さんのお名前は知られていないのかしら?
あのねぇ〜、僕は調べてみたのだけれど、どうやら太平洋戦争中の悪い噂のために戦後の文壇で孤立したようなのですよ。
その悪い噂って、どのようなものなのですか?
あのねぇ〜、中河さんが戦時中に、左翼的文学者のブラックリストを警察に提出して言論弾圧に手を貸したという噂がだいぶ流れたらしい。
そのために作品が読まれなかったのでしょうか?
戦後は左傾する人が多かったから、もしかすると戦中の噂が影響したのかもしれません。 それで人気が出なくて、ミーちゃんハーちゃんに知られることがなかったのかもしれませんよ。
。。。で、上のお話のどこにデンマンさんは惹かれたのですか?
これ以来私は今に至る20数年、
あの人のことを思い続ける運命に
陥ったのです。
この箇所ですよ。 20数年というのは、誰にでもできることではないですよ。
そうでしょうか?
あのねぇ〜、実は次の記事を僕は書いたばかりなのですよ。
■『あなただけに…』
(2011年5月17日)
私も読ませていただきましたわ。
だったら、僕が「20数年、あの人のことを思い続け」たという事に惹かれる気持ちが分かるでしょう!? アインシュタインは次のように言っているのですよ。
結婚とは、ひとつの偶然から
永続的なものを作りだそうという、
成功するはずのない試みだ。
---アルバート・アインシュタイン
しかもアインシュタインの結婚生活を覗くと次のようなことが分かるのですよ。
アインシュタインは1897年、スイスのチューリッヒにある連邦工科大学で学んでいたとき、最初の妻になる女性と出会い、恋に落ちた。 その女性はミレーヴァ・マリッチ。
ミレーヴァ・マリッチとアインシュタイン
アインシュタインと同じ講座の学生で、生まれつき足が悪かった。 二人に共通していたのは、コーヒーとソーセージが好きということだった。 彼女と知り合ってまもないころ、アインシュタインが書いた手紙には、ミレーヴァを呼ぶ愛称がこれでもかとばかりに登場する。 僕のかわいこちゃん、僕の子猫ちゃん、僕の愛する魔女、僕の小さなすべて……そして愛の告白もあった。 1900年、アインシュタインが21歳のときの手紙にはこう書かれている。 「哀れな人間たちの群れのなかで生きてゆこうと思ったら、君のことを思わずにはいられない」
二人はともに勉強し、音楽を楽しむうちに、友達から恋人へと関係を進んだ。 同級生からミレーヴァの足のことを問われ、僕なら不具の女と結婚などできないと言われたアインシュタインは、「でも彼女はすばらしい声をしている」と答えた。 最後には二人の関係は破局を迎えるのだが、そこにいたる事情は深く複雑なものだった。 自分の心はミレーヴァのものだと言っているときから、アインシュタインはいろいろな意味で遠い存在だった。 離ればなれで暮らした時期も長く、研究のことしか頭にないアインシュタインには、子供のいる雑然とした生活は耐えがたいものだった。 結婚前に生まれた娘ルイーズは養子に出され、その後もアインシュタインとミレーヴァの間には、二人の男の子が生まれている……のちにハンス・アルバートは水力学の専門家になり、次男エドゥワルドは精神分裂病で施設に入った。 そのかたわら、アインシュタインはいとこのエルザに求愛するようになり、二人はやがて結婚する。
エルザとアインシュタイン
1913年、ミレーヴァとの離婚が成立する5年以上も前に、アインシュタインはこんな手紙をエルザに書いている。「私にとって妻は、クビにできない雇い人のようなものです。私は寝室も別にして彼女を避けています……私と、私の人生を支配できるのは自分以外の誰でもありません」
エルザは夫の研究にいっさい口出ししなかったし、知性面で夫と張りあおうという気持ちもさらさらなかった。 そんな二番目の妻に対しても、アインシュタインは同じことを繰りかえしてしまう。 夫婦の間から愛もセックスも消えうせ、アインシュタインはほかの女性に盛んに言いよりはじめる。 友人によると、その様子は「磁石が鉄粉に引きよせられるようだった」という。 またしても寝室が別になり、妻は雇い人に等しい存在になりさがった。 ただし海外旅行や映画のプレミアのときは、夫と行動をともにすることが許された。 アインシュタインはエルザに、「きみの話、私の話をするならいい。だが『私たち』のことは一切話題にしないでくれ」と申しわたしている。
年を経るにつれて、アインシュタインは女性を苦々しく思うようになった。 彼にとって、愛は偽りの概念に過ぎないし、生涯の結びつきなどという理屈はもっと始末におえないものだった。
(注: 赤字はデンマンが強調。
写真はデンマン・ライブラリーから)
39 - 41ページ
『アインシュタインをトランクに乗せて』
著者: マイケル・パタニティ(Michael Paterniti)
訳者: 藤井留美
2002年6月20日 初版第1刷発行
発行所: 株式会社ソニー・マガジンズ
つまり、結婚してもいない相手を20数年も思い続けたということがデンマンさんに感銘を与えたのですか?
上のアインシュタインの結婚生活を覗くと僕が『天の夕顔』に感動したのが小百合さんにもうなづけるでしょう?
そうですわね。。。デンマンさんが感銘を受けるのが分かるような気がしますわ。。。で、『天の夕顔』は、その後どうなるのですか?
次のように続くのです。
(すぐ下のページへ続く)