天平の麗しき淑女(PART 2)
持統天皇の相談役とも言える橘三千代がすごい人ですよね。
この人のもとの名は県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)です。
三千代は持統天皇がまだ天皇になる以前に彼女の女官として仕えていたのです。
持統天皇の孫の軽皇子(かるのみこ)の乳母(めのと)だった人です。
三千代は皇族の美努王(みのおう)と結婚して3人の子供をもうけています。
早くから女官として内裏に仕え、持統天皇の信頼を得ています。
藤原不比等は持統天皇、彼女の息子の草壁皇子、さらにその子の軽皇子(後の文武天皇)に仕えていました。
この関係で橘三千代と知り合い、持統天皇の皇統を守る同志として二人の絆が生まれたのです。
三千代は美努王(みのおう)と離婚していますが、すでに二人は三千代の離婚以前から深い関係になっていたようです。
美努王は三千代と離婚する以前、694年に九州の太宰帥(だざいのそち)として九州に赴任していますが、妻の三千代はこのとき夫に従ってゆかず、都にとどまって女官として仕え続けています。
この年の暮れには藤原京への遷都があり、新都の華やいだ雰囲気の中で藤原不比等と三千代の不倫関係が深まってゆきました。
藤原不比等は女性関係でも精力的で、この時期に天武天皇の未亡人である五百重娘(いおえのいらつめ)とも親密になっており、695年に二人の間に藤原不比等の四男・麻呂が生まれています。
ちなみに五百重娘の父親は藤原鎌足です。つまり、五百重娘は不比等の異母妹でした。
『続日本紀』によると、石上麻呂の息子の石上乙麻呂(おとまろ)が藤原不比等の三男・藤原宇合(うまかい)の未亡人となった久米連若売(くめのむらじわかめ)と通じた罪によって処罰を受けています。
石上乙麻呂(おとまろ)は土佐国に流され、久米連若売は下総国に流刑になります。
藤原不比等の場合には大胆にも、かつての天武天皇の后妃であり、新田部皇子の母でもある五百重娘(いおえのいらつめ)を相手にして、子供まで産ませているのです。
ところが、何の罰も受けていません。
橘三千代にしてみれば、不比等に裏切られたような気がすると思うのですが、ヒステリーになるわけでもなく、大事の前の小事と割り切ったようです。
持統天皇のそばに仕えて厚い信任を得ていたので、その立場を利用して不比等の出世のために持統天皇へのとりなしに動いたようです。
このようなことを考えても、橘三千代が只者ではないと言うことが分かります。
感情的にならず、大事を見失わずに困難を乗り越えてゆく三千代の姿がはっきりと浮かび出ていると言えるでしょう。
深謀遠慮の藤原不比等と組んで持統天皇を取り入れ、橘三千代は三つ巴で持統皇統を継続させてゆきます。
女の意地と執念を感じさせますよね。
僕は上の阿修羅像に次のような“内なる精神”を感じます。
■ 静謐(せいひつ)
■ 哀感
■ きびしさ
■ 敬虔なまなざし
■ まなざしの中に込められた奥深い苦悩
■ 引き締まった唇に表れた意志の強さ
■ 清純でひたむきな思い
このモデルになった女性は、聖武天皇と光明皇后の娘---当時16才の阿部内親王なのです。
光明皇后がこの像を造ろうと思い立った733年という年は長屋王が自殺に追い込まれた4年後です。
天平年間は、災害や疫病が多発します。
巷では、“長屋王の崇り”がささやかれ始めています。
橘三千代が亡くなったことも、“崇り”だとは思わないまでも光明皇后にとって不吉なモノを感じていたはずです。
藤原4兄弟が病気にかかって死ぬのは、さらに4年後のことですが、
基親王を亡くしてから子供が生まれないことも光明皇后は“長屋王の崇り”だと思っていたことでしょう。
この仏像は、ただ単に光明皇后が母親である橘三千代の一周忌追善のために奉安したとは思えない!
それでは、他に何のために?
長屋王の怨霊を鎮めるためだと思いますね。
本来、阿修羅とは日本では、“修羅場”などと言う言葉もあるように、猛々しい争いを好む神として受け入れられました。
しかし、この興福寺の阿修羅像は荒々しくもないし、猛々しくもありません。
争いとは縁遠い表情をしています。
つまり、長屋王の怨霊を鎮めるためだからです。
上の阿修羅像の感じている深い“内なる精神”はモデルの阿部内親王の姿を借りているとはいえ、実は光明皇后が感じている藤原氏に対する崇りを鎮めるための祈りではなかったのか?
光明皇后という人は自分が藤原氏の出身であることを終生忘れませんでした。
忘れないどころか、署名には『藤三女』と書いたほどです。
つまり藤原不比等の三女であることを肝に銘じていた人です。
父親が藤原氏の繁栄と栄光のために、無茶苦茶な事をして持統皇統を存続させたことを良く知っています。
また、父親が亡くなった後、自分の兄弟たちが長屋王を亡き者にしたことも熟知しています。
それだけに、仏教に帰依している光明皇后は心が痛んだことでしょう。
だから、基親王を亡くしてから子供が生まれないことも光明皇后にとって、“長屋王の崇り”だと感じたとしても不思議ではありません。
『日本女性の愛と情念の原点』より
(2006年5月30日)
つまり、基親王を亡くしてから子供が生まれない光明皇后は、“長屋王の崇り”だと感じて心を痛め、それで長屋王の怨霊の鎮魂のために自分の姿に似せて十一面観音像を造らせたと言うのですか?
その通りですよ。
分かりましたわ。。。 んで、阿部内親王や光明皇后のような「天平の麗しき淑女」のお仲間に入らないのに、デンマンさんがあたくしの写真を貼り付けたという深い訳は、いったい何なのでござ〜ますか?
やだなあああァ〜。。。 これまでの説明を聞いていて卑弥子さんにはまだ解らないのですか?
だってぇ〜、上の小文の中に、あたくしのことはどこにも出てきませんでしたわ。
出てきましたよう! 卑弥子さんの御先祖が出てきたじゃありませんか!
あたくしの御先祖様でござ〜ますか?
そうですよう! 橘卑弥子・准教授の遠い御先祖様ですよう! 美努王と離婚して、深謀遠慮の藤原不比等と組んで持統天皇を取り入れ藤原時代を導いた、したたかで男勝(まさ)りな橘三千代ですよ!
つまり、あたくしの御先祖様の代わりに、あたくしの写真を貼り出したのでござ〜ますか?
そうですよう。。。 橘三千代は、まず間違いなく卑弥子さんのような容貌をしていたに違いないと僕には思えるのですよう。
【小百合の独り言】
ですってぇ〜。。。
あなたは納得できますか?
さて、次の写真を見てください。
この女性は西暦734年当時16才でした。
なんとなく現在でも通用する容貌を備えていると思いませんか?
上の引用文の中にも出てきましたが、これは興福寺の国宝館に安置されている阿修羅像です。
この阿修羅像を造ろうと言い出したのは光明皇后(光明子)なんですってぇ。。。
しかも、その目的は亡くなった母親である橘三千代の供養のためなのです。
そして、そのモデルになった女性と言うのは、聖武天皇と光明皇后の娘---当時16才の阿部内親王なのです。
この阿部内親王こそ、後に孝謙天皇(称徳天皇)となる女性なのです。
2度女帝になった人です。
もちろん、この阿修羅像のモデルになったのが当時16才の阿部内親王だったという確証はありません。
この仏像の造られた背景を調べた結果、阿部内親王以外には居ないだろうとデンマンさんは思ったそうです。
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