布袋さんの魅力(PART 1)
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狩野洞白愛信(とうはくちかのぶ)作
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デンマンさん。。。 上の布袋さんを描いた画家が狩野洞白愛信でござ〜♪〜ますか?
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そうですよ。 布袋さんのユーモラスで楽しげな様子がよく出ているでしょう!?
それが布袋さんの魅力なのですか?
そうですよ。。。 そう思いませんか? あのねぇ〜、かつて徳川家康は次のように言った。
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人の一生は重荷を負て
遠き道をゆくがごとし、
いそぐべからず。
不自由を常とおもへば不足なし、
こころに望おこらば
困窮したる時を思ひ出すべし。
確かに、人の一生は重荷を背負って遠い道をゆくようなものだけれど、布袋さんも当然それを知っていたでしょうね。。。 でも、決して悲観的にならずに、何もかも解った上で飄々(ひょうひょう)として、笑顔を浮かべながら風の吹くままに、風に背中を押されながら人の道を行くところがいいじゃありませんか!
デンマンさんも布袋さんの生き方にあやかりたいと思っているのでござ〜ますか?
決して悪くない生き方だと思うのですよ。
布袋(ほてい)
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布袋は、唐末の明州(現在の中国浙江省寧波市)に実在したとされる伝説的な仏僧。
水墨画の好画題とされ、大きな袋を背負った太鼓腹の僧侶の姿で描かれる。
日本では七福神の一柱として信仰されている。
本来の名は釈契此(しゃくかいし)であるが、常に袋を背負っていたことから布袋という俗称がつけられた。
四明県の出身という説もあるが、出身地も俗姓も不明である。
図像に描かれるような太鼓腹の姿で、寺に住む訳でもなく、処処を泊まり歩いたという。
また、そのトレードマークである大きな袋を常に背負っており、生臭ものであっても構わず施しを受け、その幾らかを袋に入れていたという。
なお、布袋が背負っているこの袋は堪忍袋ともいわれる。
雪の中で横になっていても布袋の身体の上だけには雪が積もっていなかった、あるいは人の吉凶を言い当てたなどという類の逸話が伝えられる。
彼が残した偈文に「弥勒真弥勒、世人は皆な識らず、云々」という句があったことから、実は布袋は弥勒の垂迹、つまり化身なのだという伝聞が広まったという。
その最期についても不思議な逸話が伝えられており、仙人の尸解に類している。
天復年間(9世紀末)に奉川県で亡くなり埋葬されたにもかかわらず、後日、他の州で見かけられたというのである。
その没後あまり時を経ないうちから、布袋の図像を描く習慣が江南地方で行われていたという記録がある。
なお、布袋を禅僧と見る向きもあるが、これは後世の付会である。
10世紀後半に記された『宋高僧伝』巻21「感通篇」に立てられた「唐明州奉化県釈契此」(布袋)の伝には、彼と禅との関係について一切触れていない。
布袋と禅宗の関係が見られるのは、時代が下がって11世紀初頭、『景徳傳燈録』巻27に「禅門達者雖不出世有名於時者」として、梁の宝誌や、天台智?、寒山拾得らの異僧・高僧たちと共に、「明州布袋和尚」として立伝される頃からのことである。
出典: 「布袋」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
デンマンさんはマジで布袋さんの生き方もまんざらではないと思っているのでござ〜ますか?
その通りですよ。
だったら、デンマンさんがいいなと思う布袋さんの生き方は、“インテリ乞食”の辞世の歌に込められた生き方に近いのではござ〜ませんか?
。。。ん? “インテリ乞食”の辞世の歌?
次のエピソードの乞食が残した歌ですわよう。
嘉永五(1852)年の世相トピックス
インテリ乞食の最後
江戸の山下御門外をかせぎ場にしていた乞食の六助が死んだ。
朋輩の易者が悔みにたずねたところ、六助が使っていた茶碗の底に、辞世の歌が書いてあるのを発見した。
さだめし名ある人物のなれの果てだろうと評判になった。
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(赤字はデンマンが強調。)
772 ページ 『読める年表・日本史』
2012年7月21日 改訂11版第1刷発行
発行所: 株式会社 自由国民社
デンマンさんも忘れてはいないでしょう?
もちろん覚えてますよう。 つい最近、卑弥子さんと話したばかりですからね。。。
あたくしは上の辞世の句を次のように解釈したのですわ。
一鉢千家飯 孤身幾度秋
不空遂不色 無楽又無憂
冬暖草園裡 夏涼橋下流
若人間此六 明月水中浮
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おもらい用のドンブリに千軒の家からご飯をもらって 一人で食べた食欲の秋が何度もありましたわ。
ドンブリが空になるまで思う存分いただきました。 色気のことなど、ちっとも考えてみませんでしたわ。
楽しければよいのです。 憂いなんて要りません。
冬は暖かい草の上に寝て、夏は橋の下で涼みます。
人間は若い内が花ですよ。
だから、明日はウキウキしながら水の中に飛び込んで、楽しく浮いて泳ごうと思いますわ。
■『遊女と三つ子』より
(2013年9月5日)
あたくしは、このように現代語に訳したのでござ〜ますわ。
うん、うん、うん。。。 はっきりと覚えてますよ。
だったら、布袋さんの生き方は、あたくしが解釈したような生き方に近いのではござ〜ませんか?
もちろん、卑弥子さんのように解釈することもできると思いますよ。 いかにも卑弥子さんらしい人生観に基づいて現代語に訳しています。 でもねぇ〜、“現代語訳”と言うよりも“現代誤訳”になっていると思うのですよ。
あらっ。。。 どこか間違っているのでしょうか?
京都の女子大学で腐女子の皆さんに「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授に向かって失礼かとは思うけれど、上の現代語訳は卑弥子さんの人生観に基づいての個人的な解釈で、上のように解釈すると、さだめし名ある人物のなれの果てだろうと評判にならないと思うのですよ。
そうかしら。。。? どこがいけないのかしら。。。?
あのねぇ〜。。。 解釈全体が、楽観的、享楽的すぎるのですよ。 これでは乞食の六助さんがルンルン気分で死んだことになって、どう考えてもさだめし名ある人物のなれの果てだろうと評判にならないです。
そうかしら。。。?
僕は思うのだけれど、この漢詩には“布袋さんの心”が読まれていると思うのですよ。
“布袋さんの心”でござ〜ますか?
そうです。 さだめし名ある人物のなれの果てだろうと評判になったということは、六助さんは乞食でありながらも中国の歴史や中国文学にも詳しかった。 そういう古典の素養を基にして上の辞世の漢詩を詠んだということだと思うのですよ。
あたくしのように解釈してはいけませんか?
いや。。。 卑弥子さんのように解釈してもいいですよ。 でもねぇ〜、京都の女子大学で腐女子の皆さんに教える時には、卑弥子さんの極めて個人的な解釈では駄目だと思うのですよ。
じゃあ、デンマンさんはどのように現在語訳したのでござ〜ますか?
次のように訳してみました。
布袋さんのように施しを受けがら孤独の生活を何十年と続けてきた。
施しが無ければ食わずに居ることもある。
特に楽しみと言うほどのことも無い代わりに、これと言って憂いも無い。
冬は暖かい干し草の上にでも寝て、夏は橋の下の流れで涼む。
そのような生活のどこがいいのか?ともし、誰かがこの六助に問うならば、きれいなお月さんが池に映って浮かんでいるような気持ちで生きているだけです、と答えようか。。。?
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■『遊女と三つ子』より
(2013年9月5日)
あたくしの現代語訳とそれほど変わらないと思うのですけれど。。。
うん、うん、うん。。。 確かに、大きな違いがあるわけじゃないかもしれません。 結局、見解の相違でしょうね。 僕にとって、卑弥子さんの解釈は、極めて楽観的、享楽的すぎると思う。 布袋さんは卑弥子さんほどルンルン気分ではいなかったと思うのですよ。 でもねぇ〜、卑弥子さんの解釈が間違っているとは言いませんよ。
でも、駄目だと言ったじゃござ〜ませんか!
それは僕の言いすぎでした。 卑弥子さんのような解釈の生き方もありだと思います。 自由主義・民主主義の世の中ですからね。。。 この記事を読んでいる人の考え方にも いろいろあると思うのですよ。
つまり、布袋さんの魅力は一つとは限らない。。。 人によってそれぞれ見解の相違がある。。。 デンマンさんはそのように言うためにこの記事を書き始めたのでござ〜ますか?
いや。。。 実は、布袋さんを描いた狩野洞白愛信に興味を持ったのですよ。
(すぐ下のページへ続く)