愛とロマンの小包(PART 2 OF 4)
つまり、小百合さんが「心躍る甘酸っぱさのフルーティMINTIAを舐めてスキップしてね!」と書いたので、デンマンさんはウェブカムの前でMINTIAの一粒をお口に入れてスキップして喜んでいるのでござ〜♪〜ますか?
そうですよう。 ルンルンル〜♪〜ン。。。ランランラ〜♪〜ン
デンマンさん!。。。いつまでもバカやっていると、この記事を読んでいるネット市民の皆様方が呆れて他のブログへ飛んで行ってしまいますわよ!
いや。。。そんなことはありません!
どうして、そのように確信を持って断定なさるのでござ〜♪〜ますか?
あのねぇ、ここまで読んできた人は、当然、小津安二郎監督のお気に入りだった東京築地の「天ぷら おかめ」のことが読みたいのですよ。。。だから、読み終わるまでは他のブログへ飛んでゆきません。
だったら、無駄口をたたかずに、その「おかめ」というお店を紹介してくださいな。
分かりました。。。ここに書き出しますから卑弥子さんもじっくりと読んでみてください。
飲んだあとはさっぱり
小津式“天茶漬け”
ごま油を使わず、綿の実の油だけで揚げる。
油も白いのでかき揚げの色も白く、食べてもまったくしつこくないかき揚げになる。
しらうおかき揚げの“天茶漬け”
『おかめ』は、松竹本社ビルから歩いて約3分という至近距離である。
三上信一郎氏の書いた『巨匠とチンピラ』によると、小津がこの店を訪れたのは、もと小田原芸者で馴染みだった女性が、近くでお座敷旅館を始めたのがきっかけだったという艶話になっている。
真偽の程は定かでないらしいが、現二代目・柴田雅夫さんによれば、「私が小学校へ行く前でしたから昭和30年頃と思います。当時は、週に1度は見えました」と話してくれた。
当時は、8人座れば満席となるお座敷天ぷらスタイルのひと部屋のみ。
(中略)
天ぷらは、当時も今も客の目の前で揚げる、コース天ぷらだが、最後のかき揚げを“天茶漬け”にしたのは、小津の考案によるものだ。
「通常はだし汁で出していましたが、小津先生が煎茶を勧めてくれたそうです。これなら飲んだ後でもさっぱりいただけると、周りにも大好評。店の看板メニューになりました」
かき揚げが崩れないコツは、ご飯に、本わさびと香り付けの粉わさび少々、粗塩少々を振り、それから煎茶をかけ、その上にかき揚げを載せるという手順によるもの。
かき揚げを、煎茶の入ったご飯に載せたときのジュッという音と、立ち上がる香ばしい匂いが食欲をそそる。
ところで、昭和30年以降の小津作品の料理屋の女将を見ると、柴田さんは母親が浮かぶという。
「小津先生はよく母親の服装やしぐさも見ていたそうです。そして母が当時つけていた割烹着や髪の結い上げ方、下町の口調など、映画にかなり取り入れたと聞いていましたが、いま改めて見ると母がそこに息づいているようで、本当に驚きました」
ここ『おかめ』にも、小津は天茶漬けとともに息づいている。
88 - 91ページ 『いま、小津安二郎』
取材・文: 丹野達弥・田中宏幸
2004年3月1日 初版第3刷発行
発行所: 株式会社 小学館
でも、どうして「バレンタインの小包」に「天ぷら」などを持ち出してきたのですか?
あのねぇ〜、僕は高橋治さんが書いた『絢爛たる影絵 - 小津安二郎』という本を何度も読んだのですよ。 小津さんを知っている知人や友人や映画関係者の人たちにインタヴューしてずいぶん詳しく書いている。 その本の中で僕が印象深く読んだのは次の箇所なのですよ。
小津といえば。誰もが頭に思い浮かべるのは“日本的な”という形容だろう。 京都、能、お茶漬け、日本酒、和服、亭主関白、貞淑でありながら家庭内の実権を握る主婦、挙げていけばきりがない。これらの道具立てに客はつい目を奪われる。その結果、小津は最も日本的な作家だと短絡して考えられることが多い。観客のみならず、批評家の間にもこの見方は定着している。 だが、それは大きな誤りだと私は思う。
小津は一見非常に日本的だが、実は大変西洋的で、それが欧米の小津ブームの最大の要因だといったのは、確かドナルド・キーンだったが、卓見である。小津は横書きの文章は勿論、縦書きの場合も左から右へ書いた。その方がペンを持つ手がインクの後をこすらないからである。徹底的な合理主義の面を持っていたのだ。根っから日本的なものにこり固まった人間であれば、左書きなどは出来ない。篠田が小津組の助監督田代幸三から聞いた話だが、母に死なれて一人住まいの頃、小津は万年床の上に座ってバター半ポンドをぶちこんだ雑炊をすすっていたという。 一人分の雑炊にバター半ポンドを入れれば、フォンデュのようなものが出来上がるだろう。 映画の題名にも用いた茶漬けなどは所詮営業用の看板だったような気がする。 トンカツ、鰻、油っこいラーメン、小津が好んで食べたものは茶漬けとはおよそ正反対のものだった。
作品も同様なのである。画面を埋める日本趣味の小道具や衣裳に幻惑されては、小津の真の姿が見えてこない。 『秋刀魚の味』の老いを凝視する姿勢。『晩春』の親子関係をつき破っても愛を打ち明けようとする女の執着。
『麦秋』の家族関係のそれぞれの立場で吹き出して来る自我。 それらを残酷なまでに描いて見せる作家精神は日本的と呼ばれるものとはおよそ対極にある。 ふんわりと着せてある衣裳が日本的であるにすぎない。
239 - 240ページ
『絢爛たる影絵 - 小津安二郎』
著者: 高橋治
2003年3月6日 第1刷発行
発行所: 株式会社 講談社
あらっ。。。「小津が好んだ食べ物は茶漬けとはおよそ正反対のものだった」と書いてありますわね。
そうなのですよ。 確かに高橋さんが言っているように「残酷なまでに描いて見せる作家精神は日本的と呼ばれるものとはおよそ対極的にある。 ふんわりと着せてある衣裳が日本的であるにすぎない」。。。僕もそう思いますよ。 でもねぇ、食べ物に関する限り、小津さんは油っこいものも好きだったけれど茶漬けもそれに劣らないくらい好きだったのですよ。 それは、上の『天ぷら おかめ』を読めば良く分かる。
。。。で、デンマンさんは何がおっしゃりたいのでござ〜♪〜ますか?
小津は一見非常に日本的だが、実は大変西洋的で、それが欧米の小津ブームの最大の要因だといったのは、確かドナルド・キーンだったが、卓見である。
こう書いてあるけれど小津さんは、日本的な良いものを欧米の観衆にも分かるように表現していたと思う。
でも、欧米で暮らしたこともない小津さんが欧米の観衆にも分かるように映画が作れるものなのでしょうか?
あのねぇ〜、小津さんは日本帝国大本営の求めに応じて戦争中シンガポールで国策宣伝映画を作ることになった。 ところが、いざ作ろうとした頃には日本はもう負けるのが目に見えていた。
そうで、どうしたのでござ〜♪〜ますか?
シンガポールの映画館の倉庫には日本ではまだ公開されたこともない欧米のフィルムが山のように積まれていた。 一般上映が終わった後で小津さんは、そのフィルムを毎晩のように観まくったのですよう。
『嵐が丘 / Wuthering Heights 』
1939年版 (昭和14年)
ウイリアム・ワイラー監督作品
「ジョン・フォード、ウイリアム・ワイラー、ウォルト・ディズニー」
「ああ」
「日本じゃまだ誰も見ちゃいないんだ。ワイラーの真似をしているだけでも、4,5年はやって行けるぜ。 そうしてる中には、シンガポールで仕込んだ肥料がジワジワと効(き)いてくる。 もっとも、帰れての話だがな」
小津は自分が口にした言葉を巧みに引用して見せた。
後年、厚田はこの「肥料がジワジワと効いてくる」という言葉を身にしみて思い出すことになる。
帰国後に、小津は僅か三作目の『晩春』で自分の世界を作り上げ、その死まで、日本映画最高の位置を誰にも譲らなかった。 いや、死後、その10年後、20年後にますます盛名を世界に謳(うた)われるようになる。
小津は戦争の最前線にいながら、魔法のように、戦争そのものを自分の充電期間に使って見せたのだ。
412ページ
『絢爛たる影絵 - 小津安二郎』
著者: 高橋治
2003年3月6日 第1刷発行
発行所: 株式会社 講談社
シンガポールで欧米的な手法・表現をゲットしたのでござ〜♪〜ますわね?
そうですよ。 だから小津さんの映画は欧米の観衆にも分かるのですよ。
つまり、この事が言いたかったのでござ〜♪〜ますか?
違いますよ。 あのねぇ、『天ぷら おかめ』の主人は小津さんが誰と来たのか?覚えていないと言ったけれど、たとえ知っていたとしても「小津先生と原節子さんが、よくいらっしゃいました」なんてことは、初めて取材に訪れた人に言わないものですよ。
あらっ。。。小津監督と原節子さんは『天ぷら おかめ』へたびたび訪れたのでござ〜♪〜ますか?
僕はそう思いますよ。
その証拠でもあるのでござ〜♪〜ますか?
あのねぇ、小津監督作品『麦秋』には天ぷら屋のシーンが出てくるのですよ。
つまり、『麦秋』の中に天ぷら屋のシーンがあるから小津監督と原節子さんは『天ぷら おかめ』へたびたび訪れたとデンマンさんはおっしゃるのですか?
いや。。。その逆ですよ。 『天ぷら おかめ』は、おそらく、小津さんと原節子さんにとって思い出の場所ではなかったのか?! それで小津監督は、それとなく映画の中に天ぷら屋のシーンを入れたと僕は感じたのですよ。
それは、デンマンさんの個人的な感想でござ〜♪〜ますわ。
でもねぇ、二人の事をいろいろと調べてゆくと共通することが結構出てくる。
たとえば。。。?
二人とも映画の中で人生を燃え尽きさせたのですよう。 それに、二人とも生涯独身で通した。 つまり、映画と結婚していたようなものですよ。 それでねぇ、二人には興味深いエピソードがあるのです。 卑弥子さんも読んでみてください。
東宝のプロデューサー佐藤一郎が面白いことを話してくれた。
「小津さん、原さんの二人と一緒に飲む機会が二、三度あったけれどね、印象をひと言でいえば、あの二人は夫婦のような感じに見えるんだよ。でも、なんというのかな。あっちの方はもう絶えてなくなってしまった夫婦なんだな。でも、宿命で夫婦のままでいるとでもいうのかな」
原にとっては小津ほど自分を見事に生かしてくれた人間はいない。だが、小津ほど遠い人間もいない。監督と女優であることは、まさに夫婦にも通ずる時間を共有して、相互の人生にとってかけがえのいないものを作り出す。だが、この二人は互いに欠くことのできない両輪の宿命下にありながら、ついに命の歓喜を伴う理解には辿りつけなかった。
ある時夫婦の間ほど遠い人間関係はないように。
昭和26年11月の日記の欄外に小津はこう書いている。
“このところ原節子との結婚の噂しきりなり”
前後に、関連する記述は全く見当たらない。克明な文字で書かれた日記を読み進んでいくと、突然出てくるこの記述は、自分には全く無関係なゴシップを書きとめたかのように読める。
小津の死は頸部(けいぶ)の腮源性癌腫(さいげんせいがんしゅ)によるものだが、二度の入院の間に自宅で病臥(びょうが)していた時期がある。
それを見舞った原が小津の寝ていた煎餅蒲団(せんべいぶとん)に驚いた。翌日、原から御見舞いにと分厚い蒲団のひと組が届けられた。
「こんな馬鹿げたものに寝られるかい」
小津は見向きもしなかった。薄い蒲団に寝るのが好きだったのである。
この話を現実に疎いスター特有の分別の浅さととることは易しい。だが、原の心情を慮(おもんぱか)ってみよう。
自分に永遠の生命を吹き込んだ小津が、煎餅蒲団にくるまって数多い見舞い客に接することは、思うだに耐え難かったのではないだろうか。
それにしても人を理解することの難しさを思い知らされて、このエピソードは、ただ、苦い。
小津の死に接してあたりはばからずに号泣したのが杉村(春子)と原だった。
杉村の悲嘆は澄明(ちょうめい)である。
だが、原の泣き声には様々の語りつくせぬものがこめられていたように思える。
釣糸は一度絡み合うと、解き目もわからぬほどによじれる。
原の思いが、私にはそう見える。
そして、それは、小津が原に思う様に泣くことを許した唯一回の機会だったのである。
二人の宿命の出会いがどのように訪れたかを明らかにすることは難しい。
小津は死に、原は口を閉ざした。
(注: 写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました)
75 - 76ページ
『絢爛たる影絵 - 小津安二郎』
著者: 高橋治 2003年3月6日 第1刷発行
発行所: 株式会社講談社
『銀幕の愛』に掲載
(2010年8月26日)
あらっ。。。なんだか、とっても悲しいエピソードでござ〜♪〜ますわ。 でも、天ぷら屋さんは出てきませんわね。
あのねぇ、天ぷら屋さんに注目して欲しいのではなくて原節子さんが小津監督の病床に分厚い蒲団のひと組を届けたことを読み取って欲しいのですよ。
その事をデンマンさんはおっしゃりたかったのでござ〜♪〜ますか?
そうですよ。
でも、そのお蒲団がバレンタインと関係あるのでござ〜♪〜ますか?
そうですよ。。。関係あるのですよ。 これまで長々といろいろな話をしてきたのも、このエピソードを持ち出したかったからですよ。
あたくしにはデンマンさんの言おうとなさる事がまだ良く分かりませんわ。
分からないのだったら次の小文を読んでくださいよ。
(すぐ下のページへ続く)