鑑真と定慧の物語(PART 1 OF 3)
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鑑真和上の目は見えていた
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5回の渡航に失敗した後、ようやく日本にたどり着いた鑑真和上。
この間に多くの弟子を失い、目も見えなくなっていたというのが通説である。
この通説に、正倉院に残された鑑真自筆の書状から疑問が投げかけられた。
(中略)
正倉院には鑑真の書状が伝わっている。 鑑真が奈良の都に入ってから間もない754(天平勝宝6)年3月18日に、良弁に宛てて出されたもので、四大部の経典(『華厳経』『大涅槃経』『大集経』『大品経』)の借用を申し入れている。
良弁はただちにこの書状を造東大寺司へ届け、他所に貸し出されていた『大涅槃経』を除く三大部を鑑真に届けた。 鑑真が経典の借用を依頼したのは、写経用にテキストを校合しようとしたためと考えられる。
(中略)
鑑真が目を病んでいたのは事実だろう。 それにより「明を失った」ことも一概に否定できない。 しかし、それは完全失明を意味しない。 少なくとも754(天平勝宝6)年3月18日には(次の)書状を書きうる程度の視力を持ちえていたのではないか。
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(中略)
『続日本紀』によれば、758(天平宝字2)年8月、淳仁天皇は「政事の躁煩に敢へて老を労せざれ。 僧綱の任を停むべし」と詔した。 思託は『延暦僧録』のなかで、鑑真が誹謗されたと記しているが、法進があとを継ぎ、唐招提寺での伝戒もみとめられていたのだから、体をいたわってのことだと素直に解釈するほうがいい。 唐招提寺の寺地が福地であることを、その土をなめて鑑真が判断したのは、目が不自由になったからではないかと考えていた。
しかし実際にはさらにそのあと、最晩年のことらしい。 鑑真の孫弟子で、唐招提寺五世長老になった豊安が著した『唐招寺流記』(建立縁起)に、最晩年に「稍生難視之想(ようやく難視の想いを生じ)」「権隠双樹之陰(おわりに双樹の陰に隠る)」とあるのが根拠になる。
(注: 写真はデンマン・ライブラリーから)
140 - 142ページ
「鑑真和上の目は見えていた」西山厚・著
『別冊太陽 日本のこころ - 165
平城京 平城遷都1300年記念』
監修: 千田稔
2010年4月1日 初版第3刷発行
発行所: 株式会社 平凡社
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「日本に着いた時、何度も遭難したので鑑真和上の目は見えなくなっていた」と歴史の先生が言っていたのですけれど、実は鑑真和上の目は見えたのですか?
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僕も『別冊太陽』を読んで初めて知ったのですよ。 「経典を貸してほしい」と良弁に出した書状は、これまでは鑑真の直筆ではなくて、誰かが代わって書いたのだろうということになっていた。 でもねぇ、最近の研究で直筆らしいと判ったようです。 だから、鑑真和上の目は見えていたと言うわけですよ。
それにしても鑑真和上は5度も渡航に失敗して10年かけてやっと6度目に日本へやって来たのでしょう!?
そうですよ。。。ちょっと常識では考えられないですよ。
鑑真
誕生:688年(持統天皇2年)
他界:763年6月25日(天平宝字7年5月6日)
奈良時代の帰化僧。日本における律宗の開祖。俗姓は淳于。
唐の揚州江陽県の生まれ。
14歳で智満について得度し、大雲寺に住む。
18歳で道岸から菩薩戒を受け、20歳で長安に入り、翌年弘景について登壇受具し、律宗・天台宗を学ぶ。
栄叡と普照の要請を受けた鑑真は、渡日したい者はいないかと弟子に問いかけたが、危険を冒してまで渡日を希望する者はいなかった。
そこで鑑真自ら渡日することを決意し、それを聞いた弟子21人も随行することとなった。
その後、日本への渡海を5回にわたり試みたがことごとく失敗した。
日本への渡海
鑑真第六回渡海図最初の渡海企図は743年夏のことで、このときは、渡海を嫌った弟子が、港の役人へ「日本僧は実は海賊だ」と偽の密告をしたため、日本僧は追放された。
鑑真は留め置かれた。
2回目の試みは744年1月、周到な準備の上で出航したが激しい暴風に遭い、一旦、明州の余姚へ戻らざるを得なくなってしまった。
再度、出航を企てたが、鑑真の渡日を惜しむ者の密告により栄叡が逮捕をされ、3回目も失敗に終わる。
その後、栄叡は病死を装って出獄に成功し、江蘇・浙江からの出航は困難だとして、鑑真一行は福州から出発する計画を立て、福州へ向かった。
しかし、この時も鑑真弟子の霊佑が鑑真の安否を気遣って渡航阻止を役人へ訴えた。
そのため、官吏に出航を差し止めされ、4回目も失敗する。
748年、栄叡が再び大明寺の鑑真を訪れた。
懇願すると、鑑真は5回目の渡日を決意する。
6月に出航し、舟山諸島で数ヶ月風待ちした後、11月に日本へ向かい出航したが、激しい暴風に遭い、14日間の漂流の末、遥か南方の海南島へ漂着した。
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現在の海南島
鑑真は当地の大雲寺に1年滞留し、海南島に数々の医薬の知識を伝えた。
そのため、現代でも鑑真を顕彰する遺跡が残されている。
751年、鑑真は揚州に戻るため海南島を離れた。
その途上、端州の地で栄叡が死去する。動揺した鑑真は広州から天竺へ向かおうとしたが、周囲に慰留された。
この揚州までの帰上の間、鑑真は南方の気候や激しい疲労などにより、両眼を失明してしまう。
鑑真が渡日前に失明していたという説は鑑真の伝記である「唐大和上東征伝」を主に論拠としている。
しかし、最近の研究では渡日翌年に書かれた東大寺の良弁に経典の借用を申し出た鑑真奉請経巻状は弟子の代筆説より鑑真の直筆説の可能性が高くなったことから、渡日後も完全には失明はしていなかったとする説もある。
752年、必ず渡日を果たす決意をした鑑真のもとに訪れた遣唐使藤原清河らに渡日を約束した。
しかし、当時の玄宗皇帝が鑑真の才能を惜しんで渡日を許さなかった。
そのために753年に遣唐使が帰日する際、遣唐大使の藤原清河は鑑真の同乗を拒否した。
それを聞いた副使の大伴古麻呂は密かに鑑真を乗船させた。
11月17日に遣唐使船が出航、ほどなくして暴風が襲い、清河の大使船は南方まで漂流したが、古麻呂の副使船は持ちこたえ、12月20日に薩摩坊津の秋目に無事到着し、実に10年の歳月を経て仏舎利を携えた鑑真は宿願の渡日を果たすことができた。
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鑑真記念館
鹿児島県南さつま市坊津町秋目225−2
なお、皇帝の反対を押し切ってまで日本に来た理由について、小野勝年は日本からの留学僧の強い招請運動、日本の仏教興隆に対する感銘、戒律流布の処女地で魅力的だったという3点を挙げている。
それに対して金治勇は、聖徳太子が南嶽慧思の再誕との説に促されて渡来したと述べている。
(注: 赤字はデンマンが強調
写真と地図はデンマン・ライブラリーより)
出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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上の『ウィキペディア』にも出てくるけれど、藤原清河の率(ひき)いる第12次遣唐使一行が来唐すると聞いたので、すでに唐で35年間暮らしていた阿部仲麻呂は、その船に乗って日本へ帰ろうと思った。
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。。。で、一緒に帰ったのですか?
阿部仲麻呂は清河の乗船した第1船に乗ったのですよ。 ところが暴風雨に遭って南方へ流されてしまった。
。。。で、どうしたのですか?
阿倍仲麻呂は死んだという噂が長安に広まった。 この時、友人である有名な李白がそれを聞いて詠(よ)んだのが、「明月不歸沈碧海」の七言絶句「哭晁卿衡」だったのですよ。
阿倍仲麻呂は溺れ死んでしまったのですか?
いや、その時は死ななかった。 噂は誤報だったのですよ。 船は南へ流されて安南の驩州(現・ベトナム中部ヴィン)に漂着した。 結局、清河と仲麻呂一行は天平勝宝7年(755年)に長安に帰り着いた。
それで、また次の遣唐使船に乗って帰ろうとしたのですか?
唐の朝廷は行路が危険である事を理由に清河と阿部仲麻呂の帰国を認めなかった。 結局、阿倍仲麻呂は日本へ帰るのを諦めてしまったのですよ。
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天の原
ふりさけみれば
春日なる
三笠の山に
いでし月かも
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阿倍仲麻呂は日本へ帰りたくって、三笠の山を想いながらこうして長安の都で和歌を詠んだと言われているのですよ。
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結局、日本へは帰れなかったのですか?
帰れなかったのですよ。 仕方なく、当の都で役人として働いた。 でも、偉くなったのですよ。 天平宝字4年(760年)には左散騎常侍(従三品)から鎮南都護・安南節度使(正三品)として再びベトナムに赴き総督を務めた。 天平宝字5年(761年)から神護景雲元年(767年)までの6年間は、ハノイの安南都護府に在任した。 天平神護2年(766年)には安南節度使を授けられた。 最後は潞州大都督(従二品)を贈られているのです。 そして三笠の山を想い浮かべながら、宝亀元年(770年)1月に73歳で亡くなったのですよ。
デンマンさんも、阿倍仲麻呂のように「さきたま古墳」の丸墓山を想い浮かべながらバンクーバーで亡くなるのですか?
そうですよ。 僕は辞世の句まで用意しているのですよ。
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忍の原
ふりさけみれば
さきたまの
丸墓山に
いでし月かも
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デンマンさん!。。。この和歌は盗作臭いですわ。 (微笑)
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盗作ではありませんよ。 僕の素直な心の内を詠(うた)ったものですよ。
つまり、この歌を詠みながらデンマンさんはバンクーバーで亡くなるのですか?
小百合さんは、僕をバンクーバーで死なせたいのですか?
いいえ。。。別にデンマンさんがバンクーバーで亡くなることを願っているのではありませんわ。 辞世の句など持ち出すから、このようなお話になるのですわ。
あのねぇ〜、僕は辞世の句を見せびらかすために上の句を持ち出したのではなくて、当時、遣唐使船に乗って日本から唐へ行くことや、唐から日本へ帰ってくることがいかに大変であったかと言う事を話したかったまでですよ。
それで、“定慧(じょうえ)”という人物は鑑真和上と関係のある人なのですか?
あれっ。。。小百合さんは知らないのですか?
あまり耳にしたこののない名前ですわ。
小百合さんは僕の記事を読んでいるのでしょう?
時々読んでいますわ。
だったら、“定慧(じょうえ)”の事も知っているはずではありませんか!?
いいえ。。。そのような名前はデンマンさんの記事の中には無かったように思いますわ。
やだなあああァ〜。。。ここに書き出すから思い出してくださいよう! んもお〜〜。。。
(すぐ下のページへ続く)