日本の死海文書(PART 1)
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デンマンさん。。。 1月28日には『日本へ、紀元前のメイフラワー号』を書いて、今日は『日本の死海文書』でざ〜♪〜ますか?
いけませんか?
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■『日本へ、紀元前のメイフラワー号』
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あのねぇ〜、上の記事は人気があるのですよ。
マジでござ〜♪〜ますか?
ちょっと次のリストを見てください。
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これはアメブロの僕のブログの1月28日から2月2日までの1週間の「人気記事リスト」なのですよ。
あらっ。。。 『日本へ、紀元前のメイフラワー号』がダントツで読まれているではござ〜ませんかア!
だから言ったでしょう! 「紀元前のメイフラワー号」が日本へやって来たということがネット市民の皆様には刺激的に聞こえたのでしょうね。
それで、今日は「日本の死海文書」という衝撃的なタイトルにすれば、またネット市民の皆様がワクワクしながら読みにやって来ると思って付けたのでござ〜ますか?
いけませんか?
「同じ柳の木の下にドジョウはいない!」と申しますわァ。。。 うふふふふふ。。。 デンマンさんの思い通りにはなりませんわよ。 『日本へ、紀元前のメイフラワー号』を読んだネットサーファーの皆さんは きっとガッカリしているはずですわ。
どうしてガッカリするのですか?
だってぇ〜、徐福さんがリーダーになって日本へやって来た人たちは 「メイフラワー号」とは全く関係ないではありませんかァ!
むしろ、「メイフラワー号」よりも衝撃的な出来事じゃありませんか! 船団を組んで 5、000人以上の人たちがやって来たのですよ。 だから、ダントツで読まれているのですよ。
。。。んで、今日の「日本の死海文書」というのは、 「紀元前のメイフラワー号」に劣らないほど衝撃的なのでござ〜ますか?
僕は、そう思いますよ。 体が浮いてしまう“死海”に興味がある人はたくさんいると思うから、「日本の死海文書」というタイトルに興味を惹かれる人は多いと思うのですよ。
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死海で浮いてみた
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でもねぇ〜、“死海文書”がどういうものか? 全く知らずに読みにやって来た人も居ると思うので ちょっとばかりウィキペディアから概要を引用しますよ。
死海文書
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死海文書はヘブライ語聖書の最古の写本を含んでいて、宗教的にも歴史的にも大きな意味を持ち、第二神殿時代後期のユダヤ教の実情をうかがわせるものでもある。
文書は大部分がヘブライ語で書かれており、二割ほどのアラム語文書と、ごくわずかなギリシア語文書およびアラム語の方言であるナバテや語の文書を含んでいる。
多くは羊皮紙であるが、一部パピルスもある。
文書の成立は内容および書体の分析と放射性炭素年代測定、質量分析法などから紀元前250年ごろから紀元70年の間と考えられている。
死海文書を記したグループ(以後、クムラン教団と呼ぶ)については、伝統的にエッセネ派と同定する意見が主流だが、エルサレムのサドカイ派の祭司たちが書いた、あるいは未知のユダヤ教内グループによって書かれたとする意見もある。
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1946年の終わりから1947年の初めのいずれかの時期に、ベドウィンのターミレ族の羊飼いムハンマド・エッ・ディーブ(Muhammed edh-Dhib、「狼のムハンマド」の意)とその従兄弟がヒベルト・クムランと呼ばれる遺跡(遺跡自体は19世紀から知られていた)の近くの洞窟の中で古代の巻物の入った壷を発見した。
最初の発見に関しては「子ヤギを追いかけていて、洞窟の中に石を投げ入れたところ、何かが割れる音がしたので入ってみた」などさまざまな逸話が語られるが、どこまでが真実かはもはやわからない。
出典: 「死海文書」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
つまり、「死海文書」というのは、ヘブライ語聖書の最古の写本ということでござ〜ますわね。。。つうことは、日本の最古の書物というのは『古事記』でござ〜ますから、「日本の死海文書」は『古事記』のことですか?
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あのねぇ〜、『古事記』が日本の最古の書物だということは中学生でも知っていますよ。
。。。つうことわあああァ〜。。。、つまり、『古事記』よりも古い書物が見つかったのでござ〜ますか?
いや。。。 そういう話は聞いたことがないですよ。
だったら、おもわせぶりな事を言わないで「日本の死海文書」とは何のことなのか? 端的に細木数子のようにズバリ!とおっしゃってくださいましなァ!
あのねぇ〜、実は、僕も「日本の死海文書」が具体的にどの書物を指しているのかは解らないのですよ。 でも、近い将来「日本の死海文書」が発見されるだろうと信じているのですよ。
要するに、ヘブライ語聖書の最古の写本ならぬ、日本古来の神道の聖書とも言うべき最古の写本が発見されると、デンマンさんはおっしゃるのでござ〜ますか?
いや。。。 日本古来の神道の聖書かどうかは解りませんよ。 むしろ、そんなものはないでしょう!?
だったら、どう言う訳で「日本の死海文書」としたのでござ〜ますか?
あのねぇ〜、“死海文書”は放射性炭素年代測定、あるいは質量分析法などから紀元前250年ごろから紀元70年の間に書かれたものだと考えられている。
つまり、日本でも、その頃に書かれたものが発見されると、デンマンさんはおっしゃるのでござ〜ますか?
その通りですよ。
でも。。。、でも。。。、日本には紀元前250年ごろには文字の文化などないのですわ。
だから、僕はこのページの始めに『日本へ、紀元前のメイフラワー号』を持ち出したのですよ。
あらっ。。。 つまり、徐福さんとそのグループが古代中国から持ち込んだ書物が日本のどこかの洞窟に眠っているということでござ〜ますか?
死海の近くの洞窟で“死海文書”が発見されたのですよ。 日本でも、徐福さんたちが持ち込んだ書物が洞窟に隠されたということも充分に考えられるのですよ。
でも、日本では徐福さんの伝説でさえ歴史的事実とは考えられてきませんでしたわ。
その通りですよ。 藤原氏が歴史を捻じ曲げてしまいましたからね。
つまり、徐福さんたちが古代中国からやって来た事実は藤原氏によって緘口(かんこう)令がしかれて記録から抹殺されたのでござ〜ますか?
その通りですよ。
でも、どうして。。。?
藤原氏にとって徐福さんたちの存在は邪魔だったのですよ。 藤原氏は自分たちが日本古来から伝わる正統な家系の末裔で、政権の正当な担当者であることを後世に示したかったからですよ。
つまり、『古事記』、『日本書紀』を藤原氏が作るときに、他の書物をすべて焼き捨てさせたのでござ〜ますか?
その通りですよ。 だから、徐福さんたちから引き継がれた書物を焼き捨てることは忍びないと思って有志が“死海文書”のように洞窟に隠すか? あるいは銅鐸のようなものと一緒に土中に埋めたということが充分に考えられるのですよ。
でも。。。、でも。。。、そのような事が記録に残っているのですか?
あのねぇ〜、藤原氏が鵜の目、鷹の目のようにして警戒していたから、日本の書物には徐福さんたちが持ち込んだ書物が隠されたことは記録に出ていないのですよ。 でもねぇ、徐福さんたちがやって来たことは藤原氏の目を盗んで書かれている。
あらっ。。。 そのような書物があるのでござ〜ますか?
あるのですよ。 徐福さんの名前は書けなかったのだけれど、どうしても歴史に残さねばならないと考えた人がいて 9世紀に編纂された『新撰姓氏録』に書いてあるのですよ。 応神(ホムタワケ)天皇の時代に秦氏の長者が中国から127県の住民を率いて渡来したと書いてある。 つまり、『古事記』でも『日本書紀』でも藤原氏は意図的に徐福さんを無視したのですよ。 だから、当然、藤原氏に反発する人たちも出てくる。
。。。んで、どなたが『新撰姓氏録』に書き込んだのでござ〜ますか?
だから、反藤原氏の歴史家ですよ。 でも、歴史に残そうとして徐福さんの名前を書くと藤原氏にイジメられるので、技術集団として秦氏の名前を記録に残したのですよ。
だけど、徐福さんたちがもたらした書物が どこかに隠されたということは記録に残ってないのでしょう?
確かに、日本にはそのような記録はない。
あらっ。。。 つうことわあああァ〜。。。中国には記録に残されているのでござ〜ますか?
あるのですよ。 11世紀に活躍した北宋の詩人で、欧陽脩(おうようしゅう)という人物が「日本刀歌」という詩の中で、「秦代に焚書坑儒を逃れた書が日本に残った」と書いているのですよ。
焚書坑儒
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秦の始皇34年(紀元前213年)、博士淳于越は郡県制に反対し、いにしえの封建制を主張した。
『史記』によると、丞相の李斯は、儒者たちが古(いにし)えによって現政府を批判していると指摘し、この弾圧を建議した。
始皇帝はこの建議を容れて挟書律(医学・占い・農業以外の書物の所有を禁じた令)を制定した。
これにより、民間人が所持していた書経・詩経・諸子百家の書物は、ことごとく郡の守尉に提出させ、焼き払うことが命じられた(焚書)。
李斯は、秦の歴史家によるものを除いてすべての史書は燃やすべきであると主張し、各諸派によって書かれた書物は、地域の官僚に処分をするよう命令が出された。
儒教の経典である六経のうちの『楽経』はこの時失われ、漢代に五経として確立された。
翌年(紀元前212年)、廬生や侯生といった方士や儒者が、始皇帝が独裁者で刑罰を濫発していると非難して逃亡したため、咸陽の方士や儒者460人余りを生き埋めにし虐殺した(坑儒)。
ただし、その後も秦に仕えた儒者はおり、陳勝・呉広の乱が起きた際に二世皇帝胡亥が儒者の叔孫通に諮問している。
紀元前206年、漢の高祖劉邦が秦を滅ぼしたが、依然として挟書律は現行法であり、その後恵帝4年(紀元前191年)11月になってようやく廃止された。
また、『韓非子』和氏篇には商鞅に仮託して、挟書を政策として採用すべきだと議論しており、李斯の独創ではなく、戦国末期には法家によって議論されていた現実的な政策であった。
始皇帝はそれを採用したに過ぎず、劉邦政権が踏襲したことによっても、挟書律が少なくとも為政者にとっては現実的な政策であったことが分かる。
出典: 「焚書坑儒」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
つまり、徐福さんは、名目は「不老長寿の薬を求めるため」と言いながらも、実は、秦の始皇帝の圧制から逃れようと画策したのですよ。
それで、日本へ渡航する時に、ついでにたくさんの書物も船に運び入れたのでござ〜ますか?
だから、それが巷の噂になって11世紀に欧陽脩さんの耳にも達したわけですよ。
。。。んで、その「日本の死海文書」はどこに隠されたのでござ〜ますか?
実は、そのことで僕は以前に記事に書いたのですよ。 ちょっと読んでみてください。
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