Myぬこの愛と恋愛(PART 1)
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デンマンさん。。。 あんさんは、ぬこを飼いなはってるん?
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わてのマンションはペットを飼(こ)うてはあかんのやがなァ〜?
それにしても あんさんの おかあはんは血も涙もあらへんなァ〜。。。!
あれっ。。。 めれちゃんは次のエピソードを読んでしもうたのかァ〜?
元気にしていたヒヨコがみるみる弱っていき、死んでいく様子を何もしてあげられずにただ見守るのは、辛くて切ない。
3日目に生き残っていたのは一羽となった。
ピーと名付けたこの子は元気で体も大きくなってゆく。
立派な鶏に育ってくれるかもしれないという希望が湧いてきた。
家に来てから1週間目に、さかんに騒ぐので、檻の中が窮屈になったのだろうと、庭に出してやった。
ピーは大喜びで庭の中を徘徊する。
クチバシで地面を突いたかと思うと、もうクチバシには虫やミミズをくわえている。
得意な様子だ。
いきなり黒っぽい塊が目の前をよぎった。
キャーッと泣き叫ぶしかなかった。
よく見かける野良猫がピーをくわえて走り去っていった。
こうしてヒヨコは一羽もいなくなった。
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それから丸々1年間、わたしは鶏肉も卵も一切食べられなくなった。
掌の上で息絶えていったヒヨコたちの姿が二重写しになって、とても口に運べない。
朝の生卵はもちろんのこと、オムライスも茶碗蒸しも卵入りのホットケーキも口を付けられなくなってしまった。
1年ほどして、ある日カステラを頬張っていたら、母が言った。
「あら、それは卵がいっぱい入っているのに」
とたんにヒクヒクと痙攣しながら死んでいったヒヨコたちの面影が目の前にちらついた。
涙が溢れてくる。
それでもわたしはカステラを食べ続けた。
毒を喰らわば皿までの心境だった、というよりも、ものすごく美味いカステラだったのだ。
ヒヨコたちの面影にカーテンを下ろす術をそのとき会得した。
(中略)
今でも肉料理や卵料理を前にすると、ほんの一瞬だが、ヒヨコたちや獣たちの姿が目前をよぎる。
みな、それは悲しそうな目をしている。
なのに、次の瞬間にはムシャムシャと美味しく食べている自分が、ときどき怖くなる。
もっと心優しく意志の強い人々はベジタリアンになるのだろう。
ヒトラーもベジタリアンだった。
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(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
19-21ページ 『旅行者の朝食』
著者: 米原万里
2002年6月10日 第2刷発行
発行所: 株式会社 文藝春秋
僕は、アヒルを2匹飼っていたことがあって、ちょうど米原万里さんのように死なせてしまって、しばらくアヒルの肉や鶏肉は食べられませんでしたよ。
あらっ。。。 野良猫に食べられてしまったのでござ〜♪〜ますか?
いや。。。 雛から大人に成長しましたよ。
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でも、1匹は車にはねられて即死したのですよ。 もう1匹は、僕の両親が密かに近所の肉屋さんに持っていって、さばいてもらったのですよ。
あらっ。。。 食べてしまったのですか?
そうなのですよ。 食卓に、そのアヒルの肉が出てきて、弟たちは旨い旨いと言って食べてしまったけれど、僕は食べることができませんでしたよ。
それはそうでしょう! 可愛がっていたアヒルの肉が「北京ダック」になってテーブルにのっていたら、誰だって食べられませんわ。 それにしても、息子が可愛がっていたアヒルを肉屋さんで解体してしまったなんて、デンマンさんのご両親は血も涙もないのですわねぇ〜!?
この話をすると、たいていの人がビックリするのだけれど、でもねぇ〜、親父は動物が嫌いだったけれど、母親は、動物が好きでしたよ。
それなのに、どうして肉屋さんで解体してしまったのですか?
エサを食べさせるのは子供だけで充分で、アヒルにまでエサ代を使うのがもったいないというのが、母親の本音だったようですよ。
でも、それにしても。。。??
卑弥子さんも呆れてしまうでしょう!? 僕だってぇ、両親に対して怒って抗議するというよりも、呆れてしまいましたよ。 僕がずいぶん可愛がっていたから、後ろめたい気持ちがあったのでしょうね。 僕が呆れたように母親の目を見ると、正視できずに目をそらしましたよ。
それは、そうでしょうねぇ〜。。。 で、今でも「北京ダック」は食べられないのでござ〜ますか?
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いや。。。 「北京ダック」は僕の好物の一つですよ。 うへへへへへ。。。
つまり、米原万里さんのヒヨコのエピソードにデンマンさんは、マジで共感したわけなのでござ〜ますわねぇ〜!?
そうなのですよ。
『えっ、ヒトラーはベジタリアン?』より
(2014年3月5日)
めれちゃんも わての母親がむごい母親やと思うかもしれへんけどォ、実は、我が子に対する愛情はメチャ大きかったのやでぇ〜。。。 あまりに大きすぎたので、アヒルに対する愛は無くなってしもうたのやないかいなァ〜。。。
それにしても、つぶして食べてしまうのは、ちと常軌を逸(いっ)していると思いますねん。 今やったら、動物愛護協会から非難の手紙が舞い込むと思いますわァ〜。
めれちゃん。。。 今日は“Myアヒルの愛”やのうてぇ〜、“Myぬこの愛”とめれちゃんの恋愛の話をするのやでぇ〜。。。
この“Myぬこの愛”というのは、わたしの ぬこの愛のことやのォ〜?
そういうこっちゃがなァ〜。。。 わては めれちゃんが ぬこたちを愛していることを よう知っておるねん。
猫のタンタンと
めれちゃんの会話
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それに、ぬこたちも めれちゃんに対して豊かな愛情表現をしているのを つねづね読んでいる。 たとえば。。。
さみしがりやのきみへ
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きみは涙をためて
立ち尽くす
目覚めたときに
きみはひとりきり
夕べの、あの優しさは
何だったのだろうか?
夕べの、あのときめきは
何だったのだろうか?
だ〜れも居ない部屋の中で
きみは一人になって
涙を流す
でも、きみは一人やないんやでぇ〜
見てみいなぁ〜
ねねが、きみの足元で
幸せそうに
安らかな吐息を立てて
眠っておるがなぁ〜
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見てみいなぁ〜
タンタンがきみの足元にすりよって
やさしくなぐさめておろうがぁ〜
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見てみいなぁ〜
ニコちゃんまでが
またボールをくわえて
きみとあそぼうとしておるがなぁ〜
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きみは一人やないんやでぇ〜
いつもアルジェの浜辺で
きみのことを
思っている
ムルソーもおるのやでぇ〜
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(ムルソーのことを知りたいなら、
次の記事を読んでね。)
■ 『炎の異邦人 (2007年3月28日)』
■ 『異邦人の夏 (2008年7月18日)』
■ 『萌える慕情 (2008年8月9日)』
『さみしがり屋のきみへ』より
(2009年1月26日)
あんさんは、ずいぶん古い詩を持ち出してきましたやんかァ〜。。。
あきまへんかァ〜?
。。。で、あんさんは何が言いたいねん?
あのなァ〜、たまたま 夕べ本を読んでいたら次の箇所にぶち当たったのやがなァ〜。
毎晩エサを食べに来る猫たちは、私になつき、私を頼っている。
親しみも感じているだろう。
そこまできたら、飼い猫だったら、当然濃密な感情表現をして応えてくれる。
家の中にいる3匹の猫たちは、それぞれ表現は違うけれど、みんないろいろな親しみの表現をしてくれて、それを「愛情表現」と言ってほぼ間違いはない。
しかし、家の猫たちがどれだけ私を信頼しているとしても、私に何をされても嬉しいと思っているわけではなくて、たとえば、獣医に連れて行かれるのは嫌で、キャリングケースが出てきたら逃げ回る。
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最年長のペチャはひどい便秘症で、ウンチがどうしても出ないときには私が肛門に指を突っ込んで掻き出すのだが、そのときはもうギャーギャー大騒ぎで、油断したら引っかかれて噛みつかれる。
外の猫たちにとって、人間に直接触られるのは、そのレベルの恐怖なのではないか。
生粋の野良猫として野良猫に育てられる家庭で---しかし人間からエサをもらっていおきながら「生粋の野良猫」もないもんだが---、人間に頭を撫でられたり顎の下を撫でられたりするのもけっこう気持ちいいものだということえお教わらなかった、というような。
ゴロンと仰向けになった姿勢でおなかを撫でられる気持ち良さを知らないのはもったいないが、それは外の猫たちにとって愛情表現の範疇に入らないのだから仕方がない。
人間だって、たとえばアナル・セックスを愛情表現の一環と思える人とそうでない人がいるではないか。
前者(思える人)と後者(思えない人)の恋愛は不幸だろうが、それはともかく、人間に「愛」を教えることは可能だろうか?
逆に言えば、他人から「愛」を教わることは可能だろうか。
サディズムが愛だと思っている人が世の中にはたくさんいて、彼らは猫や人間の幼児をさらってきて切り刻んだりすることに歓びを感じたりする。
彼らは「性欲」の発露を「愛」と誤解しているのだろうが、「普通」と分類される人たちだって、恋愛の最も濃密な段階では「愛」が「性欲」しか意味していない。
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もっとノーマルな人に限っても、嫉妬を感じなければ自分がその人を愛していることを確認できない人がいっぱいいる。
駄々っ子が母親を困らせるように、好きな相手を困らせることが「愛」だと思っている人もいっぱいいる。
かと思えば、相手が事故で入院した途端に恋愛感情が噴出する人がいたり、誰が見ても全然取り柄のない男を心の底から愛している美人で頭のいい人がいたり……と、「愛」は不可解なことだらけだが、だいたい、「愛」と「恋愛」はどこまで同じだと考えていいのか。
(注: 赤字はデンマンが強調
写真はデンマン・ライブラリーから)
72 - 74ページ
『途方に暮れて、人生論』
著者: 保坂和志
2006年7月19日 第2刷発行
発行所: 株式会社 草思社
つまり、「愛」と「恋愛」はどこまで同じだと考えていいのか? 。。。 わては、この事に考えさせられたのやがなァ〜。。。?
どないなわけで、あんさんは 「愛」と「恋愛」 に拘(こだわ)りはるのォ〜。。。?
それは。。。、かつて、めれちゃんが次のように喚(わめ)いていたからやないかいなァ!
(すぐ下のページへ続く)