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怒りの柿本人麻呂(PART 4 OF 4)

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怒りの柿本人麻呂(PART 4 OF 4)




 
 
新しき 年の初めの 初春の

今日降る雪の

いやしけ吉事(よごと)
 
 



新しい年の始めの初春の

今日降る雪のように、

これからの世には

よい事がいっぱいありますように…。





これは天平宝字3(759)年の元旦に詠んだ歌なのですよ。 でもねぇ、大伴家持の願いとは裏腹に、このあと家持には良い事は起こらなかった。 むしろ悪い事が待っていた。



どのような。。。?

あのねぇ〜、この歌を詠んでから26年後の延暦4(785)年8月28日に、大伴家持は奥州の多賀城で68歳の生涯を閉じたのです。 ところが、藤原氏は家持が死んだ後も、そっとしておいてはくれなかった。

大伴家持が亡くなってからって。。。死んでからでは何もできないでしょうに。。。

でも藤原政権はしつこいのですよ。。。翌年、京都で藤原種継(たねつぐ)暗殺事件が起きた。

その事件と大伴家持が関係あるのですか?

大いに関係がある。 権力を握る藤原氏によって大伴家持は、その事件の首謀者の一人に仕立てられてしまったのですよ。 しかも、大伴家持の遺骨は掘り返されて隠岐(おき)の島に流刑にされてしまった。

わざわざ遺骨を掘り起こして隠岐(おき)の島まで持っていったのですか?

そうなのですよ。 現在から見れば常識では考えられないような事をした。 つまり、それほど大伴家持は睨まれていた。

なぜ。。。?

だから、大伴一族は藤原氏に抵抗する集団と考えられていた。

どうして。。。?

なぜなら、大伴家持のお父さんの大伴旅人(たびと)は長屋王に協力していた。 当然のことだけれど、長屋王の父親・高市皇子や、その協力者・支援者だった柿本人麻呂の事なども大伴家持は、お父さんの旅人から聞かされていた。

つまり、大伴家持は柿本人麻呂が高市皇子を天皇にしようという政治活動に参加していたこと、それがもとで持統天皇に睨まれて左遷されてしまった事などをお父さんの旅人から聞かされていたとデンマンさんは主張するのですか?

その通りですよ。 だからこそ、一見つまらなそうに見える柿本人麻呂の和歌を大伴家持は『万葉集』に取り上げたのですよ。

要するに、何百年後に生きているデンマンさんのような歴史馬鹿に、歴史の真実を知ってもらおうとして『万葉集』の中に柿本人麻呂の「かぎろい」の和歌を取り上げたのですか?

そうですよ。。。でも「歴史馬鹿」だけ余計ですよ。(苦笑) とにかく、歴史の事実をはっきりとは書けなかった。 だから、柿本人麻呂は当たり障りのない「かぎろい」を詠む事によって歌の中に歴史の真実を読み込んだのですよ。 僕の言おうとしていることが小百合さんにも分かるでしょう?

もちろん、デンマンさんのお話を聞けば、そうなのかな?とも思いますけれど、歴史的には証拠がないのでしょう?

あのねぇ〜、歴史にハマッている僕の歴史的仮説ですよ。 この記事を読んでくれる人の中に上の説明を読んで、そのような事も大いにあったかも知れないと思ってくれる人が居れば、こうして小百合さんと話した甲斐があるのですよ。


【卑弥子の独り言】



ですってぇ〜。。。
あなたは上のデンマンさんの説明を読んで信じることができますか?
信じられないでしょう?
ええっ。。。そのような事は、どうでもよいのでござ〜♪〜ますか?

だったら、どうしてここまで読んできたのよう?
ええっ。。。他に何もすることがなかったのォ〜?
あなたも暇人なのねぇ。
だったら、下に面白い記事のリンクをたくさん貼っておいたから、どれでも好きなものを読んでみてね。

とにかく、また、あさっても面白くなりそうですわ。
だから、あなたも暇があったら読みに戻ってきてくださいましね。
じゃあねぇ。






ィ〜ハァ〜♪〜!

メチャ面白い、

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こんにちは。ジューンです。

確かに『万葉集』には歴史的な事実が

隠されている歌がたくさんあるようですわ。

次の歌もデンマンさんが興味深い解釈をしています。




春すぎて 夏来たるらし 白妙(しろたえ)の

 衣(ころも)ほしたり 天(あめ)の香具山


この有名な持統天皇の歌は、

ただ単に四季の移り変わりに

感興を催(もよお)して詠んだのではないのですって…。

持統天皇の波乱に満ちた人生が

込められているそうですわ。

讃良皇女として少女時代をすごしてきた

持統天皇は幼い頃から愛してくれる人、

愛している人を奪われ続けてきたのですって…。

ある意味で“家庭崩壊”の中で

生きてこなければならなかったのですわ。

つまり、“愛”を奪われる人生だったのですね。

幼い頃は、父親の中大兄皇子の陰謀が基で

近親者が亡くなってゆく。

父親の政略で大海人皇子に嫁がされてからも、

大海人皇子の愛は讃良皇女には注がれない。

そんな中で讃良皇女の心の支えは

我が子の草壁皇子だけだったのです。

この我が子の将来を脅かす存在になったのが

姉から預かった子、大津皇子だったのですね。

大津皇子は実力も人気もあり、

草壁皇子の皇太子としての地位を

脅かす最大の存在になっていたのですわ。

天武天皇亡き後、讃良皇女が最初に行なったことが

大津皇子を謀反の疑いで逮捕して、

刑死にさせることだったのです。

つまり、デンマンさんによると

上の和歌は次のような意味になるというのです。


春が過ぎて夏が来たようだ。

天の香具山に美しく真っ白な衣が

干してあるなあぁ〜

でも、私の心はあの山の裏にある

磐余(いわれ)の池を見ているのです。



大津皇子が自害する前に池の端で

辞世の歌を読んだという。

自害の後で、皇子の妻であり、

私の腹違いの妹でもある山辺皇女が

髪を振り乱し、裸足で駆けて行き、

共に殉死したという。

痛ましいには違いない。

しかし私は、ああせねばならなかったのです。

怨霊になって

私を憎んでいるのかもしれないけれど、

私には他にとるべき道はなかったのです。

どうか、心安らかに眠っていて欲しい。


上の歌を持統天皇は藤原京の宮殿から

香具山を見て詠んだのです。



この地図で見れば分かるように、

香具山の裏に磐余(いわれ)の池があるんですよね。

この池の端で大津皇子は辞世の句を詠んだのです。

現在では、ほとんどの歴史家が大津皇子は

持統天皇の陰謀によって死なされたと見ています。

つまり、持統天皇は結果として

自分と血のつながりがある甥の大津皇子と

腹違いの妹を死に追いやったわけです。

この当時は怨霊ということが

マジで信じられていたようです。

“怨霊の崇り”ということが現在でいえば

“テポドンで攻撃を受ける”程度に

怖いこととして考えられていたのです。

持統天皇だって、テポドンを

宮殿に打ち込まれたくないので

怨霊を鎮魂するために上の歌を詠んだのです。

あなたは、どう思いますか?

ところで、これまで書いた小百合さんの記事を集めて

デンマンさんが一つにまとめました。

もし、小百合さんの記事をまとめて読みたいならば、

次のリンクをクリックしてくださいね。

『小百合物語 特集』



とにかく、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしてくださいね。

じゃあね。



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