謙信と軽井沢タリアセン夫人(PART 1)
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あらっ。。。 どうして上杉謙信と軽井沢タリアセン夫人が一緒に出てくるのでござ~ますかァ~?
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卑弥子さんならば、どうして上杉謙信と軽井沢タリアセン夫人が一緒に出てくるのか?。。。 その事はすぐに解るでしょう!
解らないからデンマンさんに尋ねているのですわ。
じゃあ、ちょっと次の記事を読んでみてください。
愛のポテトチップサンド
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デンマンさん。。。 ロマンチックで食欲が湧くタイトルですわねぇ~。。。
いけませんかァ~?
いけないことはありませんけれど、デンマンさんの常連さんたちは白けると思いますわァ~。。。
どうして僕のブログの常連さんたちが白けてしまうのですかァ~?
だってぇ~、デンマンさんは、また得意げに「さきたま古墳公園」でのピクニックの事を書くのでしょう?
あのねぇ~、白ける人は居ないと思いますよ。
どうしてですか?
どうしてってぇ~、上の写真を見ただけでも「さきたま古墳公園」ってぇ言うのは、日本離れした。。。ちょっと狭い日本では考えられないくらいの広々とした公園なのですよ。 初めてこの記事を読む人は、上の写真を見て「いったい ここはどこの公園だろうか?」。。。 とても日本の公園ではないだろうと思うのですよ。
そうでしょうか?
もう一度じっくりと写真を見てください。
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アメリカやカナダにある公園だと言われても納得できるくらいの広々とした公園なのですよ。
確かに、言われてみると 狭い日本には広すぎるほどの印象を与えますわねぇ~。。。
。。。でしょう!? だから、白けるどころか、上の写真を見ただけでも 何も知らない人は興味が湧きますよ。
そうでしうか?
しかも小百合さんの魅力的な写真が出てくる。
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この上の写真を見た人は、「どうして こんな格好をしているのだろうか?」。。。と、ますます興味が湧いてくるのですよ。
そうでしょか?
しかも、広い公園に小百合さんだけしか見当たらない。 「いったい、ここはどこなの?」。。。「マジで、こんな公園があるのォ~?」。。。と不思議な気持ちで読み続けるのですよ。
そうでしょうか?
そうですよ。。。 ところで、小百合さん。。。こんな広々とした公園なのに ピクニックをしている人が どういうわけで僕と小百合さんだけなのですか?
デンマンさんは知らないでしょけれど、最近、日本の公園では、火を使ってはいけないのです。 だから、バーベキューなど、公園内で してはダメなのですわ。 それで、ピクニックをする人も少ないのだと思いますわ。
でもねぇ~、昨日(10月16日)は、関東地方は素晴らしい秋晴れだったのですよ。 それなのに、バーベキューをしながらピクニックを楽しんでいるのは僕と小百合さんだけでしたからねぇ。。。 うへへへへへ・・・・ 僕は不思議な気分でしたよう。 でもねぇ、小百合さんと公園を自分の裏庭のように独り占めしている気分になって 実に楽しかったですよう。
私は公園の管理人さんが見回りに来て、「火を使うのなら出て行け!」と言われるのじゃないかと。。。気が気ではありませんでしたわ。
『愛のポテトチップサンド』より
(2014年10月17日)
小百合さんと「さきたま古墳公園」でピクニックした事と上杉謙信が関係あるのでござ~ますかァ~?
もちろんですよう。。。 関係なかったら上の記事を卑弥子さんに読んでもらうようなことはしませんよ。
だから、どのように関係しているのでござ~ますか?
ちょっと次の地図を見てください。
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赤丸で囲んだ古墳に注目してください。
“丸墓山古墳”と書いてありますわね。
そうです。。。 この丸墓山に上杉謙信がやって来たのですよう。
でも、上杉謙信は越後の国。。。 つまり、現在の新潟県上越市に住んでいたのでしょう?
そうです。。。
その謙信が丸墓山にピクニックをするためにやって来たのでござ~ますかァ~?
戦国時代に、わざわざピクニックをするために はるばる新潟県から軍団を引き連れて埼玉県までやって来るはずがないでしょう! 忍城を攻略するためにやって来たのですよう。
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。。。で、忍城は謙信の軍に攻め滅ぼされてしまったのでござ~ますかァ~?
この当時から忍城は難攻不落の城と言われていたのです。 だから、謙信も諦めて越後に帰ってしまったのですよう。
忍城を攻めたのは たったの1回だけですか?
謙信は忍城を3度攻めたらしい。 ものの本には次のように書いてある。
行田市内に上杉謙信の築いた城があったことを知っている人は少ない。
皿尾の雷電社がその名残りである。
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四百余年の前のことであり、完全な城ではなく砦に近いものであったらしいが、『関八州古戦録』『成田記』に“皿尾城”と記してある。
上杉謙信が忍城を攻めたことが三度ある。
天文22年(1553年)、永禄2年(1559年)、永禄3年(1560年)である。
天文22年雪どけ3月謙信は5千騎の大軍で関東に攻め入り忍城を攻めた。
成田16代長泰はかねて期していたので、本丸から全軍を指揮した。
謙信は佐間、下忍口を回る。
(中略)
戦いらしい戦いもなく、小田原の援軍が来るのを知って謙信は引き上げた。
第2回目は、永禄2年で館林より攻め入り、あっという間に利根川を渡り忍城に攻め入ったという。
丸墓山に櫓を組んで策戦を立て、忍城を水攻めしようとしたが、謙信の軍師宇佐美駿河守定勝は、水攻めは短時日では出来ない。
北條の援軍を考えて和睦すべきと進言、丸墓山の下の西行寺で和議をしたという。
その年(永禄3年)、謙信は9万6千を率いて小田原城を攻めた。
その時の戦勝祈願の鎌倉八幡宮の儀式の折、成田長泰のみ成田氏代々の儀礼によって馬乗のまま対面しようとしたので、謙信は怒り下馬させた。
一説には笞でなぐったとある。
成田長泰は一族をまとめ忍城へ引き返した。
関東の諸将もそれぞれ居城に引き上げたので、さすがの謙信も上州へ戻っていったという。
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
198-200ページ『行田史跡物語』
著者: 大澤俊吉
1979(昭和54)年12月20日 初版発行
発行所: 歴史図書社
謙信は丸墓山に櫓を組んで策戦を立て、忍城を水攻めしようとしたのですよう。 でも、謙信は石田三成よりも頭が良かったらしい。
どうして水攻めしなかったのでござ~ますか?
あのねぇ~、忍城は“忍の浮き城”と言われるくらいだから、水攻めをしたって、効果がないのですよう。 実際、石田三成は本陣を丸墓山古墳に置き、近くを流れる利根川を利用して水攻めを行った。 総延長28キロメートルに及ぶ石田堤を造った。 でも、忍城はついに落城しなかった。
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石田三成が忍城水攻めのとき
陣を張った丸墓山古墳
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時は天正18年(1590年)6月4日館林城を落とした石田三成の2万3千の大軍は、6日は完全に忍城を包囲したが、11日の総攻撃にも忍城を落とすことが出来ず、三成は“水攻め”を策し、7日間で白川戸西明寺から埼玉(さきたま)の丸墓山、堤根、吹上、久下(くげ)へかけて、一大堤防を築き水攻めは着々と進んだ。
16日夜陰に乗じて下忍口より出た水泳の達人十数人は、見事、新堤を切り崩したので、敵の陣地に濁流が流れ込んだ。
口碑につたわる破壊の場所は下忍の堀切橋と、渡柳の堀切橋であったので、その地名が残っているという。
水攻めの失敗で6月25日、岩槻城を攻略した軍が石田三成の軍に援軍として到着した。
しかし三成は加勢されたのでは面目が立たないと、ひそかに下忍口に攻め寄った。
しかし左右沼地と地理に不案内なので、多勢で押し寄せたが、攻め込むことは出来なかった。
忍の城兵はは全くの少数であったがよく守り抜いた。
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27日には長野口から入った石田勢は大手口まで攻め入ったが、成田氏長の娘18歳の甲斐姫の奮戦で士気が上がり、佐間口の決戦は正木丹波守の指揮で城兵は勇気百倍、2万数千の敵に千にも足りない少数で勝利をおさめた。
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(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
186ページ『行田史跡物語』
著者: 大澤俊吉
1979(昭和54)年12月20日 初版発行
発行所: 歴史図書社
「18歳の甲斐姫の奮戦で士気が上がり、佐間口の決戦は正木丹波守の指揮で城兵は勇気百倍、2万数千の敵に千にも足りない少数で勝利をおさめた」と書いてありますけれど、甲斐姫は何をしたのでござ~ますかァ~?
甲斐姫は長刀(なぎなた)の達人だったのですよ。
長刀ってぇ、あの包丁のお化けのようなものでござ~ますかァ~?
そうです。
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あらっ。。。 女だてらに すっご~いざ~ますわァ。。。
卑弥子さんも長刀を始めたらどうですか?
いいえ。。。 あたくしは、このような はしたないことは出来ませんわ。
どうして。。。?
だってぇ~、長刀のお稽古を始めたら、ますます結婚できなくなりますわァ~。。。おほほほほほ。。。
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(すぐしたのページへ続く)