なぜ今アルチンボルド (PART 1)
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アルチンボルドという名前を知ってますか?
たぶん知っているでしょう。
でも、なかには 人物の名前だと知らずに、“アルチンボルド”というのは、いったいどういうことなのか?
奇妙なカタカナに興味を惹かれて、あなたは この記事を読み始めたのかもしれません。
上の奇妙な絵と、その下に表示された やせた男の画像に “ARCIMBOLDO”と書いてあるので、どうやらアルチンボルドとは、上の絵を描いた画家の名前だということがお分かりいただけるでしょう。
じゃあ、どうして僕は この画家を取り上げたのか?
実は、次のアクセス解析の記録を見たからです。
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これはライブドアの僕の『徒然ブログ』の11月1日から11日までの 「リンク元URL」の記録です。
リストの1番から4番までは、どの来訪者も GOOGLE で検索して『徒然ブログ』にやって来たのです。
最近は高齢化が進んでいるので、病院通いをする老人が増えているのでしょう。 悪い評判の病院は避けたいものです。 だから次の記事を読むのはよく分かります。
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■『実際の記事』
“宮沢りえ”さんが話題の次の記事が読まれているのも 納得できます。
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■『実際の記事』
“宮沢りえ”さんは 何かと話題を振りまいてきた女優さんだからです。 6番の『肥後ずいきと龍之介』が読まれるのもよく分かるのです。
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■『実際の記事』
上の記事が読まれるのは、“肥後ずいき”も“芥川龍之介”も かなりの人に知れ渡っているからです。 でも、『アルチンボルドと伊藤若冲』は、ミーちゃん、ハーちゃんには縁遠い人だと思えるのですよね。
このように言うと“ミーちゃん、ハーちゃん”ってぇ、どういう人たちのことを言うのォ~?。。。と突っ込みを入れてくる人がいるかもしれません。 どうか、あまり深刻に考えないでください。 その辺でコスプレにハマッている姉ちゃんや、兄ちゃんのことだと軽く考えておいてください。
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このように その辺でコスプレにハマッている姉ちゃんや、兄ちゃんは アルチンボルドや伊藤若冲の名前を知らないと思うのですよ。。。 これは、僕の偏見でしょうか?
とにかく、あまり深く考えないでください。 いずれにしても、アルチンボルドや伊藤若冲が アイドル歌手や人気のAV女優ほどには知れ渡っていないと思うのです。
では、なぜ、“ミーちゃん、ハーちゃん”に知られていないはずのアルチンボルドや伊藤若冲が注目を集めるのでしょうか?
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■『実際の記事』
そもそもアルチンボルドとは どんな人物だったのでしょうか?
『ウィキペディア(Wikipedia)』に簡略な人物紹介記事があるので、それをここに書き出します。
ジュゼッペ・アルチンボルド
Giuseppe Arcimboldo
(1527年 - 1593年7月11日)
イタリア・ミラノ出身の画家。マニエリスムを代表する画家の1人とされる。
静物画のように緻密に描かれた果物、野菜、動植物、本などを寄せ集めた、珍奇な肖像画の製作で世に知られる。
アルチンボルドは1527年にミラノで画家の息子として生まれた。
1549年よりステンドグラスのデザインを始め、ミラノのドゥオーモに作品を残した。
1556年、Giuseppe Medaと共にモンツァ大聖堂のフレスコ画を制作する。
1558年には聖母マリアを描いたタペストリーのデザインを手がけたが、そのタペストリーは未だにコモ大聖堂に飾られている。
1562年、アルチンボルドはウィーンにて フェルディナント1世の宮廷画家となり、後にその息子の マクシミリアン2世や孫にあたるルドルフ2世にも仕えた。
アルチンボルドは画家としてだけでなく、宮廷の装飾や衣装のデザインも手がけた。
また、祝典や馬場槍試合の企画、水力技師などで非凡な才能を発揮した。
ハープシコードのような楽器、噴水、廻転木馬等も発明した。
アルチンボルドが描いた伝統的な宗教画は現在では忘れ去られてしまっているが、
野菜や果物、木の根といったもので構成された独特の肖像画は、
現在でも多くの人を魅了し続けている。
ある評論家達は、こういった作品は気まぐれで描かれたものか、それとも精神の錯乱から来ているものなのか議論している。
しかし多くの学者たちは、アルチンボルドの作風は謎やパズル、風変わりなものに魅了されていたルネッサンス期を反映しているもので、
彼が精神的に不均衡であった訳ではないという見方をしている。
1593年、アルチンボルドはウィーンでの公務を引退した後、故郷のミラノで死去した(死因は腎結石)。
死の少し前に『フローラ』、『ウェルトゥムヌスに扮するルドルフ2世』といった傑作を完成させ、プラハに送っている。
ルドルフ2世はこの風変わりな肖像画を大変気に入り、アルチンボルドに高い地位を与えた。
1648年にスウェーデンがプラハを侵略した際、ルドルフ2世のコレクションから多くの作品が持ち去られた。
アルチンボルドの作品はウィーンの美術史美術館、インスブルックの Ambras Castle (ルドルフ2世のその他のコレクションも所蔵)、
パリのルーヴル美術館、スウェーデンのいくつかの美術館に所蔵されている。
その他、イタリアではフィレンツェのウフィツィ美術館、クレモナ市立美術館、アメリカではコネティカットのワズワース・アテニウム、デンバー美術館などにある。
日本にある作品としては、『ウェイター』(なにわの海の時空館所蔵、大阪市立近代美術館建設準備室寄託)が挙げられる。
出典: 「ジュゼッペ・アルチンボルド」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アルチンボルドの自画像を見てもよくわかることですが、見るからに真面目そうで律儀そうな宮廷画家です。
なんと3代の皇帝に仕えたのでした。
儀式、儀礼だとか「仕来(しきた)り」だとか、とにかく堅苦しい息も詰まりそうな宮廷にあって、3代の皇帝に仕えていたら、もうノイローゼになるか過労死にもなってしまいそうです。
あなたも、そう思いませんか?
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だから上の絵を描きながら 自分なりに「ガスぬき」をしていたのだと僕は思うのですよ。
それがアルチンボルドの野菜と果物を使った「寄せ絵」になったと思うのです。
ちなみに 歌川国芳(1798ー1861)の「寄せ絵」を見てください。
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見れば見るほどにユーモラスで面白い。
そう思いませんか?
ジュゼッペ・アルチンボルドの絵から影響されたのではないか!?
そのように言う美術史家もいますが、国芳以前から日本には「寄せ絵」の伝統はありました。
もし、国芳がアルチンボルドの絵を見ていたとするなら、多分同じように野菜や果物を使って「寄せ絵」を描いていたと思うのです。
国芳(1798ー1861)が暮らしていた江戸時代の後期には、身の回りの様々なものを組み合わせた作りものを公開する細工見世物が流行(はや)りました。
竹の篭目を編んで人物や動物を作り上げ、その大きさは時には高さ20メートルにも及んだという駕籠細工などの見世物が催されたのです。
国芳はこうした見世物からアイデアを思いついたとしても不思議ではありません。
おそらく、上の「寄せ絵」は国芳独自の発想だと思います。
ところで、もし、野菜と果物を使った「寄せ絵」ではなく、国芳が描いたような「寄せ絵」を皇帝に献上していたらアルチンボルドの首は飛んだかもしれません。
でも、野菜と果物を使った「寄せ絵」だったので皇帝もユーモアを感じて面白いと思ったのでしょう。
では、伊藤若冲とは いったいどのような人物だったのか?
『ウィキペディア(Wikipedia)』に簡略な人物紹介記事があるので、抜粋して ここに書き出します。
伊藤若冲
(1716年3月1日 - 1800年10月27日)
伊藤若冲は、近世日本の画家の一人。
江戸時代中期の京にて活躍した絵師。
名は汝鈞(じょきん)、字は景和(けいわ)。
初めは春教(しゅんきょう)と号したという記事があるが、その使用例は見出されていない。
斗米庵(とべいあん)、米斗翁(べいとおう)とも号す。
写実と想像を巧みに融合させた「奇想の画家」として曾我蕭白、長沢芦雪と並び称せられる。
伊藤若冲は 正徳6年(1716年)、京・錦小路にあった青物問屋「枡屋」(家名と併せて通称「枡源(ますげん)」)の長男として生を受ける。
問屋の仕事は小売ではなく、生産者や仲買・小売の商人に場所を提供して販売させ、彼らの関係を調整しつつ売場の使用料を徴収する流通業者である。
桝屋は多数の商人を管轄していたらしく、商人たちから場所代を取れば十分な利益を上げることが出来たという。
23歳のとき、父・源左衛門の死去に伴い、4代目枡屋(伊藤)源左衛門を襲名する。
「若冲」の号は、禅の師であった相国寺の禅僧・大典顕常から与えられたと推定される居士号であり、『老子』45章の「大盈若沖(冲は沖の俗字)」から採られた。
意味は「大いに充実しているものは、空っぽのようにみえる」である。
大典の書き遺した記録「藤景和画記」(『小雲棲稿』巻八)によると、若冲という人物は絵を描くこと以外、世間の雑事には全く興味を示さなかったという。
商売には熱心でなく、芸事もせず、酒も嗜まず、生涯、妻も娶らなかった。
齢40となった宝暦5年(1755年)には、家督を3歳下の弟・白歳(宗巌)に譲り、名も「茂右衛門」と改め、はやばやと隠居する。
(当時、40歳は「初老」であった)。
宝暦8年(1758年)頃から「動植綵絵」を描き始め、翌年10月、鹿苑寺大書院障壁画を制作、明和元年(1764年)には金刀比羅宮奥書院襖絵を描く。
若冲は85歳の長寿を全うするまでに多くの名作を残したが、晩年、石峯寺の五百羅漢石像(通称:若冲五百羅漢。cf.)や天井画などの制作に力を注ぎ、
没後、同寺に葬られた。
のちに枡源7代目の清房が、若冲の遺言に従い、墓の横に筆形の石碑を立て、貫名海屋が碑文を書いている。
伊藤家は幕末の頃に没落し、慶応3年(1867年)、家屋敷を売り渡して大阪へ去った。
再評価
生前の若冲は、『平安人物志』の上位に掲載されるほどの人気と知名度を持っていたが、明治以降一般には忘れられがちな時期もあった。
しかし、大正15年(昭和元年、1926年)、秋山光夫によって本格的な研究が着手され、
昭和45年(1970年)に辻惟雄の『奇想の系譜』が出版されて以来注目を浴びるようになった。
1990年代後半以降その超絶した技巧や奇抜な構成などが再評価され、
特に、アメリカ人収集家ジョー・プライスのコレクションにより飛躍的にその知名度と人気を高めている。
出典: 「伊藤若冲」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
上の略歴をちょっと読むだけでも、伊藤若冲は当時としては ちょっと型破りな人物であったことがわかります。
彼は次のような絵を残しています。
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これは「野菜涅槃図」と呼ばれるものです。
「涅槃図」というのは、もともとお釈迦様が亡くなられる様子を書いたものなのです。
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この絵からも解るように決してユーモアやふざけた気持ちで描く絵ではありません。
それを敢(あ)えて野菜を使って伊藤若冲は「涅槃図」を描いています。
大根をお釈迦様に見立て、その大根が亡くなるのを見守るように他の野菜たちが大根を囲んでいる絵です。
「涅槃図」がどのようなものなのか?
それを知っていれば、「野菜涅槃図」はユーモラスで可笑し味のある絵です。
では、伊藤若冲はどうして「野菜涅槃図」を描いたのか?
「美の巨人たち」には次のように書いてあります。
若冲がある画題に愛情を覚え始めるのは、60を過ぎてからのことです。
それが野菜でした。
ちょっと不思議な絵を描いたのです。
「野菜涅槃図」という題がつけられています。
かつて青物問屋の主だった男は、野菜の中にいったい何を見つめていたのでしょうか?
涅槃図は釈迦の入滅の模様を描いた絵です。
悟りを開いた釈迦は、沙羅双樹の下で穏やかに体を横たえ、その生涯を終えました。
周囲には、釈迦の十大弟子や菩薩たちが、支えを失ったように悲しみに暮れています。
若冲は、その涅槃図を野菜で描きました。
その心は……、「野菜愛」。
豊作を祝う京都北野天満宮のずいき祭。
担ぐ神輿は野菜で作られています。
京都は独特の野菜文化を育んできた都です。
その中心に(若冲が生まれ育った)錦小路がありました。
江戸時代、京都周辺のみならず、遠くは中国から実にさまざまな野菜が集まってきました。
若冲は、その錦小路で生まれ育った人です。
商いは苦手でしたが、野菜には人一倍の愛着があったのかもしれません。
「野菜涅槃図」には、実に多くの野菜や果物が描かれています。
お釈迦様に見立てたのは大根です。
沙羅双樹の木は、トウモロコシの茎です。
ライチやランブータンという中国から輸入された珍しい果物もあります。
その数は66種類。
若冲は、この絵にどんな思いを込めたのでしょうか?
(デンマン注: 読み易くするために改行を加えています。
赤字はデンマンが強調)
58-59ページ
『小林薫と訪れる「美の巨人たち」』
編者: テレビ東京
2005年1月28日 1版2刷発行
発行所: 日本経済新聞社
ところで、話は急に変わりますが、最近 次のようなニュースを見て、あなたは驚いたことだと思います。
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