兄妹の恋のつづき(PART 1 OF 3)
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デンマンさん。。。 今日は 再び“兄妹の恋”を語るのでござ~ますかァ~?
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そうですよう。。。 卑弥子さんもワクワクしてきたでしょう?
でも、上の画像を見ると下の絵は、なんだか血なまぐさいですわよねぇ~。。。
卑弥子さんは、ずっと以前に“兄妹の恋”を語った時のことを覚えてますか?
ずいぶんと前のことでござ~ますわよねぇ~。。。
それほど前でもありませんよ。 今年の2月13日でした。
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■『兄妹の恋と大乱』
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思い出しましたわ。。。 “兄妹の恋”の裏に、血なまぐさい権力争いが隠されていたというお話でござ~ましたわァ。
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そうです。。。そうです。。。
確か、その時の兄と妹は、あの有名な木梨軽皇子(きなしの かるのみこ)と実の妹の軽大娘皇女(かるの おおいらつめ)でござ~ましたよねぇ~。。。
兄妹の恋
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(karu013.jpg)
木梨軽皇子(きなしの かるのみこ)は、允恭(いんぎょう)天皇の第一皇子であり、皇太子でした。
母は皇后の忍坂大中津比売命(おしさかの おおなかつのひめのみこと)。
同母弟に穴穂皇子(あなほのみこ、後の安康天皇)がいました。
一番下の弟が大泊瀬稚武皇子(おおはつせの わかたけるのみこ) つまり、後の雄略(ゆうりゃく)天皇です。
『古事記』によれば、木梨軽皇子は允恭23年に立太子します。
しかし、同母妹の軽大娘皇女(かるの おおいらつめ)と情を通じ、それが原因となって允恭天皇の崩御後に廃太子され伊予国へ流されます。
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その後、あとを追ってきた軽大娘皇女と共に自害したと言われます。(衣通姫伝説)
『日本書紀』では、情を通じた後の允恭24年に軽大娘皇女が伊予国へ流刑となり、允恭天皇が崩御した允恭42年に穴穂皇子によって討たれたと言われています。
四国中央市にある東宮古墳が木梨軽皇子の墓といわれ、宮内庁陵墓参考地とされています。
出典: 「木梨軽皇子」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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それで、今日の“兄妹の恋”というのは、どなたと どなたでござ~ましょうか?
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天智天皇になる中大兄皇子と同母の妹で、孝徳天皇の間人(はしひと)皇后になる間人皇女(はしひとのひめみこ)ですよ。
間人皇女
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(hashihito9.jpg)
(生年不詳 - 665年3月16日)
飛鳥時代の皇族。間人大后とも。孝徳天皇の皇后。
父は舒明天皇、母は皇極天皇(斉明天皇)。
天智天皇の同母妹、天武天皇の同母姉に当たる。
乙巳の変(645年6月)により皇極天皇が譲位し、軽皇子(孝徳天皇)が即位する。
間人皇女はそれに伴い皇后となり、葛城皇子(中大兄皇子、後の天智天皇)を皇太子とし、大化の年号が採用された。
大化元年(646年)末に、飛鳥板蓋宮から難波長柄豊碕宮に遷都する。
葛城皇子は孝徳の治世下で実質的に改革を推進しており、天皇と不仲になっていたらしい。
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(koutokuzu.jpg)
白雉4年(653年)に葛城皇子は天皇の意に反し、皇極や間人皇女の他、多くの官僚を率いて飛鳥に戻ってしまう。
天皇はこれを恨み退位も考えたが、山碕(後の京都府乙訓郡)に宮殿を造営中に病に倒れ、白雉5年10月10日(654年)に難波の宮殿で崩御した。
この間、天皇が皇后である間人皇女に宛てた歌が『日本書紀』に残されている。
金木着け 吾が飼ふ駒は 引出せず
吾が飼ふ駒を 人見つらむか
原文:
繋於金木 吾飼駒當無出兮
吾之駒至今何以為所獲
間人皇女が夫である天皇と離れ葛城皇子(中大兄皇子、後の天智天皇)と共に飛鳥に遷った理由は明らかでない。
しかし、上の歌の「駒」が間人を譬喩しており、古代の「見る」が恋愛と直結するものであることから、自分の妻をほかの男に見られたの意に理解し、中大兄との近親相姦の関係を説く吉永登のような見解もあり、直木孝次郎らによって支持されているが、これに対しては曾倉岑・荒井秀規らによる反論があり、荒井は「穿ちすぎであろう」と疑義を示している。
出典: 「間人皇女」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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でも。。。、でも。。。、デンマンさんは中大兄皇子と間人皇女(はしひとのひめみこ)の間には恋愛感情はなかったと言っていたではござ~ませんかァ!
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あれっ。。。 卑弥子さんは、そんな事まで覚えているのですか?
あたくしの記憶力は、デンマンさんが考えている以上に 相当なものでござ~ますわよう。 次のように書いていたのを覚えておりますわァ。
僕は中学校の歴史の時間に“大化の改新”について学んだことがありました。
僕はとりわけ歴史が好きなわけではなかった。
数学とか物理の方が好きだった。
本当に歴史が面白くなったのは社会人になって、松本清張さんとか司馬遼太郎さんの歴史小説を読むようになってからのことです。
でも、中学校の歴史の時間は面白かった。
先生が歴史が好きな事が良く分かった。
その話し方も熱を帯びて、僕は引き込まれるように聞き入ってしまうことも多かった。
“大化の改新”の話しも面白く聞いたものでした。
今から思えば、その先生は後に天智天皇になる中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の熱烈なファンだったようです。
大化の改新を日本史の上でも大変重要な出来事として評価していたし、この皇子に関しては、ベタ褒(ほ)めにしていたものです。
先生の話を聞いて、確かにすばらしい人物だと言う事が僕にも良く理解できたものでした。
だから、僕も、中大兄皇子は聖徳太子よりもすばらしい人物だと思っていたものでした。
ところが、高校の古文の時間に額田女王の歌を読んだ。
僕にしてみれば、あれほどすばらしい中大兄皇子を選ばずに、額田女王は、後に天武天皇になる大海人皇子(おおあまのおうじ)を選んだ。
僕にはこの点が理解できなかった。
古文の先生も、その辺のところは良く説明しなかった。
そういうわけで、この事は僕には謎めいた事としてずっと後まで不思議な事としてオツムの片隅に残っていた。
ところが、高校を卒業して20年ほどたった頃に、僕は次の歌に出くわしました。
“金木(かなき)つけわが飼ふ駒は引き出せず
わが飼ふ駒を人見つらむか”
これは孝徳天皇が詠(よ)んだ歌です。
分かりやすいように背景を説明します。
天智天皇と実の妹は恋愛関係にあったという歴史学者が居ます。
僕は、そのような事もありうるとは思っていますが、天智天皇と実の妹が“恋愛”していたとは思いません。
一口で言えば、天智天皇は女性にモテルようなタイプではなかったからです。
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しかも、実の妹を本当に愛していたなら、孝徳天皇に監視役として嫁がせるようなことは、初めから決してしないと僕は信じているからです。
孝徳天皇は中大兄皇子(後の天智天皇)の叔父にあたります。
つまり、皇子の母親の弟です。
大化の改新をやり遂げた中大兄皇子と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が相談して、いろいろな事情から、中大兄皇子がすぐに天皇にならない方が良いという事になり、後ろから操りやすい叔父を天皇にしたのです。
その監視役として皇子は妹をこの叔父に嫁がせました。
ところが、だんだんとこの叔父が皇子の言うことを聞かなくなった。
大化の改新より8年後の653年、孝徳天皇は遷都の問題で中大兄皇子と対立します。
孝徳天皇は都は現在の難波のままでよいと言うのですが、中大兄皇子は強引に大和へ都を移してしまいます。
孝徳天皇は天皇とはいえ、実権は中大兄皇子が握っています。
つまり、孝徳天皇は実権を持たないお飾り天皇です。
しかし、いかに傀儡(かいらい)とはいえ、天皇です。
しかも皇子の母親の実の弟(叔父)です。
その天皇を皇太子に過ぎない中大兄皇子が置き去りにしたのです。
その時、皇子は実の妹の間人(はしひと)皇后を無理やり連れて行ってしまったのです。
もちろん、これは僕の解釈ですが。。。
確かに事情はよく分かる。
しかし、結局お前は、夫であり、叔父である、私よりも、実の兄である、中大兄皇子の言うことに従って、私を見捨ててゆく。
人の世は、決してそういうものではないと私は思う。
だが、今となっては、嘆いたところで仕方がなかろう。
間人(はしひと)皇后は無理矢理連れて行かれたのだから、それも仕方がないのだろう。
孝徳天皇は、そのように諦めたのでしょうね。
僕がここで言いたい事は、政治と言うのは政治力、言い換えれば、権力だけで推し進めてもうまく行くものではないですよね。
結局、その政治家の人間性が問題になってきます。
ここで中大兄皇子の人間性を詳しく述べる事はしません。
関心のある人は次の記事を読んでください。
■『定慧(じょうえ)出生の秘密』
要するに、中大兄皇子には実行力とやる気があるので、中臣鎌足がこの皇子と組んで実行したのが大化の改新だった。
しかし、もともと鎌足が目をつけたのは孝徳天皇になる軽皇子(かるのみこ)の方だったのです。
でも、実行力とやる気がイマイチだった。
それで、中大兄皇子の方と組むと言う経緯(いきさつ)があったのです。
何事かを起こすには、やはり実行力とやる気ですよね。
しかし、政治を行うと言うことになると人間性が問題になってきます。
この人間性を象徴する意味で僕は上の歌を引き合いに出したのです。
つまり、中大兄皇子(天智天皇)は、このようは非情な事をする人です。
『性と愛と批判』より
(万葉集の中の政治批判)
【2006年5月8日】
(すぐ下のページへ続く)