蕎麦屋と軽井沢タリアセン夫人(PART 1 OF 3)
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デンマンさん。。。 11月25日には「亀姫」を取り上げて、12月10日には「甲斐姫」を取り上げましたよねぇ~。。。
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■『かねつき堂と亀姫』
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■『甲斐姫と軽井沢タリアセン夫人』
歴史物が続いてきて、今日は どうして「蕎麦屋」が出てくるのですか?
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確かに、「蕎麦屋」は、ちょっと見た目には歴史とは関係ないかも知れないけれど、実は、今日も歴史物なのですよ。。。
あらっ。。。マジで。。。? でも、どういうわけで「蕎麦屋」が歴史と関係あるのですか?
うん、うん、うん。。。 小百合さんが不思議に思うのも無理ないですよ。。。 僕も今日の記事の話題を考えている時に、次のリストを見て、ちょっと不思議に思ったのです。
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■『拡大する』
これはライブドアの僕の『徒然ブログ』の12月1日から9日までの9日間の「リンク元URL」のリストなのですよ。 赤枠で囲んだ 16番に注目してください。
GOOGLEで検索して デンマンさんの徒然ブログで『蕎麦屋と忠臣蔵』を読んだネット市民の方が 2人居たということですか?
そうです。。。 考えてみたら 12月でしょう。。。 「赤穂四十七士」の討ち入りは12月ですからね。。。毎年この季節になると『忠臣蔵』ですよ。
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この上のYouTubeのクリップは、せいぜい5分にも満たない予告編なのです。 だから蕎麦屋だと、すぐに判る場面は出てこないのです。 でもねぇ~、よ~く見れば赤穂浪士の47人のメンバーが集まっているシーン出てくるのですよ。
YouTubeの上の写真が お蕎麦屋さんの2階に赤穂浪士の47人が集まっているシーンですか?
そうです。。。 上のクリップから 蕎麦屋のシーンをソフトカメラで撮って貼り付けたのです。
。。。で、どうしてデンマンさんは“蕎麦屋”と“忠臣蔵”を一緒に取り上げたのですか?
あのねぇ~、映画を見る限り、蕎麦屋の二階に 赤穂浪士の47人が集まっているシーンを見ても、現在の我々は別に不思議だとは思わない。
何か不思議なことでもあるのですか?
あるのですよ。。。 もし、赤穂浪士と同時代に生きていた人が、タイムカプセルに乗って現代に蘇(よみがえ)って、この映画を見たとしますよねぇ。。。 すると、“蕎麦屋”のシーンを見て不思議に思うのですよ。
どうして。。。?
なぜなら、その当時、まだ蕎麦屋はなかったからですよ。
マジで。。。?
そうなのですよ。。。 だから、僕は“蕎麦屋”と“忠臣蔵”を一緒に取り上げて記事を書いたのです。
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それでぇ、どのような訳でお蕎麦屋さんを取り上げたのでござ~ますか?
あのねぇ~、実は、お蕎麦屋さんの2階に赤穂浪士47人が集まったというのは嘘なのですよ。
ええっ。。。? 赤穂浪士の皆様方は、お蕎麦屋さんの2階に集まったのではないのでござ~ますか? 。。。でも映画では、お蕎麦屋さんの2階に赤穂浪士の面々が集まるシーンがあるのでしょう!?
確かに、そのようなシーンが出てくる。 でもねぇ~、文献を紐解(ひもと)くと赤穂浪士の討ち入りが行われた元禄15年旧暦12月14日(新暦では1703年1月30日)には、赤穂浪士47人が集まれるような2階を持つ蕎麦屋は江戸中を捜してもなかったのですよ。
マジでござ~ますか?
例えば半藤一利さんも次のように書いている。
吉良邸討ち入り・そば屋の二階
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本所のそば屋の二階に浪士集結の一席がある。
町人姿あり医者姿あり職人姿あり、三々伍々に集まる面々、ここで揃いの家事装束に身を固める。
すべての打ち合わせをすませ、腹ごしらえの力そばをすすると、刻限もよしと立ち上がる。
御大将の大石内蔵助を先頭に階段を駆けおりる。
トントントントン。
仰天するそば屋の主人、おかみ、お手伝い。
いちばんしんがりの浪士が「おやじ、勘定だ」と小判を主人の前に投げる。
チャリン…… という名場面。
これまた、絵空事とされてしまったのである、ああ。
この場面が嘘っ八の根拠は、いかなる文献をひらこうとも、元禄15年12月には、今日のように堂々たる店構えをもつそば屋が、本所くんだりにはまだ存在していなかったから、ということである。
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なるほど、そばが江戸町民の食べ物となったのは寛文年間で、同4年(1664)にはじめて江戸でそば切りの販売がみとめられ、二八そば(小麦粉とそば粉の混合の割合)とか、けんどんそばという呼称とともに、そば切りが流行していった。
そして元禄のころには、江戸町民のすこぶる好むものとなる。
で、寛文で8文の値が元禄では7文、需要がふえて値を引き下げたことがわかる。 (略) 忠臣蔵の元禄15年当時は俗に夜鷹そば、つまり振り分け屋台のそば屋で、担いでいって町なかで商いをするのがほとんどで、店舗を構えたそば屋なんか寥々たるものであった。
というのが、かけ値なしの事実というわけで、47人もの多勢が二階に集まれる座敷があって、梯子段をトントン、チャリンという具合にはいかないのである。
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
201-202ページ 『ぶらり日本史散策』
著者: 半藤一利
2010年4月15日 第1刷発行
発行所: 株式会社 文藝春秋
でも、デンマンさん。。。 赤穂浪士47人が眠る、あの有名な泉岳寺の近くにはお蕎麦屋さんがあって、ちゃんと「討ち入りそば」を売っていますわよう。
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あのねぇ~、赤穂浪士47人が蕎麦を食べたとしてもそれは本所ですよ。 泉岳寺の近くの蕎麦屋じゃない。 つまり、泉岳寺の近くの蕎麦屋さんは『忠臣蔵』ブームに乗って「討ち入りそば」を作って950円で売っているのですよ。 場所も蕎麦も全く違うものですよ。
じゃあ、赤穂浪士の皆様方はどこに集まったのでござ~ますか?
普通の旅籠ですよ。 本所にある大きな2階建ての旅館ということでしょうね。 やはり、大きな店構えの蕎麦屋はなかった。 実際、『真説 赤穂銘々伝』の中には赤穂浪士の一人・杉野十平次が「夜鳴きそば屋」になって情報を集めている話が出てくる。
俵星玄蕃との交友
俵星玄蕃(たわらぼしげんば)は、本所松倉町で道場を開いていた。
たいへんな力の持ち主で、槍の穂先で米俵を1俵ずつ突き上げては宙に放り投げるという荒業を持っていた。
このころ、吉良邸の前で毎夜のように店を出す夜鳴きそば屋がいた。
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吉良邸の様子を探るために変装した杉野十平次(じゅうへいじ)である。
俵星玄蕃はよく十平次の夜鳴きそばを食った。
そして、十平次の人柄が気に入った。
ある夜、夜鳴きそばを食べながら玄蕃はこういった。
「この吉良家とまた吉良家の息子殿が養子に入っている米沢の上杉家からおれに仕官の口がかかってきた」
杉野はびっくりした。
なにしろ槍の穂先で米俵を1俵ずつ空中へぶん投げるような荒業の持ち主なのだから、こんな槍の名人がもしも吉良家で雇われて、用心棒になられたらたいへんなことになる。
義士側で相当な犠牲が出る。
そこで十平次は、なんだかだといって結局は俵星玄蕃が吉良家にも上杉家にも仕官しないように仕向けてしまった。
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
219ページ 『真説 赤穂銘々伝』
著者: 童門冬二
1999年11月17日 初版第1刷発行
発行所: 株式会社 平凡社
つまり、この頃も浮世絵で描かれているような「夜鳴きそば屋」が主流だったのですよ。
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だから、上の絵に描かれているような「夜鳴きそば屋」になって吉良邸の前で毎夜のように杉野十平次のは店を出したのですよ。
でも、店を構えたお蕎麦屋さんもあったのではござ~ませんか?
確かに、あったのです。 でもねぇ~、浮世絵で見ると小さなものですよ。
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上の絵のどこに、お蕎麦屋さんがあるのでござ~ますか?
よく見ると橋の袂(たもと)に「二八そば」という看板が出ているのですよ。
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この絵は歌川広重(安藤広重)の「東海道五十三次」の保土ヶ谷宿の場面です。 この絵が描かれたのが1833年ですからね。
討ち入りが行われたのは1703年ですわよねぇ。。。
そうです。 つまり、広重は討ち入りから 130年後に上の絵を描いたのですよ。 その時でさえ、この蕎麦屋さんは小さな藁葺(わらぶ)き屋根の平屋の店ですからね。
『蕎麦屋と忠臣蔵』より
(2013年3月9日)
なるほどォ~。。。 りっぱな お蕎麦屋さんができたのは、江戸時代もずいぶんと あとになってからのことなのですわねぇ~。。。
そういうことなのですよ。
でも。。。、でも。。。、どうして、お蕎麦屋さんの話題に私が呼び出されるのですか?
ちょっと次の検索結果を見てください。
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