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おしまいでございます(PART 1)

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おしまいでございます(PART 1)

 


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デンマンさん。。。 “おしまいでございます”というのは、「今年も あと数日で おしまいでございます」ということを 私に言わせるために、呼び出したのですか?


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ん。。。? 年末のご挨拶に 小百合さんを呼び出したと思ったのですか?

だってぇ~、それ以外に考えられませんわァ。

いや。。。 実は、そうではないのです。

じゃあ、他にどういう理由で私を呼び出したのですか?

あのねぇ~、話し始めるとちょっと長くなるのですよ。

デンマンさんの お話はいつも長いのですわァ~。。。 どうして手短に かいつまんで短くしないのですかァ?

あのねぇ~、手短に かいつまんで話をすると、誤解してしまう人が出てくるのですよ。。。 僕は、ネット市民の皆様が僕の話を聞いて なるべく誤解して欲しくないのです。 だから、誰が聞いても、よ~く理解できるように、噛んで含めるように話すのです。。。 それで、話が長くなってしまうのですよ。

じゃあ、できるだけ、余計なことを言わずに、細木数子さんのようにズバリ!ズバリ!と話してくださいなァ。

あのねぇ~、細木数子のようにズバリ!ズバリ!と話すと誤解を招くのです。。。 だから、彼女は たくさんの人に誤解を与えてしまったために、テレビ局のお偉方から番組を降ろされてしまったのですよ。 

あらっ。。。 そうだったのですか。。。 知りませんでしたわァ。。。 とにかく、私も年末を迎えて忙しい身なので、できれば早く切り上げて、遣(や)り残した用事を片付けたいのですわァ。

分かりました。。。 じゃあ、できるだけ簡潔に話をしますよ。。。 とりあえず、次の小文を まず読んでみてください。


谷郷口御門


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加須市の総願寺の西門

になった谷郷口御門

なぜ折角の忍城の門が加須の不動様に行ってしまったかと、疑問を持つ人が多いであろう。
それは明治4年7月14日全国の藩がなくなり、県令がしかれ、忍藩知事といわれた殿様は忍県知事となり11月13日には忍県は岩槻県、大宮県、浦和県と合併して埼玉県となった。
(その他の川越県は入間県となった。 今の大里、秩父、比企が入間県となり、それが明治6年6月16日から明治9年8月21日まで、その入間県と今の群馬県の大半が熊谷県となり、県庁が熊谷宿にあった。)

そこで明治4年9月12日殿様松平忠敬侯は忍をはなれ、酒巻から船で江戸の下屋敷に全部引っ越しをされ、名実共に忍藩はなくなってしまったわけである。

殿様のいなくなった行田町の人、忍藩の家臣1,404家、その家族3,121人はその後そうして、どうなってしまうのか、大変な不安につつまれた。

そんな不安の中に忍藩十万石は親藩に近い格式の高い藩で、江戸にも一番近い、守るには堅固な城であったので、もしや反乱でもされては困るので、明治政府から明治6年までに一物も残さず取り壊すように命令された。

忍藩は20数年前の文政6年、十万両の借金をして桑名から移封したばかりの上に、千葉富津(ふっつ)の出陣、第三御台場の警備と多大な出費で直ちに忍城取り壊しの費用はなかった。
そこで、借金の返済という形で建物を払い下げ、各人によって片付けさせた。

そんなわけで、つい最近まで“俺の家の倉は忍城のものだった”とか、“長屋門はどこの門だった”とかいう家が多かった。
貸し金の方(かた)で移築させられたのである。
そんな事情の建物の中で最後まで残ってしまったものに谷郷口御門があった。

忍城を全く取り壊したというには、中枢の本丸に手をつけなくてはならない。
いろいろ考えた末、行田町から持田へ抜ける為には城外の北か、南を大回りしなくてはならない不便があったので、行田町の本町から持田口御門に抜ける道を作れば、諏訪曲輪を東西に横切るので、本丸に手をつけたという申し開きにもなるということで、今の国道125号線の本町魚七のところから市役所前、東照宮前、そして持田口に抜ける道を造ることになった。

しかし沼と川を誇る忍城なので、当時の技術では難工事であり莫大な費用となった。
そこで加須の“田村重兵衛”が請け負うこととなった。
明治10年頃から明治25,6年までかかる大工事であったという。
その間に谷郷口御門を、その“土木請負営業”(不動様の門にこう彫ってある)田村重兵衛は谷郷口御門を移築奉納したのである。

谷郷口御門をなぜ“六ツ門”というかというと“明六ツ、暮六ツ”に門番がいて、固く開閉したからである。
明六ツというのは朝の6時であるが、夏至には5時、春分秋分には6時、冬至には7時、暮六ツはその反対に冬至に5時、春秋分には6時、夏至には7時と季節によって2時間の相違があった。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)



106-108ページ 『行田史跡物語』
著者: 大澤俊吉
1979(昭和54)年12月20日 初版発行
発行所: 歴史図書社



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『拡大する』



上の地図のトップに“谷郷口六門”と書いてあるのが、正式には“谷郷口御門”と呼ばれていたのですか?



そうです。

。。。で、現在では、その門が加須市にある総願寺の西門になっているのですか?

その通りです。

それで、この話は“おしまいでございます”か?

いや、違いますよ。。。 それで“おしまい”になってしまっては 身も蓋もないでしょう!

じゃあ、まだお話は続くのですわねぇ~。

もちろんですよ。。。 上の話だけだったら、小百合さんが出てくる必要がないじゃありませんか!

じゃあ、“谷郷口六門”と私が関係あるのですか?

当然でしょう! 関係なかったとしたら、僕は“谷郷口六門”を持ち出しませんよ。

でも、私は生まれて初めて“谷郷口六門”という言葉を耳にしたのですわ。

たぶん、そうだと思いましたよ。

それなのに、私と“谷郷口六門”が関係あるのですか?

そうです。。。そうです。。。 マジで関係があるのですよ。 上の地図をよ~♪~く見てください。。。 小百合さんにとって懐かしいモノが地図の中に書いてあるでしょう。

私にとって懐かしいモノですかァ~?

そうですよう。。。 次の記事の中で、小百合さんと さんざ語り合ったではありませんかァ!


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『かねつき堂と亀姫』



あらっ。。。 “かねつき堂”のことですか?



そうですよう! 小百合さんは行田へやって来ると、必ずと言っていいほど この“かねつき堂”でゼリーフライを買って食べるのですよ。


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このゼリーフライと“谷郷口六門”が関係あるのですか?



いや。。。 そうではないのですよ。。。 “かねつき堂”の中にあった“忍の時鐘”を“六ツ”と正午になると、江戸時代、係りの人がドツイて鐘を鳴らしたのですよ。

。。。で、この事を言うために、わざわざ私を呼び出したのですか?

いや。。。 それだけじゃありません。。。 実は、僕も知らなかったのだけれど、江戸時代、忍藩十万石は親藩に近い格式の高い藩で、江戸にも一番近かったので、幕府の米を預かっていたというのです。

そのお米は、どこで収穫したモノなのですか?

だから忍藩で作られた米ですよ。 忍藩の領地で収穫された米は将軍献上米だったらしい。 次のように書いてありました。


忍米


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谷郷、星宮を穀倉地帯と碑文に書いたが、谷郷組(谷郷村、行田町、長野村、上新郷村、下新田村、須加村、下中条村、酒巻村、若小玉村、小針村、荒木村、小見村、白川戸村) 16,640石448合の内、谷郷村は97町3721歩、 1,806石370合であり、皿尾組は皿尾村、中里村、小舗田村、池上村、上野村、上川上村、下川上村、大塚村、南河原村、中江袋村、馬見塚村、犬塚村、斉条村、和田村、池守上中下村、16,918石682合とある。

忍領64,042石5093合(他に秩父領、新領(県内)、播州領、伊勢領があった)の内、3分の1近いものが皿尾組と谷郷組でとれ、その出入口がこの六ツ門(谷郷口御門)であったといってもいいであろう。

しかも、ここでとれた米は将軍献上米であって、将軍がうまい米なので「これは何処の米か」と尋ねられたので、「おしまいでございます」と答えたので「それは残念である」といわれたと落語にある。

“おしまい”と“忍米(おしまい)”をかけた面白い作り話であるが、良質で沢山とれた事を物語っているといえよう。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)



109-110ページ 『行田史跡物語』
著者: 大澤俊吉
1979(昭和54)年12月20日 初版発行
発行所: 歴史図書社




つまり、この落語を持ち出すために、長々と話してきたのですか?



いや。。。 まだ続きがあるのですよ。 次のメールを読んでください。



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まりちゃん、おはよう!
さわやかにお目覚めですか?

バンクーバーの今朝は素晴らしい!。。。の一言に尽きる朝です。
気温は13度!
さわやか! すがすがしい!
しかも、快晴に近い空でした!
雲がほとんどない青空が広がっていましたよ!

ルンルン気分でスキップしたくなりましたよ!
きゃはははははは。。。


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私は毎朝4時に起きて5時に自宅を出て
車で40分くらい運転をしながら
朝日を浴びて出勤しています(*^_^*)

出勤まで結構な時間と距離があるので、大変ね。。という方もいますが、
私はこの時間が嫌いではなく、
むしろ気持ちの良い時間です(*^。^*)




事故に遭わないように安全にはくれぐれも気をつけてね。
僕は、もう ほとんど車を運転しません。
健康のために歩いています。
歩いて すべての用が済ませることができるマンションに住んでいるのでラッキーですよ!

毎日、図書館の往復の1時間が 楽しいです。
今朝のように、快晴の日には、マジでスキップしたくなります。 (微笑)

夕べ、図書館から帰って、夕食を食べ終えたら、お袋から電話がかかってきましたよ。
10時近かったでしょうか?

今は、介護施設「ハートフル行田」から退所して、実家でのんびりと暮らしているようです。
元気な声で話していたので、僕も安心しました。
ただ、耳が遠くなったので、僕の話は半分ぐらいしか聞き取れていないようですよ。
補聴器をつけなければと いつも言うのですが、まだ補聴器を買ってないようです。

40代の頃から腎臓が悪くて 体に“むくみ”が出ていましたからね。
子供心に、長くは生きられないようだと、悲しい気持ちで見ていたこともありました。
とにかく、よく働き、ぼくら 子供を心からよく面倒見ていましたね。

実は、お袋は小学校だけしか出てないのですよ。
旧・南河原村(現在は行田市に編入)の実家は、お袋が子供の頃にはお金に困っていた。
その当時は、どこの農家も貧しかったのです。

それで、母親の実家の遠い親戚が池袋で寿司屋さんをしていたので、
10代の頃は、僕の母親は その寿司屋さんで女中奉公をしていたのですよ。

店が忙しいときには、店の手伝いもさせられたそうです。
小学生の頃から畑仕事をさせられ、
娘時代は女中奉公。
自分の好きな事は何もできなかったそうです。

実家のために、ずっと働き通しだったそうです。
稼いだお金は、ほとんどすべて実家に入れたそうですよ。
僕の祖父(まりちゃんには曽祖父)が、寿司屋までお金を取りにいったそうです。

そういうわけですから、“子供には自由に人生を歩んでもらいたい。”
お袋は僕が小学校の頃から よくそう言ってましたね。
僕が、とにかく自分の好きな人生を歩んでこれたのは、そういう経緯(いきさつ)もあるのです。

要するに、「自分の自由な人生を歩む」ということは、母親がやろうとしてできなかったことです。
母親は実家のために女学校にも行けず、娘時代には女中奉公して働かねばならなかった。

たまに実家に帰って田んぼで田植えなどしていると、
お袋よりも成績が悪かった同級生の女の子が自転車に乗って行田の女学校に通う姿を見ることがある。

“どうして? どうしてなの? どうして自分は、こんな惨めな境遇に生まれなければならなかったの?”
そう思ったことも、あったと言います。

でも、そんなことを思っても、どうにもならないので、とにかく、毎日毎日、”お天道様(てんとうさま)”が見ているので、しっかり働いたと言います。

だから、僕も、母親の分まで自由に生きたいと。。。 (勝手な言い分ですが。。。)

お袋は 苦労しながら働くことに慣れていたのでしょうね。
僕が大学生当時、お袋は東邦生命の保険の外交員をやっていたのですが、
成績が全国で3番になるほどで
社長賞をもらいに、東京の本社まで出かけていったことがありました。




 (すぐ下のページへ続く)



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