バレンタインのお菓子 (PART 1)
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バレンタインのお菓子ありがとう!
真由美ちゃんが、まさかバレンタインのお菓子を持って風邪見舞いに来るとは思いませんでした。
風邪もだいぶ治(おさ)まって、もうすぐ全快するという状態なので、
なんだか必要以上に気を遣わせてしまったようで、申し訳ない気持ちですよ。
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デンマンさんの風邪も少し良くなったようなので良かったです。
でもあまり無理せずデンマンさんも栄養のあるもの食べてくださいね!
ところで、バレンタインなので お菓子を作ってみました。
パン用の小麦粉を使ったので
想っていたようなお菓子が焼けませんでした。
失敗作ですけれど、せっかく作ったので
食べてください。
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真由美ちゃんは「想ったようにお菓子を焼けなかった」と言ったけれど、
失敗作ではありませんよ。
けっこう、モチモチした感触で、僕にはビスケットよりは旨かったです。
真由美ちゃんが以前話していたスコーンも、このような感じなのかな?
そう思いながら食べました。
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scone (スコーン)
僕はイギリスの作家のジェームズ・ヘリオット(James Herriot)さんの短編小説が好きなのですよ。
スコーンというお菓子は、James Herriotさんの本の中でしばしばお目にかかったものです。
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The World of James Herriot
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彼の小説の中にはノースヨークシャーの田舎町・サースクで
作られているスコーンがたびたび出てくるのです。
いつも、“どんなものなのだろうか?”と創造しながら、
今度イギリスに行ったら、ぜひノースヨークシャーの
sconesをぜひ食べてみたい!。。。と思うのです。
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Yorkshire Scones
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そう思いながら、彼の作品を読むのが常でした。
真由美ちゃんの作るスコーンもぜひ食べてみたいですよ。
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Let's Make Yorkshire Puddings!
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ヨークシャー・プディングもうまそうだよね。
ヘリオットさんの作品にもよく出てきます。
この人の本は僕がバンクーバーへやって来てから、初めて親しんだ英語の本でした。
カナダ人だと思ったのだけれど、スコットランドで生まれ育って、イングランドのヨークシャーに長年住んでいたのです。
僕が、この人の本を読み始めたときには、すでに故人になっていました。
新しい作品が読めないので残念です。
この人の本は易しい単語で書かれているので 真由美ちゃんも楽しみながら読めると思いますよ。
スコーンをはじめ、ヨークシャープディングだとか、食べ物の話もよく出てきます。
獣医さんが本業だから、この人の作品は犬や猫のことが多く出てきます。
だから、真由美ちゃんにとっても、親しみながら読めると思いますよ。
ノースバンクーバーの図書館にも、この人の本が置いてあると思います。
バンクーバーには関西人が多いという真由美ちゃんの感想だったけれど、
確かに、東日本よりも、西日本から移住してきた人の方が多いですよ。
だから、真由美ちゃんの生まれ故郷の栃木県がどの辺にあるのか?知らない人がいたと言ってビックリしていたけれど、
その人は、学校の授業で「地理」が嫌いだったのでしょうね。 (笑い)
カナダ人でも、日本がどこにあるのか知らない人がいるからね。
「日本ってぇ~、中国のどの辺にあるの?」と訊いてきた人がいましたよ。
つまり、カナダ人の中には 日本が中国の中にあると思っている人も居るのですよ。
それから思えば、栃木県が日本のどの辺にあるのか?知らない人の方が、まだまだ かわいいですよ。
ところで、栃木県では“那須与一”のイベントや、那須与一にあやかった“道の駅”があるという事を 真由美ちゃんが知っていたのでホッとしました。
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田中正造の名前は、真由美ちゃんは知らなかったけれど、それは無理もないでしょう。
足尾銅山の鉱毒問題で有名になった人です。
それから、僕が友達を助けようとして溺れそうになった臨死体験のことは次の記事で書きました。
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■『デンマンの死@玉淀』
暇な時に読んでみてね。
バレンタインに、真由美ちゃんと たくさん話ができて楽しかったですよ。
風邪の方も、あと、2,3日で完治するでしょう。
では、今夜は 歩いて疲れたでしょうから、ぐっすりと眠って
楽しい夢でも見てね。
じゃあ、おやすみ。。。
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Sunday, February 15, 2015 0:13AM
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デンマンさん。。。、今日は わざわざ私が焼いたバレンタインのお菓子を取り上げたのですか?
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いや。。。 実は、真由美ちゃんが焼いて持って来てくれたバレンタインのお菓子を食べながら、ふいに那須与一のことがオツムに浮かんできたのですよ。
どうして バレンタインのお菓子で 那須与一を連想したのですか?
だから、上のメールにも書いたけれど、栃木県では“那須与一”のイベントや、那須与一にあやかった“道の駅”があるという事を 真由美ちゃんが知っていたのでホッとしたのです。 (笑い)
私は栃木県で生まれて、栃木県で育ったので、その程度のことは知っていましたわ。
そうです。。。そうです。。。 それで僕はバレンタインのお菓子を食べながら、“那須与一”を『ウィキペディア』で読んだのですよ。
那須与一
嘉応元年(1169年)? - 文治5年8月8日(1189年9月19日)?
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那須 与一は、平安時代末期の武将。
系図上は那須氏2代当主と伝えられる。父は那須資隆(太郎)。
妻は新田義重の娘。
一般的には本名は宗隆(『平家物語』では宗高)と紹介されることも多いが、これは初名であり、当主に就任後は父と同名の資隆と名乗ったと伝えられる。
名の由来
与一は十あまる一、つまり十一男を示す通称である。
なお、与一を称した同時代人としては佐奈田義忠、浅利義遠がいる。
彼らと那須与一を合わせて「源氏の三与一」と呼ばれる。
略歴
『吾妻鏡』など、同時代の史料には那須与一の名は見えないため、
与一の事跡は軍記物である『平家物語』や『源平盛衰記』に伝えるところが大きい
(そのため、学問的には与一の実在すら立証できていない)。
『平家物語』の記述から逆算すると、1169年(あるいは1166年、1168年)頃に誕生した。
誕生地は当時の那須氏の居城神田城(現在の栃木県那須郡那珂川町)と推測されることが多い。
異説・伝承
幼い頃から弓の腕が達者で、居並ぶ兄達の前でその腕前を示し父の資隆を驚嘆させたという地元の伝承がある。
また、治承4年(1180年)、那須岳で弓の稽古をしていた時、那須温泉神社に必勝祈願に来た義経に出会い、
資隆が兄の十郎為隆と与一を源氏方に従軍させる約束を交わしたという伝説がある。
その他与一が開基とする寺社がいくつか存在している。
『平家物語』に記される、扇の的を射抜く話が非常に有名である。
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また、弘前大学教授夫人殺人事件で犯人とされ有罪判決が下され、
後に冤罪が発覚した那須隆は、那須氏36代当主である。
(江戸時代に養子縁組で家名をつないでいるため、那須資房、那須資胤ら統一那須氏の実の子孫ではない)
出典: 「那須与一」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この“那須与一”を読んでねぇ、「弘前大学教授夫人殺人事件で犯人とされ有罪判決が下され、後に冤罪が発覚した那須隆は、那須氏36代当主である」という箇所にぶつかった時に、僕はちょっとビックリしましたよ。
もしかして、デンマンさんのお父さんの血筋をたどってゆくと、殺された弘前大学教授夫人にたどり着くのですか?
真由美ちゃんは、意外に想像力が豊かですねぇ~。。。
じゃあ、マジで私の推測が当たってしまったのですかァ~?
いや。。。 残念ながら、外れました。 僕と殺された弘前大学教授夫人とは 何の関係もありません。
それなのに、どうしてデンマンさんは ビックリしたのですか?
あのねぇ~、上のメールの次の箇所をもう一度読んでください。
栃木県では“那須与一”のイベントや、那須与一にあやかった“道の駅”があるという事を 真由美ちゃんが知っていたのでホッとしました。
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弘前大学教授夫人殺人事件で犯人とされ有罪判決が下され、後に冤罪が発覚した那須隆さんは、“道の駅(「那須与一の郷」)”に2007年(平成19年)10月に「那須与一伝承館」が開館すると、その名誉館長に就任したのですよ。
弘前大学教授夫人殺人事件
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弘前大学教授夫人殺人事件は、
1949年(昭和24年)に青森県弘前市で発生した殺人事件と、
それに伴った冤罪事件である。
略称は弘前事件。
殺人被害者の名を取って松永事件、あるいは冤罪被害者の名を取って那須事件とも呼ばれる。
1949年8月6日深夜、弘前医科大学教授松永藤雄の妻が在府町の寄宿先で刺殺された。
弘前市警は近隣住民の無職の男、那須隆を逮捕。
勾留延長や別件逮捕などを利用して厳しく追及した。
那須は一貫して無実を主張したがアリバイはなく、
事件の目撃者からも犯人であると断定され、
精神鑑定でも那須は変態性欲者であるとの結果が出された。
加えて那須の衣服に対する血痕鑑定(フランス語版)でも血液の付着があるとの結果が出されたため、
同年10月に那須は青森地裁弘前支部へ起訴された。
一審では血液学の権威である東京大学医学部法医学教室教授古畑種基も
数学を援用して那須の衣服の鑑定を行い、
それには被害者のものと完全に一致する血液が付着していると結論した。
これに対し那須の弁護人らは、実施された鑑定には不自然な点があるとして、
物証は捏造されたものであると主張した。
1951年(昭和26年)に下った一審判決では那須は
殺人罪について無罪とされたが、裁判長はその理由を一切説明しなかった。
仙台高裁で開かれた控訴審では那須が変態性欲者ではないとする精神鑑定の結果も出されたが、
1952年(昭和27年)の控訴審判決は古畑の鑑定を始めとしてほぼ全面的に検察側の主張を容れ、
那須は懲役15年の有罪判決を受けた。
やがて判決が確定した那須は10年間服役し、
この事件は法医学の力が有罪判決に寄与したモデルケースとして知られるようになった。
しかし、事件から20年以上が経過した1971年(昭和46年)になって、
事件当時は弘前在住で那須の知人だった男が、
自らが事件の真犯人であると名乗り出た。
那須は日本弁護士連合会や読売新聞などの協力を得て再審を請求し、
その後行われた物証の再鑑定でも、
過去の血痕鑑定には多くの批判が加えられた。
1974年(昭和49年)に請求は一度棄却されたが、
翌年に下された白鳥決定により再審の門戸が拡げられたことにより
間もなく再審の開始が決定された。
そして事件から28年が経過した1977年(昭和52年)、
仙台高裁は物証の捏造を強く示唆して那須に対する殺人の罪を撤回し、
事件は冤罪と認められた。
だが、その後の国家賠償請求訴訟では国側の過失責任は否定され、
那須の全面敗訴となった。
その後
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道の駅「那須与一の郷」2004年(平成16年)、
那須氏ゆかりの地として知られる栃木県大田原市に道の駅「那須与一の郷」がオープンした。
この道の駅に那須与一を伝える伝承館が併設される運びとなった際、
那須は裁判費用として売却されることを免れた家宝など701点を大田原市へ寄託した。
そして2007年(平成19年)10月に「那須与一伝承館」が開館すると、
那須はその名誉館長に就任している。
2008年(平成20年)1月24日、「私が死んでも、誰にも知らせないで欲しい」と言い遺し、那須隆は84歳で世を去った。
出典: 「弘前大学教授夫人殺人事件」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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