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道鏡伝説の謎 (PART 3 OF 4)

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道鏡伝説の謎 (PART 3 OF 4)



大逆事件

(たいぎゃくじけん)


(taigyaku.jpg)

『拡大する』

1882年に施行された旧刑法116条、および大日本帝国憲法制定後の1908年に施行された刑法73条(1947年に削除)が規定していた、天皇、皇后、皇太子等を狙って危害を加えたり、加えようとする罪、いわゆる大逆罪が適用され、訴追された事件の総称。
日本以外では皇帝や王に叛逆し、また謀叛をくわだてた犯罪を、大逆罪と呼ぶことがある。

特に一般には1910、1911年(明治43、44年)に社会主義者幸徳秋水らが明治天皇暗殺計画を企てたとして検挙された事件を指す。
幸徳事件ともいわれる。

概要

政治制度として天皇制を重視した大日本帝国憲法下の日本政府は大逆罪を重罪とし、死刑・極刑をもって臨んだ。
裁判は非公開で行なわれ、大審院(現・最高裁判所)が審理する一審制(「第一審ニシテ終審」)となっていた。

堺利彦や片山潜らが「平民新聞」などで、労働者中心の政治を呼びかけ、民衆の間でもそのような気風が流行りつつあった中の1910年(明治43年)5月25日、信州の社会主義者宮下太吉ら4名による明治天皇暗殺計画が発覚し逮捕された「信州明科爆裂弾事件」が起こる。
以降、この事件を口実に全ての社会主義者、アナキスト(無政府主義者)に対して取り調べや家宅捜索が行なわれ、根絶やしにする弾圧を、政府が主導、フレームアップ(政治的でっち上げ)したとされる事件。

敗戦後、関係資料が発見され、暗殺計画にいくらかでも関与・同調したとされているのは、宮下太吉、管野スガ、森近運平、新村忠雄、古河力作の5名にすぎなかったことが判明した。
1960年代より「大逆事件の真実をあきらかにする会」を中心に、再審請求などの運動が推進された。
これに関して最高裁判所は1967年以降、再審請求棄却及び免訴の判決を下している。

信州明科爆裂弾事件後、数百人の社会主義者・無政府主義者の逮捕・検挙が始まり、検察は26人を明治天皇暗殺計画容疑として起訴した。
松室致検事総長、平沼騏一郎大審院次席検事、小山松吉神戸地裁検事局検事正らによって事件のフレームアップ化がはかられ、異例の速さで公判、刑執行がはかられた。
平沼は論告求刑で「動機は信念なり」とした。
検挙されたひとりである大石誠之助の友人であった与謝野鉄幹が、文学者で弁護士の平出修に弁護を頼んだ。

1911年1月18日に死刑24名、有期刑2名の判決(鶴丈一郎裁判長)。
1月24日に幸徳秋水、森近運平、宮下太吉、新村忠雄、古河力作、奥宮健之、大石誠之助、成石平四郎、松尾卯一太、新見卯一郎、内山愚童ら11名が、1月25日に1名(管野スガ)が処刑された。
特赦無期刑で獄死したのは、高木顕明、峯尾節堂、岡本一郎、三浦安太郎、佐々木道元の5人。
仮出獄できた者は坂本清馬、成石勘三郎、崎久保誓一、武田九平、飛松与次郎、岡林寅松、小松丑治。



(写真は『軍歌余談』より拝借)

出典: 「大逆事件」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




道鏡さんが企てたことが本当やとしたら大逆事件以上に日本国に対する最大の罪やん。 少なくとも藤原氏の目には、そう見えたはずや。 死刑にしてもまだ足りないはずやったのに、なぜ下野(しもつけ)の国にある寺に左遷だけやったのか?



なぜやの?

つまり、藤原氏の側に後ろめたさがあったのや。 悪いのは孝謙女帝と道鏡さんではなくて、自分たちだと言う事をよ~く知っていたのやがなァ。

その証拠は。。。?

その当時の刑罰には5つの刑が定められていた。

笞(ち)・杖(じょう)・徒(ず)・流(る)・死(し)

大逆事件以上の事件を起こしたのやさかいに道鏡さんは死刑になっても当然なのやがなァ。 それなのに死刑にせんかった。 それよりも軽い流(る)罪やった。

だから、どうして。。。?

あのなァ~、当時の人はマジで霊魂を信じていたのやァ。 無実の人を罪に陥(おとしい)れて死なせたりしたら、どうなるのか? 藤原氏の人たちはよ~く知っていたのやァ。 

無実の人を死に追いやると、どうなるん?

恨みを持って死んでいった人の霊魂の祟(たた)りに遭うのやがなァ。 そういう事件が実際に起きてしもうた。


長屋王の変

長屋王(ながやのおおきみ)

生年: 天武天皇13年(684年)?
没年: 神亀6年2月12日(729年3月16日)


(nagaya99.jpg)

長屋王は、奈良時代の皇族、公卿。正二位左大臣。
皇親勢力の巨頭として政界の重鎮となったが、対立する藤原氏の陰謀といわれる長屋王の変で自害した。

長屋王政権

長屋王は慶雲元年(704年)正四位上に直叙され、和銅2年(709年)従三位宮内卿、同3年式部卿、霊亀2年(716年)には正三位に叙せられている。
平城京遷都後、右大臣藤原不比等が政界の中心となり、舎人親王や長屋王ら皇親勢力がこれに対する形であった。
ただし、長屋王が不比等の娘を妻としていた関係で、不比等の生存中はむしろ王の立場は親藤原氏的存在であったとみる説もある。

霊亀3年(717年)左大臣石上麻呂が薨去すると、翌年長屋王は非参議から一挙に大納言に任ぜられ、太政官で右大臣藤原不比等に次ぐ地位を占める。
さらに、藤原不比等が養老4年(720年)に薨去すると、その子である藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)はまだ若く、議政官は当時参議の地位にあった房前のみであったため、長屋王は皇親の代表として政界の主導者となった。
その後長屋王は養老5年(721年)に従二位右大臣、さらに神亀元年(724年)聖武天皇の即位と同日、正二位左大臣に進み、また、元正天皇も自分の妹である吉備内親王とその夫の長屋王に厚い信任を寄せていたといわれている。

当時の施策としては、養老7年(723年)に発令された三世一身の法がある。
また養老3年(719年)には新羅からの使者を長屋王邸に迎えて盛大な宴会が催され、長屋王自身の作になる詩や、時の文人らが作った詩が『懐風藻』に収録されている。なお『懐風藻』にはこのときの詩を含め、長屋王の漢詩が計3首収められている。

神亀5年(728年)5月には、王の父母と聖武天皇をはじめとする歴代天皇のために、大般若経一部六百巻の書写を発願している(神亀経)。

長屋王の変

このような長屋王の権勢は藤原四兄弟にとっては面白くないものであった。
不比等の生前こそ、舅と娘婿の間柄であって関係も決して悪いわけではなかったが、不比等の死後に不比等の娘で聖武天皇の生母藤原宮子の称号を巡って長屋王と四兄弟が衝突する(辛巳事件)と、その対立が露になってきた。

神亀6年(729年)2月、漆部君足(ぬりべのきみたり)と中臣宮処東人が「長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す。」と密告があり、それをうけて藤原宇合らの率いる六衛府の軍勢が長屋王の邸宅を包囲し、舎人親王などによる糾問の結果、長屋王はその妃吉備内親王と子の膳夫王らを縊り殺され服毒自殺した。
これが長屋王の変である。
讒言であったとする説が強い。

聖武天皇は病弱で事件当時には非藤原氏系の安積親王しか男子がいなかった。
政治的な対立もさることながら、天皇と安積親王に何かがあった場合には天皇の叔母・吉備内親王の生んだ男子(当然、長屋王の息子でもある)である膳夫王ら三王が男系皇族での皇位継承の最有力者となる筈であったことも「長屋王排除」の理由として注目すべき点である。

王の薨去後、藤原四兄弟は妹で聖武天皇の夫人であった光明子を皇后に立て、藤原四子政権を樹立するも、天然痘により天平9年(737年)に4人とも死没してしまった。 王を自殺に追い込んだ祟りではないかと噂されたという。

なお、『続日本紀』によると、翌10年(738年)の7月10日、王のことを誣告した人物の一人である中臣宮処東人が大伴子虫により斬殺されてしまう。
子虫は長屋王に恩遇されていた人物の一人で、囲碁のときに話が王のことに及んだため憤激して殺したとなっている。

なお、この事件に関して大伴子虫は罪に問われていない。
『続日本紀』に「誣告」と記載されていることから、同書が成立した平安時代初期の朝廷内では、長屋王が無実の罪を着せられたことが公然の事実となっていたと想定されている。



出典: 「長屋王の変」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



(merange12.jpg)

つまり、陰謀で道鏡さんを退(しりぞ)けようとした藤原氏の人たちは、道鏡さんを死刑にしたら自分たちが後で祟りに遭って死んでしまうと、それで祟られないように下野(しもつけ)のお寺に左遷するだけにしたと、あんさんは言わはるのォ~?


(kato3.gif)

その通りやァ。。。めれちゃんかて祟りの事を考えたら道鏡さんを死刑にはできへんやろう? それ程、藤原氏の陰謀家たちも祟りを恐れていたのやァ。 要するに、道鏡事件も藤原氏が祟られるような事をしていた何よりの証拠やねん。

そう言う考え方が一般的やったので江戸時代まで道鏡さんの巨根伝説は生まれなかったと、あんさんは言わはるのォ~?

その通りやァ。

。。。で、江戸時代になって民衆が『通俗如意君伝』を読むようになってから、道鏡さんの巨根伝説が生まれたと、あんさんは言わはるのォ~?

そうやァ。

そやけど、それってぇちょっと飛躍しているのとちゃうん?

決して飛躍してへんでぇ~。。。これまでの話をもう一度噛み締めてみれば、民衆が『通俗如意君伝』を読むようになってから、道鏡さんと孝謙女帝のカップルを薛敖曹(せつごうそう)と則天武后に面白おかしく結びつけるようになったのやがなァ~。 祟りを恐れなくなるまでに、これだけの年月が必要だったと言うことやァ。

そうやろかァ~?

あのなァ~、『道鏡鎧甲(よろいかぶと)』も江戸時代になってから葛飾北斎によって描かれたものやァ。


(doukyox1.jpg)



つまり、江戸時代になるまでは祟りが恐ろしくて画けなかったと、あんさんは言わはるのォ~?



いや。。。祟りやのうてぇ、『通俗如意君伝』を読むまでは道鏡さんが巨根の持ち主だという発想が湧いて来なかったのやがなァ~。



(laugh16.gif)

 (すぐ下のページへ続く)




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