宗長の奥の細道(PART 2 OF 3)
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(summer001.jpg)
抱きしめて
君の瞳に
夏の雲
大震災に遭い、死んでしまったのではないかと諦めていた。
しかし、お互いに生存していたと知って再会し、抱き合った時に詠んだ人の句なのですよ。
う~~ん。。。いいですよね。
僕も上の句をしみじみと味わいながら1年ぶりで小百合さんと再会して、Hよりも感じるハグをした時を思い出しながら詠んでみました。
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(bearhug05.jpg)
抱きしめる
きみのぬくもり
秋の空
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(autumn02.jpg)
どうですか、さゆりさん。。。?
いいでしょう!?
明日か、あさって、また会いたいですね。
楽しみにしています。
じゃあね。
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(denman01.gif)
『愛と死のオーラ』より
(2011年12月5日)
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このようなメールを持ち出してきて、デンマンさんは恥ずかしくないのですか?
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ん。。。? 恥ずかしくない?。。。 どうして僕が恥ずかしいと感じなければならないのですか?
だってぇ~、「Hよりも感じるハグをした時を思い出しながら詠んでみました」なんてぇ書いたら、この記事を読んでいる人が白けるというか、読む人までが恥ずかしくなりますわよう。
あのねぇ~、白ける人は白けてもらってもいいのですよ。。。 僕は、その部分はどうでもいいのです。。。 要は、松尾芭蕉が山寺で詠んだ俳句ですよ。。。 僕は仙台で5年ほど暮らしたことがあるから、山寺にも何度か行ったことがあるのですよ。。。 だから、上のセミの声の俳句は実に懐かしいのです。
。。。で、芭蕉の“奥の細道”のように、宗長さんも、東北地方を旅して歩いたことがあるのですか?
そうなのですよ。
でも、どうしてあまりよく知られていない宗長さんを取り上げたのですか?
あのねぇ~、実は、小百合さんが今年の3月3日に書いた次のメールが ひょっこりオツムに浮かんできたのです。
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(sayuri5.gif)
遅くなりましたが、
2月の終わり頃に
バレンタインのBOXを送りました
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(valent23.jpg)
From: sayuri914@yahoo.co.jp
To: barclay1722@aol.com
Date: Tue, Mar 3, 2015 at 8:16 PM
バレンタイン・デーに、贈り物が届くように 誰もが小包を送るので
カナダの郵便局は、どこでも忙しくなることでしょう。
去年は、おそらく、そういうこともあって、なかなかデンマンさんの手元に
バレンタインの小包が着かなかったのだと思います。
そう言う訳で、今回は 意識的に送る時期をずらしました。
2月の終わり頃にバレンタインのBOXを送りました。
たぶん、デンマンさんの手元に着くのは早くても3月の下旬、
遅くなると、4月の初旬になると思います。
ところで、今年の節分の豆まきには、
子供をつれて館林市の長良神社へ行ってきました。
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(mamemaki2.jpg)
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館林の総鎮守とされる氏神で、かつて上野国の国主としてこの地を治めた藤原長良を主祭神として祀っていることになっています。
赤井良遠なる人物が上野国の佐貫荘長柄郷瀬戸井(現在の邑楽郡千代田町)に勧請したものが始まりとされ、館林城を築城した赤井照光によって館林に勧請されたと伝われています。
でも、実際には長良が上野国の国主を務めたという事実は無いそうです。
本当は 佐貫荘を開いた佐貫氏が鎮守として祀ったのが始まりだということです。
デンマンさんも、遅ればせながら豆まきをして
2度と風邪にかからないようにしてくださいね。
小百合より
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(sayuri15.gif)
『短歌に込められた愛の真実』
(2015年3月18日)
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このメールがどうだと言うのですか?
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今年の節分の豆まきに、小百合さんが子供を連れて館林の長良神社へ行ったという事が気にかかっていたのです。
どうして。。。?
その長良神社は、「かつて上野国の国主としてこの地を治めた藤原長良を主祭神として祀っていることになっています。 (略) でも、実際には長良が上野国の国主を務めたという事実は無いそうです」という部分が気にかかっていたのですよ。
どうして気にかかっていたのですか?
僕は、郷土史にも関心があるので、行田市の歴史には けっこう詳しいのです。。。 行田の郷土史家の大澤氏が書いた本の中に次のような箇所がある。
成田氏の文化
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(oshijo09.jpg)
成田氏の祖は藤原鎌足(614-669年)に始まり、13代行成(972-1027年)の子忠基を初祖とし、その15代親泰(1464-1524年)が延徳3年(1491年)に忍城を築城すという。 (略)
成田氏の文化程度と財宝は驚く程で、如何にその勢力が大きかったか想像出来る。
氏長は特に学芸を愛して連歌の道は、その史上に残る人であった。
当時の連歌の第一人者“宗長”も永正6年(1509年)忍城に来たことが『宗長日記』に出ているし、天正13年(1585年)兼如も来ている。
兼如は家康の連歌の師となった人である。
天正15年(1587年)氏長はたくさんの連歌師を招き、春日神社で大連歌会を行い、奉納連歌百韻をかかげたとあるのをみても、成田氏の文化程度を知ることが出来る。
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
201-203ページ 『行田史跡物語』
著者: 大澤俊吉
1979(昭和54)年12月20日 初版発行
発行所: 歴史図書社
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行田市は戦国時代には成田氏が治めていたのですよ。。。 当時、権威を保つためには、やはり血筋が問題だった。。。 どこの馬の骨とも解らない領主に仕えるのは、納得のいかない、要するに、自尊心が許さない人だっていたわけです。。。 だから、領主になる人は、自分の祖先が藤原氏と関係していると言えば、かっこいいわけですよね。
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つまり、長良神社は「かつて上野国の国主としてこの地を治めた藤原長良を主祭神として祀っている。 (略) でも、実際には長良が上野国の国主を務めたという事実は無い」というのも、藤原氏との関係を下々の者に示すために、藤原氏を祀った神社を建て、しかも、実際には、国主になったこともないのに、国主に藤原氏をいただいていたということにして、権威付けをしていた、とデンマンさんは言うのですか?
そいうことですよ。。。 当時は、藤原氏との関係を持つことが権威を高めることになっていたのです。。。 だから、行田にも藤原氏の氏神である春日神社があるのです。
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(kasuga02.jpg)
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。。。で、宗長さんは、どうなっているのですか?
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あのねぇ~、当時、宗長さんは連歌の第一人者で有名人だった。
つまり、そのことも権威を保つことと関係しているのですか?
もちろんですよ。。。 豊臣秀吉が権威と文化を誇示するために、いろいろな催しを開いたでしょう!? たとえば、北野大茶会(きたのだいさのえ)ですよ。
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現代ならば、さしずめ、こういう茶会を大々的に開いて、多くの人を呼び寄せる。。。 すると、下々の人がそれを見て、「さすがは太閤さんだ。。。 昔は百姓をしていたが、今は天下人でありながら、文化人でもある。。。。さすがはすごい人だ。。。」と、敬(うやま)うようになる。。。つまり、太閤秀吉の権威が高まるわけですよ。
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昔の行田市の領主の成田氏長さんも、権威を高めるために、たくさんの連歌師を招き、春日神社で大連歌会を行い、奉納連歌百韻をかかげたのですか?
そうですよ。。。 そうやって、下々の人々に成田氏の文化程度を知らせたのですよ。
マジで。。。?
でも、それは、表向きの話です。。。 実は、宗長さんは当時の連歌の第一人者だから、有力な戦国領主に呼ばれるわけです。。。 秀吉や信長の時代の茶人のように、連歌師はスパイの役目も果たしていたわけです。
つまり、成田氏長さんは宗長さんから諸国の情報を聞きだすために招いたのですか?
当然でしょうね。。。 成田氏長という人は、かなりのやり手だったと僕は思っているのですよ。。。 あの有名な娘の甲斐姫をみても、それは頷(うなづ)ける。。。 成田氏長という すぐれた父親がいたからこそ、娘の甲斐姫は忍城を豊臣軍から守ることができたのですよ。。。 豊臣軍が攻略できなかった城は、忍城だけだったのですよ。。。 館林城は陥落したけれど、忍城は最後まで持ちこたえた。。。 小田原城が開城になってので、仕方なく降参したけれど、父親の命令がなければ、甲斐姫は忍城を死守したはずですよ。
つまり、成田氏長という人は、天下を狙っていたと。。。?
あのねぇ~、戦国領主は機会があれば、誰だって、天下を狙っていたはずです。。。 そのためにこそ、成田氏長は、宗長さんから諸国の情報をそれとなく聞きだしていたわけです。
宗長さんは、それほど諸国を歩いていた人なのですか?
そうですよ。。。 だから、「宗長手記」、「宗長日記」が現在に伝わっている。
要するに、松尾芭蕉さんの「奥の細道」は、宗長さんの「宗長日記」の影響を受けて書いたということですか?
そうですよ。。。 宗長さんの“奥の細道”の方が先にあったのですよ。。。 僕は、そう信じているのです。
(すぐ下のページへ続く)