タリアセン夫人とリンドバーグ夫人(PART 1)
女一人の部屋
我々が一人でいる時というのは、我々の一生のうちで極めて重要な役割を果たすものなのである。
或る種の力は、我々が一人でいる時だけにちか湧いて来ないものであって、芸術家は創造するために、文筆家は考えるために、音楽家は作曲するために、そして聖者は祈るために一人にならなければならない。
しかし女にとっては、自分というものの本質を再び見出すために一人になる必要があるので、そのとき見出した自分というものが、女のいろいろな複雑な人間的な関係の、なくてはならない中心になるのである。
女は、チャールス・モ−ガンが言う、「回転している車の軸が不動であるのと同様に、精神と肉体の活動のうちに不動である魂の静寂」を得なければならない。
(中略)
機械的な意味では、私たちはこの何十年間かに多くのものを獲得したが、精神的には、却(かえ)って失ったもののほうが多いと私は思う。 昔は、女がそれを知っていたかどうかは別として、女の生活に一つの中心を与えるのにもっと多くの源泉があった。
女が家の中に閉じ籠(こ)められているということ自体が、女が一人でいられる時間を作った。 女の仕事の多くは、静かに自分というものを眺めてこれを知るのに適した性質のもので、昔の女は今日の女よりももっと多くの創造的な仕事を持ていた。
料理とか、裁縫というようなものさえも、自分というものの糧になる創造的な仕事に属していて、パンを焼いたり、布を織ったり、漬(つ)けものを作ったり、子供を教えたり、歌を歌ってやったりするのは、今日の女が自動車を運転したり、百貨店に買いものに行ったり、各種の機械的な手段で家の仕事をしたりするのよりも、遥(はる)かに多くのものを女に与えたに違いない。
(注: 赤字はデンマンが強調
写真はデンマン・ライブラリーより)
45 - 47ページ 『海からの贈物』
著者: リンドバーグ夫人 吉田健一・訳
2000(平成12)年7月15日 第63刷発行
発行所: 株式会社 新潮社
デンマンさん。。。またリンドバーグ夫人が書いたものを引用したのですか?
いけませんか?
ちょっと、しつこいのではありませんか?
でも、読んでみて、なかなか味わいのある文章だとは思いませんか?
確かに、そう言われてみると昔の女は今日の女よりももっと多くの創造的な仕事を持ていたような気もしますわ。
そうでしょう!? それに旦那から離れて自分一人になって考える時間も小百合さんにとって必要だったのですよ。
デンマンさんは、どうしてそのような事を言うのですか?
だってぇ、小百合さんは次のように書いていましたよ。
Subj:長い電話お疲れ様でした。
Date: 01/10/2007 1:52:14 AM
Pacific Daylight Saving Time
日本時間: 10月1日 午後5時52分
From: fuji@adagio.ocn.ne.jp
To: barclay1720@aol.com
長い電話お疲れ様でした。
良くわかりました。
経理をしなくてはいけない。
それも13年分。
誰にたのもうか?
レシートもなくてと迷って朝方まで寝られない夜が毎晩だった時、
デンマンさんと話して、ここまで経理が進んだことをホットしてます。
いくら 請求がきても カナダに納めるのならいいやと思いはじめました。
バーナビーで夏休みを過ごすことは
毎年私の支えの時間でした。
あの古い家は、夏休みで休むというより
ペンキ、芝のクローバむしり、
りんごの木の手入れ、
玄関まで高く長い階段のペンキはがしや、
しばらくみがかないガラス、
シミだらけのじゅうたん、
BASEMENTはランドリーのホコリとくもの巣、
行けば、掃除ばかりの家に大変でしたが
また戻りたいと思っていました。
実父の病気に、もう自分勝手にしていては駄目だ。
と今年決意しました。
こんな私でも欲しい物があります。
別荘です。
場所は長野です。
買ったら元家主の藤田桃子さん夫婦も招きたいです。
よかったらデンマンさんも。
日本だったら、親をおいていくことなく、ゆけます。
でも、29才からバーナビーで夏休みを過ごすことができた事は
私の人生にとって良かったと思います。
ではまた。。。
小百合より
『カナダのバーナビー』より
(2008年11月18日)
つまり、夏休みになると、旦那から離れて一人になって“山の家”で小百合さんは人生を深く考えながら生活したのですよ。 そのようにして29才からバーナビーで夏休みを過ごすことができた事は
小百合さんの人生にとって良かったと思います、と言っているではないですか。
そうですわね。。。私は主人から距離を置いて自分の人生を。。。自分自身をリンドバーグ夫人のように改めて考えたのかもしれませんわ。
あの古い家は、夏休みで休むというより
ペンキ、芝のクローバむしり、
りんごの木の手入れ、
玄関まで高く長い階段のペンキはがしや、
しばらくみがかないガラス、
シミだらけのじゅうたん、
BASEMENTはランドリーのホコリとくもの巣、
行けば、掃除ばかりの家に大変でしたが
また戻りたいと思っていました。
小百合さんはこのように書いていたけれど、考えてみればリンドバーグ夫人が書いているように「各種の機械的な手段で家の仕事をしたりするのよりも、遥(はる)かに多くのものを」小百合さんに与えたに違いないのですよ。 そう思いませんか?
言われてみれば、確かにそうかもしれませんわ。
そのように一人になりながら小百合さんは旦那との関係をリンドバーグ夫人のように考えていたのですよ。
リンドバーグ夫人はご主人との関係をどのように考えていたのですか?
次のように考えていたのです。
歓喜はやがて冷める
相手と初めのうち結ばれていた関係は変わって、世間との接触でもっと複雑な、もと厄介なものになる。 ...確かに、この二人が結ばれた当時の関係というのは美しいものである。
それはそれだけで充実したものであって、春になった頃の朝の感じがあり、我々はやがては夏が来るのを忘れて、二人の人間が過去にも未来にも煩わされずに、個人と個人として向き合うこの愛の早春をいつまでも続かせたいと思う。
どんな変化も、それが人生と人生の進展の一部をなしている自然なものであることが解っていても、不愉快に感じられるのであるが、肉欲と同じことであって、人と人の関係も、初めの歓喜の状態が同じ烈(はげ)しさをいつまでも失わずにいるということはあり得ない。
それは成長して別の段階に入り、我々はそれを恐れずに、春の次に夏が来たのを喜んで迎えるべきである。
(注: 赤字はデンマンが強調
写真はデンマン・ライブラリーより)
57 - 58ページ 『海からの贈物』
著者: リンドバーグ夫人 吉田健一・訳
2000(平成12)年7月15日 第63刷発行
発行所: 株式会社 新潮社
つまり、私と主人との関係も冷たくなっているとデンマンさんは思っているのですか?
いや。。。特に世間の一般的な夫婦と比べて冷たくなりすぎていると言っているわけじゃないのですよ。
でも、なんだか、そのように聞こえますわ。
いや。。。それは極めて一般的なことなのですよ。 かつて太田老人も次のように書いていたのですよ。
音楽は、世界共通の言語か?
音楽は、けっして、世界共通の言語などではない。
異なる時代にも亘る言語ですらなかった。
それでは、ヨーロッパ音楽の伝統とは、そもそも、いったい何であったのだろうか。
小澤征爾が言っていたことであるが、彼が若い頃、東洋人がヨーロッパの音楽をする意味、可能性について問われたとき
(そういうことを聞く田舎者が
世界のどこにもいるものである。)、
音楽は、世界の共通の言語であるからと、
(当たり障り無く)返事をしていたところが、近頃では、
何か自分が壮大な実験をしているのではないか、と思うようになってきたそうである。
壮大な実験、これは、彼だけのことではないであろう。
ようやく我々が西洋音楽を扱うことに関して
欧米(を超える)水準に達した今日の、この倦怠は何であろう。
かといっても、我々が邦楽に戻るなどとは、
一般的にいって、非現実的であり、できない相談である。
バスク語を話せ、と言われた方が、まだしも抵抗が少ないのではないか。
(中略)
いつだったか、小澤征爾と H.V.Karajanの指揮する M.Ravel の “Bolero” を聞き比べたことがあった。
小澤の演奏は、英語で言う too square であったが、Karajanのそれは、なんとも sexyで妖艶ですらあった。
フランス人でもないのに。
やはり、小澤のような指揮者でさえ日本人では及びがたいところが今なおある。
(中略)
わたしは、何々至上主義、といったものが嫌いである。
例えば、恋愛至上主義。
大体、恋愛感情などというものは、ある年頃の男女が肉体に触発された心理現象にすぎないのではないか。
そもそも、成熟した夫婦が、夫婦であるのにもかかわらずに仲が良い、などというのは、どこか異常ではないか。
長い間、生活を共にしていて、まだ互いにsexualityを感じたとしたならば、それは近親相姦に近くはないか。
J.S.Bach は、
前妻、後妻と共に仲が良かった様子であるので、
私はここを書いていて、少し、困っているが。
芸術至上主義も同じ。
人生は芸術を演出する時空ではない。
(注: イラストはデンマンが貼り付けました。
改行を加えて読みやすくしてあります。)
pages 5 & 6
『間奏曲集 (主題なき変奏) その2』
著者: 太田将宏
初版: 1994年1月 改定: 2006年6月
『デンマンと音楽』に掲載
(2011年1月8日)
J.S.Bach のようなごく一部の夫婦を除いて夫婦の関係は新婚の頃の熱々な情熱は冷めてくるのですよ。 つまり、空気のような関係になってくるということですよ。
要するに、夫婦というのはそのようなものだとデンマンさんも考えているのですか?
だってぇ、そうでしょう! 40代、50代の成熟した夫婦が20代の新婚のカップルのようにベタベタ、ルンルン気分でスキップしながらキスしていたら、ちょっと滑稽ではありませんか!?
まさか、それほどアツアツにはならないでしょうけれど、世の中には40代、50代になっても仲の良い夫婦はいるものですわ。
でもねぇ、外から見るのと内から見るのでは大違いなのですよ。
その根拠でもあるのですか?
ありますよ。 ジューンさんが次のように書いていました。
(すぐ下のページへ続く)