ありがとうさん(PART 1)
画映田蒲
社会式株マネキ竹松
作成康端川
んさうたがり有
化画映宏水清
主演: 上原謙
黒襟の女: 桑野通子
売られゆく女: 築地まゆみ
その母親: 二葉かほる
1936年 制作
デンマンさん。。。出演者以外はすべて右から左へと書いてますわね。 どうしてですか?
あのねぇ、たまたま夕べ、バンクーバー図書館から借りてきたDVDを観たのですよ。
それが上の日本映画だったのですか?
その通りですよ。 まさに上のように右から左へと書いてあったのですよ。
そういえば、私の子供の頃には館林でもお店の看板に右から左へ書いてあるものがありましたわ。
マジで。。。? 小百合さんは1965年生まれでしょう? 僕はそれ以前に生まれているけれど、行田では「右書き」の看板は見かけたことがありませんよ。
よ〜く探せば今でもありますわよ。 デンマンさんが気づいてないだけですわ。
そうかなァ〜?
それにしても1936年に作られた映画がDVDになってバンクーバー図書館にあるのですか?
もちろんですよ。 だから、僕は借りて観ることができたのですよ。 おそらく日本では、めったに観ることができないのでは。。。?
無声映画ですか?
いや。。。トーキーですよ。 日本映画界が本格的にトーキー時代を迎えたのが1936年だったそうです。 この年に清水監督が『有りがたうさん』を発表したのですよ。
どのような内容なのですか?
伊豆の街道を昔のボンネット型の乗り合いバスで走りながら、その中の乗客のやり取り、乗客と“有りがとうさん”と呼ばれている運転手とのやり取り、バスが通る道筋の人々と運転手さんのやり取りなどを全編ロケーションで撮った映画ですよ。
運転手さんがどうして“有りがとうさん”と呼ばれているのですか?
この当時の伊豆の街道は舗装されてなくて、しかも狭い道なのですよ。 だから、人が歩いていたり対向車が来たりすると道を譲ってもらわなければならない。 そのたびに、この運転手さんが「有りがとう、有りがとう」と叫ぶので、土地の人々から“有りがとうさん”と呼ばれるのですよ。
デンマンさんは、なぜこの映画を観る気になったのですか?
たまたま図書館の棚に、このDVDを見かけたのですよ。 すべて英語で書いてあるのだけれど、説明を読んでみたら面白そうなので観る気になったのです。
デンマンさんは題名や映画監督の名前を知っていたのですか?
いや、全く知らなかった。 でもねぇ、調べてみたら清水監督は『小原庄助さん』という映画を1949年に作っていたのですよ。 僕は監督の名前を知らずに、ずっと後になって、この映画を観ていた。
『小原庄助さん』という映画はそれほど有名だったのですか?
いや、映画よりも「小原庄助さん」の名前が有名でしょう!?
小原庄助さん、
何で身上(しんしょう)つ〜♪〜ぶした?
朝寝、朝酒、朝湯が大好きで、
それで身上つ〜♪〜ぶした。
小百合さんだってこの歌を知っているでしょう?
確かに聞いたことがありますわ。
1922年に清水さんは蒲田撮影所に入社した。 その翌年に、あの有名な小津安二郎さんが松竹に入社し、清水さんと小津さんは終生の親友となったというのですよ。 先輩の助監督に成瀬巳喜男さんがいた。 それなのに、なぜか清水監督の影が薄いのですよね。 僕も知らなかったのだから。。。
没後も一定の評価はあったが、忘れられた過去の巨匠の側面が強かった。
例えば、俳優の笠智衆は、自著で「僕は、清水監督の作品が実に好きで、自分が出してもらったのを含め、いいシャシンがいっぱいあったと思います。
小津先生の作品は、いろんな人があれこれ言いますが、清水オヤジのシャシンをきちんと評価する人がいないのが不思議でなりません。」
(「先生の親友・清水オヤジ」『大船日記 小津安二郎先生の思い出』扶桑社、1991年)と述べていた。
1990年代前半に松竹から清水宏作品のビデオが発売され、90年代半ば頃から松竹時代を中心に清水宏の再評価の機運が高まった。
その後、2003年、第4回東京フィルメックス国際映画祭において特集上映企画「清水宏 生誕100年」(東京国立近代美術館フィルムセンター共催)が開催され、『港の日本娘』など10作品が上映。清水宏作品の『簪』が同映画祭の観客賞を受賞した。
また、2004年には、第54回ベルリン国際映画祭のフォーラム部門で「清水宏監督特集」、第28回香港国際映画祭でレトロスペクティヴ「清水宏101年記念展」が開催された。
同時期に活躍した小津安二郎や溝口健二と比べると現在でも知名度は不当に低いが、2007年、代表作の一つである『按摩と女』が、草?剛主演、石井克人監督でカヴァー作品『山のあなた〜徳市の恋〜』として製作されることが発表、2008年に東宝系列で公開された。
出典: 清水宏 (映画監督)
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
でも、知る人は知っているのでしょうね。
そうです。 だから、バンクーバー図書館にも清水監督の作品がDVDになって貸し出されているのだから。。。だけど一般的には小津さんや成瀬さんと比べると清水監督のカナダでの知名度は低いですよ。
なぜですか?
あのねぇ〜、「有りがたうさん」は「実写的精神」と呼ばれ、当時、絶賛を浴びたらしい。 つまり、全編ロケで撮っている。 要するに、自然の情景の中で、わざとらしいセリフ、演技、演出を除いて清水監督は撮影するのですよ。 「役者なんかものをいう小道具」だと監督は言っていたらしい。
役者の芝居くささを嫌ったのですか?
そうらしいですよ。 伊豆を中心に自然な情景を好んだようです。 だから、役者の演技で感心させるような映画にはならなかった。 それで、映画評論家の受けもよくなかったのじゃないか? 僕はそう思うのですよ。
。。。で、「有りがたうさん」はつまらなかったのですか?
いや、面白かったですよ。 面白くなければ僕はこの記事で取り上げなかったですよ。
どんな所が面白かったのですか?
もし1936年当時に見ていたとしたら、あまり面白くもない映画だったかもしれないけれど、75年後の現在観ると、失われた風景と失われた人情がバスの中と外にあるのが観ていて懐かしかったですよ。
失われた風景というのは判るような気がしますけれど、失われた人情ってどのようなものですか?
途中で結婚式に出席する夫婦が乗ってくるのですよ。 それから間もなくして、今度は「お通夜(つや)」に出席する男が乗ってくる。 そうすると結婚式に出席する夫婦が「結婚式に出席するのに、通夜に出席する人とバスで一緒に行くのでは、縁起がよくないから、ここで降ろしてもらって歩いてゆこう」と言って降りてしまう。 現在ならば、そのような事を考える人はいないでしょうね。
そうでしょうか?
だってぇ、山手線を考えてくださいよ。 そのような事を考えたら電車で結婚式には行けなくなってしまいますよ。
それもそうですわね。 (微笑) でも、山手線の中で、乗客がそのような話をしませんわ。
さらに、その続きがあって、通夜に行く男は、夫婦が降りて歩いてゆくのを見て、「オラが乗ってきたために、あの夫婦を降ろして歩かせてしまって申し訳が立たない。 オラもここで降りて歩いてゆくことにするべ」と言ってバスから降りて歩き出すのですよ。
確かに、そういう人も今は居ないでしょうね。(微笑)
当時は昭和の不景気の時代で、東京へ娘を身売りにだす母親と、その娘がバスの最後部に座っているのですよ。
この上の写真の後ろ座席に座っているのがその娘と母親なのですか?
そうです。 待合所の茶屋で、身の上話を聞いて同情した親切なおばあさんが「バスの中で食べなさいな」と言って箱に入った羊羹を渡す。 バスが峠を越した頃に、その羊羹を母親が他の乗客の人たちに「おすそ分け」に一つづつ上げるのです。
団体旅行の観光バスの中ならばともかく、普通の乗り合いバスの中でそのような事をする人は現在では、もう見かけませんよ。
そうですわね。
それで僕は思い出したことがあるのですよ。
何をですか?
同じような情景を僕は韓国へ行った時に見かけたのですよ。。。と言うよりも体験したのです。
いつ頃のことですか?
確か、1990年頃だと思います。
韓国のどちらへ行ったのですか?
バンクーバーから行田へ帰省したついでに九州旅行を思いつき出かけたのですよ。 でもねぇ、途中で気が変わって下関からフェリーで釜山へ行ったのです。
どうして九州旅行が釜山旅行になったのですか?
あのねぇ〜、新幹線の中で、たまたま歴史の本を読んでいた。 ちょうど「文禄・慶長の役」の話に興味を覚えたのですよ。
どのようなお話ですか?
普州城(チンジュソン)の戦いの時のエピソードなのですよ。
普州城の戦い
晋州城攻防戦は、文禄の役における2回の攻城戦。
朝鮮半島の晋州城、現在の晋州市)を守る朝鮮軍を日本軍が攻撃、文禄元年(1592年)10月4日から10日までの第一次晋州城攻防戦では朝鮮軍が守りきり、文禄2年(1593年)6月21日から29日までの第二次晋州城攻防戦では日本軍が攻城に成功した。
攻防戦の背景
開戦以来、快進撃を続けた日本軍は有効な朝鮮軍の抵抗をほとんど受けないまま約2ヶ月で平壌・咸興などまで急進撃をした。
漢城(ソウル)を起点に朝鮮各地へ展開していた日本軍であったが、慶尚道の釜山から漢城を結ぶ三路の後方基幹ルートの確保や全羅道方面に至る西進作戦には積極的でなく、朝鮮軍が活発に後方攻撃を繰り返すにつれて連絡路がしばしば遮断されることがあった。
このため漢城方面への補給が滞り、補給路の安全確保のために朝鮮軍の策源地と見られていた晋州城を攻略する必要が生じた。
それ以前の晋州城は釜山から漢城へのルートから外れていたため大規模な侵攻を受けていなかった。
また朝鮮では晋州城と平壌城が堅城との評価を受けていた。
第一次攻防戦
10月4日、咸安を経由して到着した日本軍の晋州城包囲が始まり6日より攻撃が始まった。
晋州城では金時敏を中心に昆陽県監・李光若らが指揮する約3800人の兵士に加え、多くの避難民が城内で防戦に努めた。
また城外では郭再祐の配下などの慶州道義兵約1200が日本軍の背後を攻撃し、7日の夜からは崔慶会・任啓英などの全羅道義兵約2500が到着して城外で遊撃戦を行った。
日本軍は一時攻城を中断して遊撃軍を牽制し、10日朝より攻撃を再開したが晋州城は容易に攻略できないと判断し、長期戦を厭って退却した。
第一次攻防戦における日本・朝鮮両軍の編成
細川忠興 3500人
長谷川秀一 5000人
木村重茲 3500人
新庄直定 300人
糟屋武則 200人
太田一吉 160人
等 総勢20000人
朝鮮軍
晋州城守備軍 3800人
第二次攻防戦
秀吉は約9万の晋州城攻略軍を編成し、前回の教訓から攻城正面は宇喜多秀家、加藤清正、小西行長などに担当させ、毛利秀元、小早川隆景を城外の遊撃対応の担当にした。
攻城戦前、晋州城東北方の星州一帶に明将劉綎は数万の明、朝鮮援軍を集結、その対応のため、第六軍の立花宗茂と小早川秀包とともに兵4千で星州へ行ったが、6月13日、劉綎配下の琳虎というの武将が明、朝鮮軍4万を率いて晋州城の西南の河東郡へ進軍、立花と小早川軍は転進して撃退している。
この戦闘については『懲?録』では明軍は朝鮮の救援要請に対して、動かなかったとあるので疑問がある。
対する守城側では意見がまとまらず、籠城を主張する倡義使・金千鎰(義兵)に対し、明軍は晋州城防衛に不同意であり、朝鮮軍でも方針は分裂し西人派は籠城を主張し東人派は消極的だった。
最終的に晋州城内へ集結した兵力は朝鮮軍約7000と避難民だけであった。
6月14日、日本軍は昌原より進撃を開始し、咸安を経由して宜寧に集結していた平安巡辺使・李賓(正字は草冠に賓)、全羅巡察使・権慄、全羅兵使・宣居怡などの朝鮮軍を敗走させた。
21日に日本軍は晋州城を包囲すると、攻城用の高櫓を作り、濠の水を南江に落とす土木工事を始める。
22日から本格的な攻城戦が始まり、以後城内は猛攻にさらされる。
東面からは加藤清正ら一番隊が、北面からは小西行長ら二番隊が、西面からは宇喜多秀家ら三番隊が攻撃し、毛利秀元の四番隊と小早川隆景らの五番隊は周囲の山に陣取り、城外からの遊撃部隊による襲撃を警戒した。
27日には宇喜多秀家が降伏勧告を行ったが朝鮮軍には容れられず、29日には亀甲車を用いて城壁を突き崩すと、黒田長政配下の後藤基次や加藤清正配下の森本一久らが先を争って突入し晋州城を攻略した。
軍民を巻き込んで落城した晋州城では倡義使・金千鎰、その子・象乾、慶尚右兵使・崔慶会、忠清兵使・黄進、晋州府使・徐礼元、義兵将・高従厚、金海府使・李宗仁、巨済県令・金俊民などの武将が戦死した。
晋州城攻略後の動向
晋州城を攻略した日本軍は直ちに全羅道へ進撃し、7月5日には求礼、7日には谷城へ進出し、明軍及び朝鮮軍を撃破した。しかし、南原の守りが堅いと見ると9日には晋州城へ撤退した。
この攻略戦以後、日本軍は和平交渉中の在陣のために朝鮮半島南岸に拠点となる城の築城を開始したが晋州城は守備範囲外とされ撤退時に破却された。
第二次攻防戦における日本・朝鮮両軍の編成
日本軍 92972人
第一隊 黒田長政・加藤清正・島津義弘・鍋島直茂等 25624人
第二隊 小西行長・細川忠興・宗義智等 26182人
第三隊 宇喜多秀家・石田三成等 18822人
第四隊 毛利秀元 13600人
第五隊 小早川隆景・立花宗茂等 8744人
朝鮮軍
晋州城守備兵 約7000人
出典: 「普州城の戦い」
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「文禄の役」に、こういう2回の激しい戦闘があった。
。。。で、デンマンさんを九州旅行から韓国旅行へと駆り立てたという歴史エピソードとは、どのようなものなのですか?
あのねぇ、第2回目の攻防戦で日本軍は勝った。 それで加藤清正をはじめとして武将やその家来が祝宴を開いたのですよ。 当然のことながら武将たちを喜ばせるために妓生(キーセン)がたくさん集められた。 その中に朱論介(チュ・ノンゲ)と呼ばれる女性がいたのですよ。
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