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また、かぐや姫?(PART 1)

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また、かぐや姫?(PART 1)

 
 


めれちゃん。。。今日もかぐや姫のことについて話したいんか?

『かぐや姫異聞』

(2011年11月19日)



デンマンさん。。。あんさんは、すぐ上にリンクを貼りはった『かぐや姫異聞』を書きましたけど、わたし、ちょっと気になる事があるねん。

ん。。。? 気になる事。。。? それってぇ、いったい何やねん?

あんさんは「竹取物語」を書いたんは紀貫之よりも大伴家持の方だと言いましたな?

そうやァ。 その事が気になるのんか?

そやかてぇ、ウィキペディアを見たら次のように書いてありましたでぇ〜。。。




「竹取物語」は成立年は明らかになっていない。
原本は現存せず、写本は室町時代初期の後光厳天皇の筆と伝えられる「竹取物語断簡」が最古といわれ、完本では安土桃山時代の天正20年(1592年)の奥付を有する「武藤本」が最古といわれる。

しかし、10世紀の『大和物語』、『うつほ物語』や11世紀の『栄花物語』、『狭衣物語』などに『竹取物語』への言及が見られ、また『源氏物語』「絵合」巻に「物語の出で来はじめの祖なる竹取の翁」とあることから、遅くとも10世紀半ばまでに成立したと考えられている。

通説は、平安時代前期の貞観年間 - 延喜年間、特に890年代後半に書かれたとする。

作者についても不詳である。
作者像として、当時の推定識字率から庶民は考えづらく、上流階級に属しており、貴族の情報が入手できる平安京近隣に居住し、物語に反体制的要素が認められることから、当時権力を握っていた藤原氏の係累ではなく、漢学・仏教・民間伝承に精通し、仮名文字を操ることができ、和歌の才能もあり、貴重であった紙の入手も可能な人物で、性別は男性だったのではないかと推定されている。
以上をふまえ、源順、源融、遍昭、紀貫之、紀長谷雄など数多くの説が唱えられているが、いずれも決め手に欠けるのが現状である。



最近の研究では作者は紀貫之である可能性が高く、文才があり時代的にも合い、藤原氏に恨みを持つ要因を持っているゆえに有力視されている。
紀氏は応天門の変(貞観8年、866年)により平安時代初期に一躍頭角を現したが藤原氏の謀略により失脚し、以後政界から遠ざかり文人の道へと進んだ経緯があり、それがゆえに藤原氏に対して恨みを持っていた可能性は否定できない。



出典: 「竹取物語」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




通説では、延喜年間、特に890年代後半に書かれたと書いてありますやん。



そうやなァ。

そうやなァじゃありませんがなァ。。。調べたら大伴家持は718年に生まれ、785年に亡くなっておりますねん。 つまり、「竹取物語」が890年代後半に書かれたとする通説に従えば、大伴家持は物語が書かれた100年以上も前にあの世へ逝ってしもうてますねん。

そうやなァ。

あんさんは他人事のように言うてますけど、890年代に「竹取物語」が書かれたとするならば、大伴家持には書けへんかったという事ですう。

そやから、「竹取物語」が890年代に書かれたという仮説が間違っておるねん。

そやけど、ウィキペディアには「竹取物語」が890年代に書かれたと書いてありますやん。

ウィキペディアに書いてあるからといって、それが絶対真理ではあらへん。 しかもウィキペディアにも「竹取物語は成立年は明らかになっていない。。。作者についても不詳である」と書いてあるやん。 つまり、890年代に「竹取物語」が書かれたとするのは、あくまでも仮説なのやでぇ〜。。。

そやかてぇ、それが通説で通っているという事ですやん。

そやから、その通説が間違っておるねん。

わたしは、あんさんの方が間違っていると思いますねん。 なぜならば、「竹取物語」に登場する5人の貴公子のモデルは、大伴家持が亡くなった時には、まだ生まれてなかったと思いますねん。

いや。。。そのように決め付けるのは、めれちゃんがよう調べてないからやァ。

つまり、5人の貴公子のモデルは、大伴家持が亡くなる以前に存在していたと、あんさんは言わはるのォ〜?

もちろんやァ。。。5人のうち、阿倍御主人、大伴御行、石上麻呂は実在の人物で、車持皇子のモデルは藤原不比等、石作皇子のモデルは多治比嶋だと推定できるのやァ。 この5人はいずれも壬申の乱の功臣で天武天皇・持統天皇に仕えた人物やァ。 天武天皇が亡くなったのが686年。 持統天皇が亡くなったのが703年。 つまり、5人とも持統天皇が亡くなる以前に存在していたということやがなァ。 大伴家持が亡くなったのが785年やさかいに、この5人をモデルに大伴家持が「竹取物語」を書いたという、わての仮説も、そやから十分に成り立つわけや。 めれちゃんにも、わての言う事が分かるやろう?

確かに、そのように言われてみれば可能性が全く無いわけでもないねんなァ。

そうやろう? わての仮説も十分に成り立つねん。

そやけど紀貫之さんは『土佐日記』というひらがなの日記を書きはったのやでぇ〜。。。





女文字と言われていた平仮名の日記を書いたことがあるので紀貫之が「竹取物語」も書いたと、めれちゃんは言うのんか?



そやかて「竹取物語」もひらがなで書いてありますのやでぇ〜。。。





よ〜く見ておくれましな。 この上の「竹取物語」の一部と、その上の「土佐日記」のコピーは、よう似てますやろう?



あのなァ〜、平仮名で書いてあるさかいに似てるのやでぇ〜。。。平仮名で書いてあるという事だけで紀貫之が「竹取物語」を書いたと言うのは飛躍のしすぎやでぇ〜。

そやけど、ひらがなは平安時代になってから流行したので、大伴家持さんの時代よりも紀貫之さんの時代の方が相応(ふさわ)しいねん。

いや、そうではあらへん。 調べてみると、仮名はもっと前から実際に使われていたのや。 奈良時代の末ごろ、仏教の経典を講読する僧侶の間で、経典の行間に漢字の意味や音をある種の表音文字でもって書き加える例が見られるのやァ。 この文字は漢字の一部や画数の少ない漢字などから作られ、要するに借字である漢字の形を変えたものやねん。 これが現在の片仮名の源流になってるねん。 都が平城京から平安京に遷される794年頃に、現在の平仮名の源流となるものが現れたという事になってる。

つまり、大伴家持さんが生きている頃にも平仮名が使われていたと、あんさんは言わはるのォ〜?

そうやァ。 家持さんが亡くなったのは785年やさかいに、ひらがなが使われ始めた頃とさほどのずれはないねん。 つまり、家持さんがひらがなで「竹取物語」を書いたとしても、ちっとも不思議ではあらへん。

そやけど、ウィキペディアには次のようにも書いてありましたでぇ〜。。。


最近の研究では作者は紀貫之である可能性が高く、文才があり時代的にも合い、藤原氏に恨みを持つ要因を持っているゆえに有力視されている。
紀氏は応天門の変(貞観8年、866年)により平安時代初期に一躍頭角を現したが藤原氏の謀略により失脚し、以後政界から遠ざかり文人の道へと進んだ経緯があり、それがゆえに藤原氏に対して恨みを持っていた可能性は否定できない。


あのなァ〜、めれちゃん、わてがすでに言ったように藤原氏に対する怨念ならば、紀貫之よりも家持さんの方がよっぽど強烈な怨念を持っていたのやでぇ〜。

マジかいな?

確かに、紀氏は「応天門の変(貞観8年、866年)」により藤原氏の謀略で失脚してしもうたァ。 以後、政界から遠ざかって紀氏は文人の道へと進んだのやがなァ。

あんさんも、そう思うてるん?

そうやァ。 そやけどなァ、前にも言うたとおり、家持さんは『万葉集』の中でも政治批判をしておるねん。



『万葉集は政治批判の書か?』

(万葉集の謎と山上憶良)

【2006年7月1日】



つまり、大伴家持は藤原氏に紀貫之以上に恨みを持っていると、あんさんは言わはるのォ〜?



もちろんやァ! 大伴家持は天平宝字元年(757年)に発生した橘奈良麻呂の乱には参加しなかったものの、藤原良継・石上宅嗣・佐伯今毛人の3人と藤原仲麻呂暗殺計画を立案したと藤原氏から睨まれた事があるねん。 暗殺計画は未遂に終わり、天平宝字7年(763年)に家持を含めて4人は逮捕されてしまう。

それど、どうなったん?

藤原良継一人が責任を負ったことから、家持は罪に問われなかったのや。 そやけど、翌年、薩摩守への転任と言う報復人事を受けてしもうた。

それで大伴家持は藤原氏に恨みを持ちはったん?

そうや。。。そればかりではあらへん。 桓武天皇の時代、つまり天応2年(782年)正月には氷上川継の乱への関与を疑われてしもうたのやァ。

それで、どうなったん?

一時的に解官されて都を追放されてしもうた。 でもなァ、同年4月には罪を赦され参議に復帰したのやァ。 3年後(延暦4年8月28日)に家持は亡くなってしまうねん。 そやけど災難は死亡後にもやってきた。

どないな災難やのォ〜?

家持が亡くなってまもなく、9月23日の夜に藤原種継暗殺事件が起きたのや。 造営中の長岡京で発生、家持も関与していたと疑われてしもうた。 そのため、家持の死体の埋葬も許されぬままに除名されてしもうた。 子供の大伴永主も隠岐国に配流になってしもうたのや。 家持は大同3年(806年)に、死後20年近くたってから一応、罪を赦されて従三位に復帰したけど、これだけの事件を見ても家持が政治家として藤原氏に対する反骨精神を持っていたことがよう判るねん。 そうでもなければ、藤原氏に、これほどまでに事件の関与を疑われることはなかったのやァ。

つまり、文学の書だと思わせながら大伴家持は『万葉集』にも『竹取物語』にも藤原氏の批判を込めたと、あんさんは言わはるのォ〜?

その通りやァ。 中国の歴史を見ても文学は政治とは切っても切れないものなんやァ。 しかも決定的な理由がある。

それってぇ、何やのォ〜?

あのなァ〜、竹取物語の中に出てくる5人の貴公子のモデルは、いずれも壬申の乱の功臣で天武天皇・持統天皇に仕えた人物やねん。 そやから奈良時代初期が物語の舞台に設定されている。 つまり、紀貫之が生きていた時代よりも大伴家持が生きていた時代に近いねん。 要するに、「竹取物語」は家持さんが怨念を晴らすのは、この時とばかりに書いたものやねん。

 (すぐ下のページへ続く)


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