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実家の思い出(PART 3 OF 3)

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実家の思い出(PART 3 OF 3)



また、デンマンさんは古い記事を持ち出してきましたわねぇ〜。。。



確かに、かなり以前の記事だけれど、小百合さんが実家に帰りたくなる気持ちが分かりますよ。

そうですか?

父親と娘の間には、母親と息子、あるいは父親と息子とはちょっと違った絆があるように僕は感じるのですよ。

あらっ。。。どのように違うのですか?

小百合さんがお父さんを思う気持ちを読んでいると、小津安二郎監督の映画『晩春』を僕は思い出すのですよ。 




「エレクトラ・コンプレックスを描いて、あんなに美しい作品を見たことがない」
嘗て、私の戯曲を演出したフランスの劇団の重鎮ロジェ・ブランは私にそういった。
『晩春』のことである。 ロジェ・ブランの見方はまことに正しい。 表面的には自分が嫁ぐことで後に残る父を思いやる娘の話なのだが、原節子の表現力は娘の情を超え、女の情念の世界に迫っている。

叔母の杉村(春子)から原が見合いをすすめられるシーンがある。 会話の中に、叔母と交際のある未亡人の三宅邦子を、笠(智衆)の再婚相手にどうかとの話が出る。 原の表情が変わる。 変化のさまは到底娘のそれではない。 女そのものが吹き出てくる。

数日後、能楽堂で、笠、原、三宅が顔を合わす。 眼顔で会釈が交わされるだけなのだか、この場面では、なにも知らぬ微笑の三宅と嫉妬を必死に抑える原との間に、女の戦いとしかいいようのない火花が散る。 三宅が原の胸内に抱きかかえてしまったものを露気づかぬだけに、客には原の心根の切なさがかえって惻々と伝わる。

 (中略)

初老の男の再婚に生理的な嫌悪を示す。 嫌悪を自分が結婚しない理由の正当化に使う。 そして、父が再婚の意思を示したときには嫉妬を迸(ほとばし)らせる。 だが、同じ道の両側を歩かねばならない父娘であれば、男と女にはなれない。 不承不承ながら見合いの相手に嫁ぐことを決めた身に、残る問題は再婚する父の“男”への嫌悪感なのだ。



それが原の内部で本当に消えたのか。 消せる可能性を見つけることが出来たのか。 笑顔を天井に向けたままの原は、最早、自分には無関係なことにしなければならないと決意したと語ろうとするのか。 途中で切れてしまっているセンテンスからは推測のしようがない。

ただひとつ、確かなのは、原がその問題を超えたと笠に告げようとしていることだろう。 だが、笠はその問題には乗ってこない。 返事がない。 父の方を見る。 眠りに落ちた笠が静かに鼾をかいている。 そうト書きは指定する。
だが、笠は本当に眠っていたのだろうか。
原は父の鼾を本物と受け取ったのだろうか。
実は、笠には、原の科白に答える言葉がないのである。 彼には再婚する意思はない。 本心を語れば、漸く彼女が手にした決意が崩れる。 嫌悪感が嫉妬からくるものであることがわかっていても、父の口から娘にそれはいえない。 眠ったのか、眠ったと見せたのか、いずれにせよ笠は最上の方法をとった。

原の側からすれば、苦しみぬいた問題の解決を告げようとした言葉を、こともあろうに鼾で遮(さえぎ)られる。 眠ってしまった父なら情けない。 狸寝入りなら余りにも突き放し方が厳しく思える。
科白に発展はなくとも、ドラマは鮮やかに進行しているのである。
そして、そのあとに問題の数カットが来る。 父を横目で見たあと、原は天井に眼を戻す。 その顔には微笑が残っている。 長年つれそった妻が夫の心の動きを“ああ、いつもの。。。”と見定めたときの笑みというか。 諦めと、同時に存在する信頼と、それを超えて長年の間に二人の間に棲みついてしまった慣れと、総てが交じりあった女の微笑みなのである。



(注:写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました)



157 - 164ページ 『絢爛たる影絵 - 小津安二郎』
2003年3月6日 第1刷発行
著者: 高橋治
発行所: 株式会社 講談社




でも実際には、私と父の間には上のような状況はなかったのですわ。 つまり、父の再婚はありませんでした。 だから、父の再婚で私の気持ちが乱されたことなどありませんでしたわ。



分かってますよ。 僕が言いたいのは小百合さんとお父さんの心の絆が『晩春』の笠智衆と原節子を思い出させたのですよ。 小百合さんが佐野から館林にある実家の仏壇にお父さんの遺骨を迎えにゆき、それから榛名山の中腹のお墓まで行って納骨する。 このシーンなど、まるで映画のシーンを見るようですよ。




父はどんな風景を毎日をみていくのかな〜?
と思い、墓石のうしろにまわり正面をみました。
何もさまたげる物もなく180度いっぱい
大地と空だけでした。

大地なんておおげさで 普段使わない言葉です。
榛名山の裾のように広がる だだっ広い高原です。
子供達も「ここに納骨するの?」と寂しそうでした。

父の好きだった、ビールや どらやき りんご 赤飯
手ずくりしたクッキー、すはま(ピンクのもち)を備えて
しばらく一緒に冷たい風の中にいたのです。




この時、小百合さんが榛名山の中腹に立って、冷たい風の中でだだっ広い裾野を見渡している姿。。。僕はその時の小百合さんのイメージを年上の憧れの女性を慕うような少年の心で思い浮かべたものですよう。





あらっ。。。マジで私がデンマンさんのオツムの中に上のようなイメージで登場したのですか?



そうですよう。。。うしししし。。。

うしししじゃありませんわ。 デンマンさんは、何が何でも私のことになるとロマンチックにイメージしようとしているのですわ。

そういう訳ではありませんよ。 妄想している訳ではありません。 僕はこれまでの小百合さんのメールや投稿。。。それに、小百合さんと会って、いろいろと話したこと。。。そのような事を思い出しながら、“新盆”の意味を考えた時に、小百合さんの懐かしい姿が僕のオツムのスクリーンに映し出されたのですよう。

私のお墓参りのイメージですか?

あのねぇ、僕は“新盆”という意味が分からなかった。 だから、次のシーンは取り分け僕の興味を引かなかった。




雷の後 とても 気持ちの良い風が入ってきて、
そう 私が使っていた 2階の部屋はとても
風通しがいいのです。 

何だか 帰るのが おっくうになり
うたた寝 してしまい、
南の方で花火の音がしていたような、どこだろう?

朝方 下の台所で音が聞こえたけど だれもイナイ。
まだ 父と母が暮らしていて
私たちの為に おにぎりでも
作ってくれてる 錯覚をします。




でも、“新盆”の意味を調べて、改めて上の場面を読むと、映画になるような素晴しいシーンなのですよう。



そうでしょうか?

お父さんが亡くなって初めて迎えたお盆に、小百合さんは実家の自分が使っていた部屋に居るのですよう。 うたた寝している。 どこかで花火の音がしているようだ。 お父さんとお母さんがまだ元気だった頃の映像が心に浮かんでくる。。。どうですか?。。。小百合さんの優しい心。。。小百合さんの子供の頃の、ほのぼのとした両親との心の触れ合い。。。なんだか名画を見るような気持ちになりませんか?

なりませんわ。

やだなあああァ〜。。。少しはロマンチックになって夢見心地な表情を浮かべてくださいよゥ。

だから、そういうところが、デンマンさんは外見に似合わずロマンチストなのですわ。。。、私のように醒めた女になろうとした者にはちょっと白けるのですわ。


【卑弥子の独り言】



ですってぇ〜。。。
あなたにも分かるでしょう?
デンマンさんは何が何でもロマンチックにしてしまうような、そんなところがあるのですわ。
そのくせ、あたくしと一緒の時には全くその素振りを見せないのでござ〜♪〜ます。



『衝撃の角度』

上の記事でも分かるように、あたくしと一緒の時には醒めた男になろうとしているウザイ男を演じるのですわ。
一体これは、どう言う事なのでござ〜♪〜ましょうか?
いづれ、デンマンさんに突込みを入れたいと思いますう。

とにかく次回も面白くなりそうですわ。
だから、あなたも読みに戻ってきてくださいましね。
じゃあねぇ。






ィ〜ハァ〜♪〜!

メチャ面白い、

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こんにちは。ジューンです。

久しぶりに堀辰雄の『美しい村』を読みました。

今度、軽井沢へ行く機会があったら

ぜひ「ささやきの小径」を歩いてみたいと思います。



アカシアの花が印象的に残っています。

次の美しい描写が忘れられません。


あのサナトリウムの裏の生墻(いけがき)の前は何遍(なんべん)も行ったり来たりしたけれど、その方にばかり気を奪(と)られていた私は、其処から先きの、その生墻に代ってその川べりの道を縁(ふち)どりだしているアカシアの並木(なみき)には、ついぞ注意をしたことがなかった。ところが或る日のこと、サナトリウムの前まで来かかった時、私の行く手の小径(こみち)がひどく何時(いつ)もと変っているように見えた。私はちょっとの間、それから受けた異様な印象に戸惑(とまど)いした。私はそれまでアカシアの花をつけているところを見たことがなかったので、それが私の知らないうちにそんなにも沢山(たくさん)の花を一どに咲かしているからだとは容易に信じられなかったのであった。



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『美しい村』 (青空文庫) より


あなたも、軽井沢へ行ったら

『美しい村』を思い出しながら、

散策すると、また格別な味わいがあると思いますわ。

ところで、卑弥子さんが面白い記事をまとめました。

楽しいですから、ぜひ読んでみてくださいね。

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では、今日も一日楽しく愉快に

ネットサーフィンしましょうね。

じゃあね。





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