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聖徳太子のママ(PART 1 OF 3)

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聖徳太子のママ(PART 1 OF 3)


(persian02.gif)

聖徳太子の母親は

ペルシャ人だった?




案内役の卑弥子でーす。

あたくし今度はこんな格好で出てきてしまいました。
これは、もうずいぶんと時代が下るんですよ。
Ghajar王朝(1779−1921)の皇女の服装なんです。
これしかないーつんですよ。
あたくし、これじゃあイヤーだあー、って言ったんですけど、とにかくペルシャのプリンセスの格好だから、格調高いんだと言われて、その気になってしまったんです。
どうですか?似合っているでしょうか?

上の絵だって、ペルシャには違いないんですけど、女の人すっかり顔を隠しているでしょう?
これはイスラムですよね?
だから、これも時代錯誤だと思うんですけど。
聖徳太子の時代はまだイスラム化されていないはずなんです。
640年にアラブ人がやって来て、それからペルシャ(今のイラン)はイスラム化が始まったんですから。

あたくしが、もうちょっとこの時代に合ったものをページに載せたほうがいいんじゃないんですか?と言ったら、これでいいんだ、って言うんです。
なぜですか?と尋ねたら、普通、日本人がペルシャ人に対して持つイメージって上の絵のように顔を隠しているんだと、言うんです。
これじゃないと、どこの国の人だか見当がつかないからだ、って言うんですよ。

このページを見るくらいの人は教養が高くて、そのぐらいの事は分かっていますよ、って言ったら、あたくしが、案内役なんだから、適当に説明しておけーつんです。
そんなわけで、こうして今、弁解がましくゴタクを並べているわけです。
まあ、そういうわけですので、あまり堅苦しいことは抜きにして、わたくしと一緒に見てゆきましょう。


渡来人


聖徳太子とその時代を考えるとき、私たちは日本古代史の中で考えようとします。
昔の日本で起こったことを考えるのだから、それも当然のことのように思えます。
しかし、「日本」古代史の「日本」って一体何なのか?
については、あまり考えてみません。


そんなことは決まってるじゃないか、昔の日本の歴史だよ!
地図を開いてごらんよ。
その地図の日本の中で、昔起こったことが、つまり日本の古代史さ。


と、多分、上のような答えが返ってくるでしょう。
でも、ここで下の地図を見てみましょう。



上の地図には書き込んでありませんが、中国沿岸からも、またもっと遠く、ベトナムの方からも線が引かれているものと考えてください。
「ベトナムはちょっと遠すぎるんじゃないの?」と言われそうですが、決して遠くありません。
そのことについては、このページ (今、日本に住んでいる人は日本人でないの?) で説明しています。
クリックすると新しいページが開きます。読んでください。

要するに、この当時の国際関係を一言で言ってしまえば、渡来人が日本人であって、日本人が渡来人であった、というような時代です。
この頃は、原日本人、つまり、そのメイン・メンバーであるアイヌ人の人たちは、東北地方へ押しやられた形で生活しています。
794年に桓武天皇が、都を京都に移してから、本格的に、蝦夷征伐を始めますが、それまでは原日本人は日本史に登場していません。
古事記と日本書紀には神話時代の話に、「熊襲」などと呼ばれて登場している程度です。

古事記と日本書紀を編纂した人たちが、「これが新しい日本史だ」と言うのを、当時のアイヌ人が耳にしたとしたら、きっとこう言ったでしょう。




あんたがたよそ者が勝手にこの土地へやってきて、争いばかりしくさって、そのあげく日本史を作ったと?いいかげんにせんかい!
わしら、あんたらが来る何千年も前から、この土地に住んでおるんじゃ。
迷惑ばかりかけおって。。。
何が日本史だい。わしらが日本史じゃわい!


「アメリカ人」という言葉を聞くとき、私たちはすぐにマリリン・モンローだとか、ボブ・ホープ、クラーク・ゲーブル、エジソン、リンカーン、あるいは、ケネディー、ロックフェラー、マイケル・ジャクソン、マドンナ、などというような人の名前がすぐに口をついて出てきます。
それでは、聖徳太子が生きていた当時のアメリカ人は?と言われると、「アメリカ人はその頃いなかったんだ」と言いたくなります。
しかし、もちろん、アメリカ大陸にも我われと同じ人類が生活していました。
現在のアメリカ・インディアンの祖先の人たちです。
従って、聖徳太子が生きていた当時も、間違いなくアメリカ・インディアンの人たちがちゃんと生活していたのです。

それとちょうど同じことが「日本」についても言えます。
現在では、日本人と原日本人との区別がほとんどつきません。
おそらく日本人の95から99パーセントの血は渡来人から受け継いでいるだろうと思われます。
アイヌ人の事についてはこのページ (平和を愛したアイヌ人) で書いています。
興味のある方は読んでください。

今このページで問題にしようとする聖徳太子の時代と言うのは、アメリカ史にたとえれば、イギリスから清教徒の一団がメーフラワー号でアメリカ大陸に移住してから、やがて13州が独立宣言をして、一人立ちしてゆくという時代に当ると思います。
そのうち、押し寄せてくる移民が、西部へ西部へと進んでゆきます。
それと共に騎兵隊がインディアンたちを、もっと西へと追いやります。
これが、日本史では、平安遷都のあとの蝦夷討伐に当たりそうです。


渡来人が来るのは分かるが、

ペルシャは遠すぎるンじゃない?


確かにペルシャは日本から遠い国で、聖徳太子が生きていた時代に、彼らが、日本に住んでいたとは思えないかもしれません。
しかし、「遠い」と言うとき、私たちは、現在のイランと日本の距離を考えてしまいます。
そう考えると、確かにペルシャと日本は距離的にずいぶんと離れています。

しかし、ペルシャ人は何も、インド洋を越え、マラッカ海峡を通り、東シナ海を経て、はるばる日本へやってくる必要はなかったのです。
もちろん、飛行機でやってくる、なんて言うつもりはありません。
つまり、中国人や、半島人と同じルートで日本へやってきました。
その当時すでに、お隣の中国や、朝鮮半島にたくさんのペルシャ人が住んでいました。

少し時代が下りますが李白(701ー762)の詩に「少年行」があります。


少年行
 
 

 
 
五陵の年少、金市の東

銀鞍白馬、春風を渡(わた)る

落花(らっか)踏み尽くして、

何(いず)れの処(ところ)にか遊ぶ

笑って入る、

胡姫酒肆(こきしゅし)の中


盛り場を貴公子が春風の中、馬に乗って走っていく。
白馬に銀の飾りのついた豪華な鞍をつけている。
見るからに金持ちの貴公子です。
花びらを踏み散らしながらどこへ行くのかと李白が見ていたら、やがて胡姫酒肆の中へ入っていった。
酒肆というのは酒場のことです。
この詩の中に現れる胡姫という言葉に注目してください。
 
胡という字はもともとは異民族という意味で使っていたのですが、唐の時代になるとペルシャ人をさすようになります。
中国語では別に「波斯」と書いてペルシャのことをそう呼びます。
これはペルシャ語によるペルシャの発音「ファルシー」の音訳です。
「胡姫」というのは胡の姫、つまりペルシャ人の女の子です。
だから胡姫酒肆とくれば、もう決まっています。
エキゾチックな可愛いペルシャ娘がお酌をしてくれるキャバレーです。
ここで卑弥子さんに再び登場してもらいますが、この酒場にいた女の子は、こんな感じの踊り子だったかもしれません。



卑弥子でーす。

今度はこんな格好を

させられてしまいました。

とても恥ずかしいんですけど、

無理して笑っています。

ではペルシャのお姉さんに

踊ってもらいます。




ペルシャ人は一体

いつ中国へやって来たの?


もちろん、唐の時代になってからペルシャ人が中国にやって来たというわけではありません。
すでに秦の始皇帝の時代に中国に多数のペルシャ人がいたと言う記録が残されています。
秦の始皇帝は、最初に中国を統一した人物です。
彼が始めた群県制という国家制度はそれまでの封建制にかわる新たな制度、
つまり中央集権のシステムでした。

この群県制は、ペルシャのアケメネス朝で採られた制度に非常によく似ていると言われています。
各地の豪族をその地の王として認めていく封建制と全く違って、群県制では地方を治めるのは中央から派遣された官僚です。
これは同様の中央集権制度を秦以前に確立していたアケメネス朝の制度に酷似しています。
このことなどから秦朝を外来民族による政権とする説は意外にも中国の研究者の間に多いのです。
そのためでしょうか、どの歴史の教科書も、秦を漢民族の国家とは断定していません。語族分類表でも、
シナ・チベット語族からはずされています.

これだけペルシャのアケメネス朝の影響を受けているわけですから、もしかすると、始皇帝にはペルシャ人の血が混じっているかもしれません。
そう考える理由はまだ他にもあります。
始皇帝は赤い髪に青い眼、つまりコーカソイド(白人種)の特徴を備えていたと伝えられるからです。
肖像画に描かれている彼がいつもベールのような冠をかぶっているのは、この異相を隠すためだったと言う歴史研究家もいます。

事実、中国の史書のなかには、始皇帝が秦王室の血を正しく受け継いでいないということを述べているものもあります。
しかも秦は戦国の諸国家の中で、最も西にあった国です。
そういうわけで、チベットやペルシャなどの西域諸民族の血が流入しやすいことも確かです。
また中国ではローマ帝国のことを大秦国といいますが、これも秦が西方系であることを示しているとも考えられます。

始皇帝時代のペルシャといえば、ヘレニズム時代に、アルサケス朝パルティアが成立した時期です。
この国は中国の史書には安息国として登場します。
活発な交易活動により東方の国々にもその存在を良く知られていました.

当時のペルシャは、ソグド人やユダヤ人を多く抱える商業的な国家であり、その文化は商人となって活躍する彼らと共に、遠く東の国々へ伝わりました。
また秦の建国自体がアケメネス朝の滅亡時期と重なっており、秦それ自体が西方系国家だったとすれば、この混乱の時期に大挙して亡命してきたペルシャ人がその基盤となったことも十分に考えられるわけです。

また、秦は実利主義に徹していましたから、有能ならば外国人であろうとその国籍を問わずにどんどん重用しました。
事実、財務関係の官職にはたくさんのペルシャ人が就いて秦の財政に携わっていました。

このような秦の歴史を見れば、始皇帝がペルシャ人の血を受け継いでいないとしても、ペルシャ人が彼の回りに多数居て、政治、経済、通商、財政の面で手助けしていたと考えても先ず間違いありません。



『聖徳太子の母親はペルシャ人だった?』より
(2003年8月3日)



 (すぐ下のページへ続く)






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