トゥーランドットとかぐや姫 (PART 1)
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デンマンさん。。。 どういうわけで“トゥーランドットとかぐや姫”を取り上げるのですか?
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あのねぇ~、10月7日の土曜日に、“ジョージア・ストレイト(Georgia Straight)”という週刊の無料エンターテインメント情報紙を開いたのですよ。。。 そしたら次のページが目に入った。
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『拡大する』
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『電子版のページ』
真由美ちゃんも“ジョージア・ストレイト(Georgia Straight)”を読むことがありますか?
職場の休憩室のテーブルの上に広げてあることがあるので、コーヒーを飲みながら時々読みますわァ~。。。
上の記事は10月5日から12日の1週間の情報紙です。。。
上の写真は電子版ですよねぇ~。。。?
そうです。。。 情報紙の27ページを日本語に訳したので読んでみてください。
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ケベック州で活躍している ルノー・ドーセット(Renaud Doucet)が率いる新しいバンクーバーオペラ作品では、本当のトゥーランドットを探り出そうとしています。
トゥーランドットというタイトルを聞いて、まず思い浮かべるプリンセスのイメージは、求婚者の頭をバッサリと斬るのを好む 恐ろしい、氷のような冷たい女だということでしょう。
しかし、バンクーバー・オペラの新作「ジャコモ・プッチーニ」の大がかりな最終作では、アメリカのソプラノ歌手、アンバー・ワグナー(Amber Wagner)さんは、より多くの面を演じて見せます。
実績のあるケベックの監督、ルノー・ドーセットさんは、トゥーランドットの人間らしさを追い求めています。
リヒャルト・ワグナーの作品に出演した長年の経験を経て、ソプラノ歌手・アンバーさんは初めて記念碑的役割を演じることになるのですが、彼女は監督について次のように語っています。
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ルノー・ドーセットさんは観客が信じることができるような物語にすることに全力を尽くしています。
だから、この冷たい女を、観客が信じられるような女にするにはどうすればよいか?…と真剣に考えているわけです。
…と、リハーサル前の休憩で、アンバーさんは語りました。
ニューヨークタイムズ紙が「強力で陽気で豊かな表現力豊かな」と形容している彼女の声を傷つけないように、アンバーさんはバンクーバーオペラのオブライアン・センターで、紅茶をすすりながら、さらに続けます。
ルノー・ドーセット監督は、トゥーランドットを より人間的な女にするために、
階層的で多面的なバックストーリーを構築するのに最善を尽くしました。
オペラでは、古代の北京に設定されています。
強固な意思を持つ王女は 結婚したいと申し出る男たちに 3つの解けそうにもない難問を出します。
間違った答えを出せば、即刻、死が待ち構えています。
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しかし、アルゼンチンのテノール、マルセロ・プエンテが演じているカラフは彼女に恋してしまいます。
しかも、彼はすべての質問に答えてしまうのです。
ところが、トゥーランドットは、それでも彼との結婚を拒否するのでした。
それで、彼は王女に問題を出すのです。
問題が解けなかったら彼と結婚して欲しいと。。。、
赤と金の大掛りな背景と巨大なコーラスの中で、物語が進んでゆきます。
冷たい王女に いったい誰が人間らしい女を期待するだろうか?
男を殺害することだけに興味がある女に、幸せな結末があるだろうか?
ここで見られる壮大なセットは、最近演じられた、アトランタ・オペラのステージの一部と同じものです。
アンバーさんは、実際、トゥーランドットの人物に共感できるものを見つけたと言います。
彼女は語ります。
トゥーランドットは彼女が置かれている文化の中で周りの期待と戦っているわけです。
その文化では、女性は何よりも財産の一部としか見なされていません。
彼女は、このユニークで奇妙な状況の中に閉じ込められているわけです。
トゥーランドットが成長した世界に実際に私自身を置くことは無理だけれど、彼女が周りからの期待に抵抗する気持ちは十分に理解できます。
彼女はそういう期待に恐怖しているのです。
だから、冷たい仮面をかぶって悟られないようにしているのです。
監督もその事について話していました。
彼女は冷たい女を演じているけれど、それは殺されるよりも嫌われている方がまだマシだからだと…。
2010年にシカゴの歌劇劇場、ライアン・オペラ・センターを卒業した当時、アンバーさんは彼女の目指す芸術は、何よりも歌うことに尽きるという考えを持っていました。
でも、仕事を一緒にした何人かの監督の影響で、彼女の考え方は変わりました。
観客の皆さんが野球場のような騒ぎを望んでいるとは思いません。
それに、象徴的なアリアを歌いながら床を這い回ることを望んでもいないと思います。
アンバーさんは「トゥーランドット」がプッチーニのもっとも偉大な作品と見なしています。
「マダム・バタフライ」、さらには「ラ・ボエーム」よりも上をゆくかも…。
この「トゥーランドット」では、アンバーさんは特に集中的なリハーサル・プロセスに取り組んでいます。
監督は台本無しの稽古の前に、台本を見ながらの読み込みの稽古をたくさん課します。
アンバーさんが笑いながら付け加えます。
私たちの業界では台本を見ながらの稽古は、あまりしません。
私の経験では、リハーサルに来て、台本無しで稽古をするのが普通だわ。
トゥーランドットの役をこなすのは他のオペラの役と比べると極めて難しい。
ごく普通に演じようとしても難しいのです。
タイトル・キャラクターは、巨大なコーラスの勢いに負けてはならない、しかも、オープニング・アリアを上回るほどペースを上げ、さらに、パワフルなハイ・ノートに到達する必要がある。
前にも書いたように、アンバーさんは「トゥーランドット」がプッチーニのもっとも偉大な作品みなしています。
「マダム・バタフライ」、さらには「ラ・ボエーム」よりも上をゆくと思ってます。
こんな事言ったら殴られちゃうかもしれないけれど、プッチーニの作品に実はあまり感動したことってないのよ。
リヒャルト・ワーグナーの曲なら5時間はかけるわ。
私はドイツのオペラにハマっているのよ。
でも、この「トゥーランドット」は、とっても好きだわ。
なぜなら、プッチーニの思いが曲に込められていると思うの。
それに、このオペラのコーラスの使い方はすごいわ。
とても素敵な曲が幾つもあるのよ。
最後に、アンバーさんの最大の課題は、「トゥーランドット」の冷たいイメージを観客のオツムから払いのけることかも知れません。
次のように締めくくりました。
誰もが すでに自分の好きな役柄についての考えを持っているものよ。
でも、現在の私たちの戦いは、私たちの演技で観客の皆さんの先入観を覆(くつがえ)すことねぇ~。
バンクーバー・オペラは「トゥーランドット」をクイーン・エリザベス劇場で10月13日、15日、19日、21日に渡って公演します。
(デンマン訳)
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『Denman Blogで
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。。。で、これを読んで、デンマンさんは“かぐや姫”を思い出したのですか?
そうです。。。
でも。。。、でも。。。、かぐや姫は求婚する男たちが姫の求めるものを持って来なかったとしても殺したりしなかったじゃありませんかァ!
だから、その部分は違うけれど、求婚する男たちに難問を持ちかけるところなどそっくりですよ。
あらすじ (求婚の場)
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世間の男は、その貴賤を問わず皆どうにかしてかぐや姫と結婚したいと、噂に聞いては恋い慕い思い悩んだ。その姿を覗き見ようと竹取の翁の家の周りをうろつく公達は後を絶たず、彼らは翁の家の垣根にも門にも、
家の中にいる人でさえかぐや姫を容易に見られないのに、誰も彼もが夜も寝ず、闇夜に出でて穴をえぐり、覗き込むほど夢中になっていた。
そのような時から、女に求婚することを「よばひ」と言うようになった。
その内に、志の無い者は来なくなっていった。
最後に残ったのは色好みといわれる五人の公達で、彼らは諦めず夜昼となく通ってきた。
五人の公達は、石作皇子、車(庫)持皇子、右大臣阿倍御主人、大納言大伴御行、中納言石上麻呂といった。
これを見て翁がかぐや姫に「仏のように大切なわが子よ、変化の者とはいえ翁も七十となり今日とも明日とも知れない。この世の男女は結婚するもので、あなたも結婚のないままいらっしゃるわけにはいかない」と言うとかぐや姫は、
良くもない容姿で相手の深い心も知らずに結婚して、浮気でもされたら後悔するに違いないとし、
「世の畏れ多い方々であっても、深い志を知らないままに結婚できません。ほんのちょっとしたことです。『私の言う物を持って来ることが出来た人にお仕えいたしましょう』と彼らに伝えてください」と言った。
夜になると例の五人が集まって、或る者は笛を吹き、或る者は和歌を詠い、或る者は唱歌し、或る者は口笛を吹き、扇を鳴らしたりしていた。翁は公達を集めてかぐや姫の意思を伝えた。
その意思とは石作皇子には「仏の御石の鉢」、車持皇子には「蓬莱の玉の枝(根が銀、茎が金、実が真珠の木の枝)」、右大臣阿倍御主人には「火鼠の裘(かわごろも、焼いても燃えない布)」、
大納言大伴御行には「龍の首の珠」、中納言石上麻呂には「燕の産んだ子安貝」を持って来させるというものだった。どれも話にしか聞かない珍しい宝ばかりで、手に入れるのは困難だった。
石作皇子は大和国十市郡の山寺にあった只の鉢を持っていき嘘がばれたが、鉢を捨ててまた言い寄ったことから、思い嘆くことを「はぢを捨てる」と言うようになった。
車持皇子は玉の枝の偽物をわざわざ作ったがその報酬を支払われていない職人たちがやってきて偽物と発覚、長い年月姿が見えなかったことから「たまさがなる」と言うようになった。
阿倍は唐の商人から火鼠の皮衣を購入した。この衣は本来燃えぬはずであったが、姫が焼いてみると燃えたので贋作と分かり、阿倍に因んでやり遂げられないことを「あへなし」と言うようになった。
大伴は船で探索するが嵐に遭い、更に重病にかかり両目は二つの李のようになり、世間の人々が「大伴の大納言は、龍の首の珠を取りなさったのか」「いや、御目に二つ李のような珠をつけていらっしゃる」「ああたべがたい」と言ったことから、
理に合わないことを「あなたへがた」と言うようになった。
石上は大炊寮の大八洲という名の大釜が据えてある小屋の屋根に上って子安貝らしきものを掴んだが転落して腰を打ち、しかも掴んだのは燕の古い糞であり貝は無かったことから、期待外れのことを「かひなし」と言うようになった。
その後、中納言が気弱になり病床にあることを聞いたかぐや姫が「まつかひもない」と見舞いの歌を送ると中納言はかろうじて、かひはなくありけるものを、と返歌を書き息絶えた。
これを聞いてかぐや姫は少し気の毒に思ったことから、少し嬉しいことを「かひあり」(甲斐がある)と言うようになった。
結局、かぐや姫が出した難題をこなした者は誰一人としていなかった。
出典: 「竹取物語」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
。。。で、デンマンさんは「竹取物語」と「トゥーランドット」は、もともと同じ話が元になって枝分かれして できたお話だと思ったのですか?
そうです。。。
。。。で、その元になったお話しというのはどの昔話なのですか?
スフィンクスの話ですよ。。。
スフィンクス
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スフィンクス(Sphinx)は、エジプト神話やギリシア神話、メソポタミア神話などに登場する、ライオンの身体と人間の顔を持った神聖な存在あるいは怪物。また、猫のような姿をしている。
古典ギリシア語ではスピンクス(Σφίγξ, Sphinx)といい、スフィンクスとはこの英語読みである。
概要
古代エジプトにおける本来の名は不明だが、ギリシア語名は古代エジプト語シェセプ・アンク(szp 3nh, シェセプ=姿・形 アンク=再生・復活の神 「アンク神の像」の意)に由来するのではないかとする説がある。
ただしこの語は神あるいは王の像に対してのみ使われており、合成獣に使われた証拠はない。
スピンクスは女性名詞であり、中国語では「獅身人面像」または「獅身女面像」と訳される。
夏目漱石は『虞美人草』の中で「獅身女」という漢字に「スフーヒンクス」という熟字訓を当てた(漢字検定1級の問題集に「獅子女」という表記が見えるが典拠不明)。
永井荷風は『あめりか物語』の中では「怪像」に、『ふらんす物語』の中では「怪神」に熟字訓をあてている。
一方、ヘロドトスはエジプトの合成獣を描写する際にこの名詞を「Androsphinges」と男性化したが、これが男性スピンクスの唯一の例である。
また村井知至『社会主義』p14には「スヰンクス」という表現があり、明治・大正期には様々な表現が散見される。
本来はエジプト神話の生物であるが、非常に古くからギリシア神話にも取り入れられていた。
エジプトのスフィンクスは王家のシンボルで、ギザのピラミッドにある、いわゆるギザの大スフィンクスは王の偉大さを現す神聖な存在である。
対してメソポタミアやギリシャのスフィンクスは怪物として扱われていた。
古代ギリシア
ギリシア神話におけるスピンクスは、ライオンの身体、美しい人間の女性の顔と乳房のある胸、鷲の翼を持つ怪物(一部の絵画では尻尾が蛇になっている姿で表される事も)。
テューポーンあるいはオルトロスとキマイラあるいはエキドナとの娘。
一説によればテーバイ王ラーイオスの娘であり(アレクサンドリアのリュシマコス)、これによればオイディプースとは兄弟となる。
また、ウカレゴンの娘とする説もある(エウリピデス『フェニキアの女たち』26への古註)。
当初は子供をさらう怪物であり、また、戦いにおいての死を見守る存在であった。
高い知性を持っており、謎解きやゲームを好む。
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オイディプスの神話によれば、ヘーラーによってピキオン山に座し、テーバイの住人を苦しめていた。
旅人を捕らえて「朝は4本足、昼は2本足、夜は3本足。これは何か」という謎を出し、間違った者を食べていた。
なお、答えずに引き返すことは可能だった。
この謎はムーサに教わったとされている。
しかし、オイディプスに「人間は赤ん坊の時はハイハイで四つ足、成長して二足、老年で杖をつくから三足だ」と答えられ、岩の台座から飛び降り、海に身を投げて死んだという(アポロドロス、ヒュギヌスなど)。
またはオイディプスに退治されたともいわれる(ソポクレス『オイディプス王』、エウリピデス『フェニキアの女たち』)。
出典: 「スフィンクス」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
このオイディプスの神話のエピソードが広まって、謎や答えられそうにない質問を出して、求婚者を悩ます話になったのですよ。。。
でも、全くオイディプスの神話とは関係なく、独立して「竹取物語」と「トゥーランドット」の話ができたという事だって考えられるのではありませんか?
あのねぇ~、似たような話は他にも結構たくさんあるのですよ。。。 いろいろな所で、同じ話が独立してできたと考えるよりは、交易のついでに商人が話を伝えたという風に考えた方が納得できるのです。。。
交易のついでに商人が伝えたというような事は他にも例がるのですか?
ありますよ。。。 例えば聖徳太子は「厩戸王子」と言われているけれど、実は、キリストが厩で生まれたことと関係しているのです。。。
マジで。。。?
ここで話すと長くなるから次の記事を読んでみてねぇ~。。。
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『オルフェと聖徳太子』
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(すぐ下のページへ続く)