星空の記憶(PART 2 OF 4)
つまり、1歳のころの記憶も残るものだということを須田剋太(こくた)画伯のお話から改めてデンマンさんは確信したのですか?
そうなのですよ。
ただ、そのことを言うためにこの記事を書き始めたのですか?
もちろん、それだけではありません。
他にどのような理由があるのですか?
あのねぇ、須田画伯は僕の高校の先輩なのですよ。 もちろん、須田画伯が在学した当時は旧制の熊谷中学だった。
須田剋太(こくた)
(1906年5月1日 - 1990年7月14日)
当初具象画の世界で官展の特選を重ねたが、1949年以降抽象画へと進む。
力強い奔放なタッチが特徴。
司馬遼太郎の『街道をゆく』の挿絵を担当、また取材旅行にも同行した。
道元禅の世界を愛した。
略歴
•1906年
埼玉県北足立郡吹上町(現:鴻巣市)で、須田代五郎の三男として生まれる。
本名 勝三郎。
•1927年
埼玉県立熊谷中学校(旧制、現・埼玉県立熊谷高等学校)卒業。
その後浦和市(現:さいたま市)に住み、ゴッホと写楽に傾倒する。
東京美術学校(現東京芸大)を4度受験するもいずれも失敗。
独学で絵を学ぶ。
•1936年
文展で初入選。
•1939年
文展で「読書する男」が特選。
•1949年
抽象絵画の旗手長谷川三郎と出会い、国画会に入り抽象画の道へ進む。
•1950年
森田子龍編集の「書の美」に論文を発表する。以後「墨美」や墨人会同人との交流を通して書に深く傾倒。
•1955年
第3回日本抽象美術展に出品。
•1957年
第4回サンパウロ・ビエンナーレ国際美術展に出品。
•1960年
第1回個展(大阪フォルム画廊)。
•1961年
現代日本絵画展に出品。カーネギー国際現代絵画彫刻展(アメリカ)に出品。
•1962年
西宮市民文化賞を受賞
•1971年
司馬遼太郎に同行しながら、「街道をゆく」の挿絵を描き始める。
•1983年
「街道をゆく」の挿絵で第14回講談社出版文化賞を受賞。
•1990年
7月14日午後5時28分、兵庫県神戸市北区の社会保険中央病院にて84歳で死去。
•1990年
油彩画45点、グワッシュ320点、挿絵1858点の計2223点の作品を大阪府に寄贈。
(注: 写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました。
赤字はデンマンが強調)
出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
デンマンさんは須田画伯の絵にハマっているのですか?
いや。。。正直言うと須田さんの絵は僕の好みの絵じゃないのですよ。 だから、須田さんのどの絵を見ても特に感動したことはない。 ただ、須田さんの人間としての魅力を知るにつけ、須田さんの絵を改めて味わいのある絵だと思うようになりましたよ。 東京美術学校(現東京芸大)を4度受験して、いずれも失敗したのが分かります。 多くの人に認められるような絵じゃないと僕は思いますよ。
それなのに司馬遼太郎さんが「街道をゆく」の挿絵画家として15年も須田さんと仕事をしたというのはどうしてですか?
須田さんの人間としての魅力に司馬さんが惹かれたのだと僕は思います。
どういうところが。。。?
次の須田さんの小文を読むと分かりますよ。
司馬さんと旅して
須田剋太
「街道をゆく」の連載が「週刊朝日」で始まってもう14年、ずっと絵のほうを受け持ってきましたので、ずいぶん司馬さんとは取材旅行を御一緒しました。 司馬さんは最初から、事々しいことはよして、ありのままにぶつかりましょう、須田さん、トボトボ歩きましょう、とおっしゃって、この方針は一貫してつらぬかれてきたんじゃないでしょうか。
名のある人に会うわけではなく、タクシーの運転手さんやその辺のオバちゃんに話しを聞いたりして。。。
(中略)
九州へ行ったときのことでしたか、飛行機の中でスチュワーデスがおもちゃの飛行機を子供たちに配った。 私、それが欲しくて頼んだんですけれど、大人はいけません、といってスチュワーデスはツンツンしている。 これはお書きになってますね。 でも続きがあるんです。 司馬さんはそれを見てましてね、内緒で掛け合ってくれて、あとで、ハイッ、須田さん、ておもちゃを渡してくれたんです。 断られたときのあの須田さんの絶望的な顔! そして今のうれしそうな顔! って笑うんですけれど、いつもこういうやさしい心遣いをしてくれる人なんです。
大分私の方が年上なんですが、非常識なところがあって、助けられてばかりいるんです。 宇和島へ行ったときでしたかね。 司馬さんの友人のKさんが一緒だったんですが、私、Kさんがカメラを持ってらしたんで、あとで絵を描くために、あそこを撮ってくれ、こっちも撮って欲しいって、頼んでいたんです。
そのあと司馬さんにうんとたしなめられましてね。 Kさんはあなたの写真を撮るために来たんじゃないんですよ、須田さん、私はあなたのことをよく知っているからそうは思わないけれど、他の人にはずいぶんえらそうな人だと誤解されますよ、と。。。
私、どうもこういうことに気がつかなくて、親でも言ってくれないことを言ってくれて、本当にありがたいことだと感謝しました。
あの人は権力風をふかす人が身震いするほど大嫌いなんです。 人を愛すること、これだけですべてが成就する、と考えている人なんです。
(中略)
司馬さんと出会えたということは、私は本当にめぐまれていると思う。
道元に同事ヲ知ルトキ自他一如ナリ、という言葉がありますけれど、いっしょに仕事をしておりますと、心が深いところで響きあって、自他の区別がなくなる、そういう瞬間を、おこがましいけれど司馬さんにある時ふっと感じるんです。
司馬さんも、私がとにかく一所懸命に絵を描いていることだけは認めてくれているんだと思います。 そうでなくてはこんなに長く続かなかった、と考えているのですけれども。
(注: 写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました。
赤字はデンマンが強調)
110ページ
『別冊 太陽 日本のこころ - 130
司馬遼太郎』
2004年8月20日 初版第1刷発行
編集人: 湯原公浩
発行所: 株式会社 平凡社
なるほど。。。「断琴の交わり」なのですわね。
あれっ。。。小百合さんは粋(いき)な言葉を知ってますね。
デンマンさんがどこかで書いていましたわ。
そうです。 次の記事の中で書いたのですよ。
(すぐ下のページへ続く)