光明皇后の韓国(PART 1)
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大船に 真楫繁貫き この吾子を
韓国へ遣る 斎へ神たち
光明皇后 (万葉集 卷19−4240)
(読み: おおふねに まかじしじぬき このあこを
からくにへやる いわえかみたち)
意訳:
櫂(かい)をずらりと並べた偉容を誇る大船に、
親愛なる甥を遣唐使として唐へ遣わします。
そのような訳で、どうか神々の皆様、
この人に祝福をお与えください。
デンマンさん。。。どうして急に光明皇后の短歌などを持ち出してきたのですか?
あのねぇ〜、実は、僕はバンクーバー図書館から次の本とDVDを借りていたのですよ。
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それで先日、青枠で囲んだ本を読んだのです。
『失楽園』でござ〜♪〜ますか?
それはDVDですよ。 僕が読んだ本は青枠で囲んである『こんなに面白い奈良公園』という本ですよ。
笑えるのですか? うふふふふふ。。。
いや。。。卑弥子さんが大口を開けてゲラゲラ笑えるほど面白いという本ではないのです。 「面白い」というのは奈良公園についての興味深いことが書いてあるという意味なのですよ。
。。。んで、その本の中に上の短歌が出てくるのでござ〜♪〜ますか?
そうです。
上の短歌がデンマンさんにとっては改めてこの記事で取り上げるほどに興味深いのですか?
もちろんですよ。 そうでなければ卑弥子さんをわざわざ呼び出してまで、こうして話題にしようとは思いませんよ。
でも。。。、でも。。。、あたくしには、ちいっとも興味深いとは感じられないのでござ〜♪〜ますわ。
うん、うん、うん。。。解りますよ。 上の短歌だけを読んだのでは面白さが解らないかもしれません。 実は、光明皇后は、これから遣唐使船で唐に向けて出発する甥の藤原清河のために上の短歌を詠んだのですよ。 清河は、心優しい叔母が詠んでくれた短歌に感動して次の歌を返歌として叔母に贈ったのです。 その返歌を読んでみてください。
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春日野に 斎く三諸の 梅の花
栄えてあり待て 還り来るまで
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藤原清河 (万葉集 卷19−4241)
(読み: かすがのに いつくみもろの うめのはな
さかえてありまて かえりくるまで)
意訳:
梅の花咲く春日野の御蓋(みかさ)山の神々に
お願い申し上げます。
遣唐使として唐に赴くことになりました。
大役を果たして無事に大和に帰還できるようお守りください。
その間、大和の国がさらに栄えることをお祈り申し上げます。
卑弥子さん。。。上の短歌を読んでみて今度は感動することができましたか?
あのォ〜。。。こんな歌のやり取りを読んだだけでデンマンさんは感動してしまうのでござ〜♪〜ますか?
やだなあああァ〜。。。京都の女子大学で「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授だからこそ、僕はわざわざ呼び出して僕の話し相手になってもらったのですよ。 その卑弥子さんが「こんな歌のやり取りを読んだだけでデンマンさんは感動してしまうのでござ〜♪〜ますか?」はないでしょう! この記事を読んでいる人が卑弥子さんの無感動を目撃したら、卑弥子・女史が京都の女子大学で『源氏物語』を講義していることが信じられないと思いますよ。
だってぇ、あたくしには上の2つの短歌が、ちいっとも面白くないのですわ。
そんな事を言っては駄目ですよ! んもお〜〜! それでは、その辺でコスプレして遊んでいるミーちゃんハーちゃんと全く変わりがないじゃありませんか!
デンマンさんは、その辺でコスプレして遊んでいるミーちゃんハーちゃんを軽蔑しているのでござ〜♪〜ますか?
別に軽蔑しているわけじゃないけれど、僕が言いたいのはミーちゃんハーちゃんのことじゃない! 京都の女子大学で「日本文化と源氏物語」を講義している卑弥子さんが、上の2つの短歌を読んで無感動であることを問題にしているのですよ。
あのねぇ〜、デンマンさん! この記事を読んでくださる日本語が解る世界のネット市民の皆様だって、きっと、あたくしと同じような感想を持つのですわよ。 余計なことを言わないで、いったいどこがそれほど感動的なのか? 細木数子のようにズバリ!とおっしゃってくださいな!
解りました。 感動的な場面は、おいおい説明するとして、上の短歌を読んでまず興味を引かれるのは遣唐使で唐に向かう藤原清河を前にして光明皇后は「韓国へ遣る」と詠んでいる。 なぜ「唐国へ遣る」と詠まなかったのか? 卑弥子さんは不思議に思わなかったのですか?
思いませんわ。 だってぇ、「韓国」というのは「唐国」のことなのですわ。
あれっ。。。卑弥子さんは知っていたのですか?
源氏物語のような古典を勉強している学徒にとって「韓国」が「唐国」であることは常識でござ〜♪〜ますわ。
ほおォ〜。。。古典を研究している卑弥子さんは、その事に一度も疑問を持たずに、素直に受け入れていたのですか?
だってぇ、それは古典の常識なのでござ〜♪〜ますわ。
あのねぇ〜、昔の人は言ったのですよ。 「常識のウソ」とね。。。卑弥子さんだって聞いたことがあるでしょう?
でも、学会でも「韓国」が「唐国」であることは常識でござ〜♪〜ますわ。 それを、何でわざわざデンマンさんは「常識のウソ」を持ち出すのですか?
あのねぇ〜、あの有名なアインシュタイン先生は次のように言ったのですよ!
何でも疑ってみることが大切なのだよ!
あらっ。。。この面白い先生がマジでこのような事を言ったのでござ〜♪〜ますか?
マジですよ。 もし先生が「時間というものは決まっていて、長くも短くもならない」という常識を疑ってみなかったなら、アインシュタインの相対性理論は産み出されなかったのですよ。
解りましたわ。 つまり、「韓国」と「唐国」は同じじゃないとデンマンさんは言いたいのですか?
だってぇ、それが現在の常識なのですよ。 そうでしょう!? 現在、僕が「韓国」と言ったら、誰だって Korea のことだと思うのですよ。 China のことだとは思わない。 「唐国」と言ったら楊貴妃や玄宗皇帝が生きていた頃の中国だと思うのですよ。 21世紀の世の中では「韓国」と「唐国」は別の国だというのが常識なのですよ。
でも、古典の学会では「韓国」が「唐国」であることは常識でござ〜♪〜ますわ。
古典の学会に所属している人は日本人のごく一部ですよ。 95%以上の日本国民は「韓国」はKorea のことで 「唐国」は楊貴妃が生きていた頃の中国だというのが現在の常識なのですよ。
でも、光明皇后が生きていた頃は「韓国」が「唐国」だったのでござ〜♪〜ますわ。
だから、その常識にウソがあると僕は言っているのですよ。
でも、そのような事を学会で言う人は居りませんわ。
学会に所属しているほとんどの人は専門馬鹿だからですよ!
あらっ。。。。では、デンマンさんは、あたくしもその専門馬鹿の一人だと信じているのでござ〜♪〜ますか?
だってぇ、卑弥子さんは「光明皇后が生きていた頃は"韓国"が"唐国"だった」と信じているのでしょう?
でも、光明皇后だってぇ、そのような意味でちゃんと短歌を詠んでいるではござ〜♪〜ませんか! その短歌をデンマンさんが取り上げたのですわ。 つまり、デンマンさんだって「光明皇后が生きていた頃は"韓国"が"唐国"だった」と信じているのでしょう?
いや。。。僕は信じてませんよ。 それがその当時の常識のウソだと思ったから、こうして光明皇后の歌を取り上げる気になったのですよ!
つまり、デンマンさんはアインシュタインになったつもりで疑って見せているのですか?
うへへへへへ。。。やっと解りましたか?
でも、単なる気まぐれで、そのような事を言ってもらいたくありませんわ。
気まぐれや「でまかせ」ではありませんよ。 僕は以前にもこの事で次のような記事を書いたのですよ。
実は、中臣鎌足は百済からやってきたのです。
少なくとも、彼の父親の御食子(みけこ)は、ほぼ間違いなく百済から渡来した人間です。
中臣という姓は日本古来の古い家系のものですが、この御食子は婚姻を通じて中臣の姓を名乗るようになったようです。
藤原不比等は当然自分の祖父が百済からやってきたことを知っています。
しかし、「よそ者」が政権を担当するとなると、いろいろと問題が出てきます。
従って、『古事記』と『日本書紀』の中で、自分たちが日本古来から存在する中臣氏の出身であることを、もうくどい程に何度となく書かせています。
なぜそのようなことが言えるのか?という質問を受けることを考えて、このページ(藤原氏の祖先は朝鮮半島からやってきた) を用意しました。
ぜひ読んでください。
『日本書紀』のこの個所の執筆者は、藤原不比等の出自を暴(あば)いているわけです。
藤原氏は、元々中臣氏とは縁もゆかりもありません。
神道だけでは、うまく政治をやっては行けないと思った時点で、鎌足はすぐに仏教に転向して、天智天皇に頼んで藤原姓を作ってもらっています。
その後で中臣氏とは袖を分かって自分たちだけの姓にします。
元々百済からやってきて、仏教のほうが肌に合っていますから、これは当然のことです。
この辺の鎌足の身の処し方は、まさに『六韜』の教えを忠実に守って実行しています。
彼の次男である不比等の下で編纂に携わっていた執筆者たちは鎌足・不比等親子の出自はもちろん、彼らのやり方まで、イヤというほど知っていたでしょう。
執筆者たちのほとんどは、表面にはおくびにも出さないけれど、内心、不比等の指示に逆らって、真実をどこかに書き残そうと常に思いをめぐらしていたはずです。
しかし、不比等の目は節穴ではありません。
当然のことながら、このような個所に出くわせば気が付きます。
不比等は執筆者を呼びつけたでしょう。
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「きみ、ここに古人大兄皇子の言葉として『韓人、鞍作臣を殺しつ。吾が心痛し』とあるが、この韓人とは一体誰のことかね?」
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「はっ、それなら佐伯連子麻呂のことですが」
「彼は韓からやって来たのかね?」
「イエ、彼本人は韓からではなく、大和で生まれ育ちました。しかし、彼の母方の祖父が新羅からやってきたということです。何か不都合でも?」
「イヤ、そういうことなら別に異存はないが。しかし、君、古人大兄皇子は、実際、そんなことを言ったのかね?」
「ハイ、私が先年亡くなった大伴小麻呂の父親から聞きましたところ、はっきりとそう言っておりました。
中国の史書を見ると分かるとおり、歴史書を残すことは大切なことだから、古人大兄皇子の言葉としてぜひとも書き残してくださいということで、たってのお願いでした。
何か具合の悪いことでも?」
「イヤ、そういうことなら、そのままでいいだろう」
恐らくこんな会話が、編集長・藤原不比等としらばっくれた、しかし表面上はアホな顔つきをしていても、内心では反抗心の旺盛な執筆者との間で交わされたことでしょう。
執筆者の中にも気骨のある人がいたでしょうから、不比等と張り合って上のような狸とイタチの化かし合いの光景が見られたことでしょう。
この古人大兄皇子は上の聖徳太子の系譜で見るように、蘇我氏の血を引く皇子です。
蘇我入鹿とは従兄弟です。
また、中大兄皇子とは異母兄弟に当たります。
古人大兄皇子が次期天皇に目されていました。
しかし野望に燃える中大兄皇子のやり方を知っている皇子は、身の危険を感じて乙巳の変の後出家して吉野へ去ります。
中大兄皇子は、それでも安心しなかったようです。
古人大兄皇子は謀反を企てたとされ、645年9月に中大兄皇子の兵によって殺害されます。
これで、蘇我本宗家の血は完全に断たれることになったのです。
古人大兄皇子が実際に「韓人(からひと)、鞍作臣(くらつくりのおみ)を殺しつ。吾が心痛し」と言ったかどうかは疑問です。
野望に燃える中大兄皇子の耳に入ることを考えれば、このような軽率なことを言うとは思えません。
しかし、『日本書紀』の執筆者は無実の罪で殺された古人大兄皇子の口を借りて、真実を書きとめたのでしょう。
「死人に口なし」です。
このようにして『日本書紀』を見てゆくと、執筆者たちの不比等に対する反抗の精神が読み取れます。
中大兄皇子と中臣鎌足にはずいぶんと敵が多かったようですが、
父親のやり方を踏襲した不比等にも敵が多かったようです。
中大兄皇子が古人大兄皇子を抹殺した裏には、鎌足が参謀長として控えていました。
この藤原氏のやり方はその後も不比等は言うに及ばず、彼の子孫へと受け継がれてゆきます。
『真理とは狸とイタチの化かし合い』より
(2012年3月25日)
(すぐ下のページへ続く)