女に溺れて女で滅ぶ(PART 1)
牛若の目がさめます
義経の幼名は牛若丸であり、母は常盤(ときわ)という。
常盤は平清盛に敗れた源義朝の妾である。
義朝との間に、三人の男児を生んだ。
七歳の今若、5歳の乙若(おとわか)、そして一歳の牛若を連れ、逃げ隠れていたが、老母が清盛に捕えられ、むごい目にあっているのを聞いて、子どもと共に自首して出た。
義朝憎しで、一族全滅を遂行していた清盛は、常盤をひと目見たとたん、カッ、と頭から熱を発した。
何しろ、「常盤と申すは日本一の美人なり」(『義経記(ぎけいき)』)
年恰好からいって、色気もふんぷんだったろう。
のぼせ上がってしまったのである。
(bond911.jpg)
清盛は、子の助命を願う常盤に、条件を出した。
自分に従うなら、助けてやってもよい。
舌なめずりしながら迫ったことであろう。
常盤は三児の将来に希望を託し、応諾した。
そこで、川柳子の登場である。
「牛若の 目がさめますと 常盤言ひ」
「義朝と おれとはどうだ などとぬれ」
この川柳をもっと露骨な文章に仕立てたのが、春本である。
(読み易いように改行を加えました。
イラストはデンマン・ライブラリーより)
28-29 ページ 『春本を愉しむ』
著者: 出久根 達郎
2009年9月20日 第1刷発行
発行所: 株式会社新潮社
『色欲は歴史を変える』に掲載
(2012年6月23日)
デンマンさん。。。また平清盛と常盤御前でござ〜♪〜ますか?
卑弥子さんは、この歴史的瞬間に感動を覚えないのですか?
この歴史的瞬間ですか?
そうですよ! この時歴史が変わったのですよ。
それは大袈裟でござ〜♪〜ますわ。
大袈裟ではありませんよ! もし常盤がブスで清盛の色欲を刺激しなかったら、3人の幼い子供たちと一緒に常盤は殺されていたのですよ。
そうでしょうか?
だって、そうでしょう! 平清盛は源義朝憎しで、一族を全滅させるつもりだったのですよ。 ところが、日本一美しいと噂されていた常盤をひと目見たとたん、カッ、とのぼせて、この女性をぜひ自分の女にしたいと思ったのですよ。
平清盛でなく、谷岡ヤスジ先生が常盤を見たら、もう鼻血をブー、ブー出すところですよ。
平清盛は鼻血をブー、ブー出さなかったのかしら? うふふふふふ。。。
いや。。。もしかすると出していたかもしれませんよ。 うへへへへへ。。。
つまり、もし平清盛が常盤と3人の子供たちを殺していたら、鎌倉幕府を立ち上げることになる源頼朝も、源義経が活躍する『平家物語』も歴史に登場しなかったということですか?
その通りですよ。
でも、この事だけを取り上げて平清盛が「女に溺れて女で滅んだ」というのは飛躍があると思いますわ。
あのねぇ〜、僕は常盤だけの事で平清盛が「女に溺れて女で滅んだ」と言うつもりはないのですよ。
あらっ。。。清盛はまだ他の女性にも目をつけたのでござ〜♪〜ますか?
あれっ。。。卑弥子さんは忘れてしまったのですか?
あたくしが何を忘れてしまったとデンマンさんはおっしゃるのですか?
やだなあああァ〜。。。卑弥子さんは次のように話していたのですよ!
白拍子というのは、平安時代後期に活躍した、
一口で分かりやすく申し上げるならば、
芸者のような者でござ~♪~ますわ。
このように白の水干(すいかん)に
立烏帽子(たてえぼし)、白鞘巻(しろさやまき)という男装で
「今様」と呼ばれる歌を謡(うた)いながら、
男舞と呼ばれる舞を舞うのでござ~♪~ます。
白拍子であった祗王(ぎおう)は、
時の権力者・平清盛の寵愛を受け、
彼の館で幸せに暮らしておりました。
あるとき、清盛に歌舞を披露したいという
別の白拍子が現れたのです。
その者が仏御前だったのですわ。
ただの白拍子に過ぎない仏御前を清盛は追い返そうとしました。
でも、遠路はるばるやってきた彼女を見かねて、
心の優しい祗王がとりなしたのでござ~♪~ますわ。
それで、仏御前は清盛に舞を見せることになりました。
しかし、これを見た清盛は心を奪われ、
仏御前を寵愛するようになってしまったのでござ~♪~ます。
皮肉なものでござ~♪~ますわねぇ~。
男と言うのは本当に浮気なものでござ~♪~ますわ。
祗王の座を奪う気持ちのない仏御前は辞退しようとしました。
しかし、それに気づいた清盛は、
邪魔な祗王を追放してしまったのですわ。
本当に悲しい事でござ~♪~ますゥ。
萌え出づるも
枯るるも同じ
野辺の花
いづれか秋に
あわではづべき
館を出る祗王がせめてもの忘れ形見にと
詠んだ句でござ~♪~ます。
さらに翌春、清盛は退屈している仏御前を慰めるためといって、
祗王に仏御前の前で舞を披露することを強要したのです。
祗王は、あまりの屈辱に死を決意するのでござ~♪~ました。
しかし、五逆罪になることを母親が説き、
やむなく祗王は清盛の館へ向かうのです。
仏もむかしは凡夫なり
われらも遂には仏なり
いずれも仏性具せる身を
隔つるのみこそ悲しけれ
このように謡(うた)いながら舞い踊り、
諸臣の涙を誘ったのでござ~♪~ます。
祗王は都に居れば、
また同じような思いをしなければならないと、
母、妹と共に尼となり、嵯峨の山里で仏門に入るのでした。
当時、祗王21歳、妹の祇女は19歳、
母の刀自(とじ)は45歳でござ~♪~ました。
ところが、ある秋の夕べ、仏御前は祗王の元を訪れたのです。
なぜ。。。? どうした事でござ~♪~ましょうか?
実は、祗王の運命を自分に重ねて世の無常を思い、
仏御前は、清盛の館を抜け出して
尼となっていたのでござ~♪~ます。
それからのち、祗王一家と仏御前は、余念無く仏道に励み、
みな往生の本懐を遂げたのでござ~♪~ます。
小百合さん、いかがでござ~♪~ますか?
女の身として涙なくしては読めないですよね。
おほほほほ。。。
それにしても、祗王寺のお庭は
苔がとっても美しいですことォ~。。。
見とれてしまいますわぁ~。
あああぁ~。。。デンマンさんとご一緒に見たいわぁ。。。
うしししし。。。
『愛憎と苔寺 (2008年10月7日)』より
あらっ。。。おほほほほほ。。。思い出しましたわ。
あらっ、おほほほほ。。。はないでしょう! これだけのことを説明しておきながら、平清盛が祗王にも手を出し、仏御前にも手を出した事をすっかり忘れてしまったとは。。。!?
あたくしは平清盛が祗王と仏御前に手を出した事は忘れていましたけれど、清盛が二人の女性に「真ん中の足」を出したことは覚えておりますわ。 うふふふふふ。。。
やだなあああァ〜。。。卑弥子さんは平清盛と道鏡を混同しているのではありませんか?
(doukyoux.gif)
混同してませんわよ。
しかし、京都の女子大学で「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授が、清盛は二人の女性に「真ん中の足」を出しました、と言うのは品格に問題があると思いますよ。
デンマンさん!。。。品格だとか、品がないとか、はしたないとか。。。、そのような表現の自由を束縛するような言葉は、自由を尊重する21世紀のネット市民にはふさわしくないのでござ〜♪〜ますわ。
解りました。 とにかく卑弥子さんが祗王と仏御前を思い出してくれたので「真ん中の足」の事はこれ以上追求しませんよ。
。。。んで、平清盛が常盤御前と祗王と仏御前に「真ん中の足」を出したことが平家の滅亡を招いたとデンマンさんはおっしゃるのですか?
あのォ〜。。。それほど「真ん中の足」に拘(こだわ)らなくてもいいですよ。
あたくしは拘ってませんわよう! デンマンさんが拘っているのですわ。
解りました。 僕はもう「真ん中の足」に拘りません。
じゃあ、本題に入ってくださいましなァ。
あのねぇ〜、卑弥子さんが説明したように清盛は祗王と仏御前に心の傷を残したのですよ。 つまり、二人の女性を幸せにできないような男が、どうして日本という国を幸せで平和な国にまとめることができるのか?
つまり、日本の国を統治する者としては清盛は失格だとデンマンさんはおっしゃるのでござ〜♪〜ますか?
その通りですよ。 二人の女性に心の傷を残してしまうような男は、人の心を自分につなぎとめることができない。 それで優秀な人材が集まらない。 結局、自滅してしまうのですよ。
でも、デンマンさんのその仮説が正しいとして日本に統治者として合格するような歴史上の人物が居たでしょうか?
居ましたよ。 たとえば秀吉などは色好みだったけれど、側室の女性たちをうまくまとめていた。 祗王や仏御前のように心に傷を抱いて尼になるような女性は居なかった。
でも、正室の「ねね」は髪を下ろして尼になりましたわ。
でも、それは心に傷を負ったからではありませんよ。 「ねね」は秀吉が亡くなるまで良好な関係を保ち続けた。 秀吉との関係を断絶したわけではないのですよ。
要するに、女性関係では秀吉の方が清盛よりも優れていたとデンマンさんはおっしゃるのですか?
少なくとも、祗王や仏御前のような悲しい女性を作らなかった。 だから、秀吉は死ぬまで日本の統一を保ち続けることができた。 要するに女性の扱いがうまいと言うことは、人の心をひきつけることもうまいと言うことですよ。
デンマンさんの眼には秀吉が統率者としては最もすばらしい人物として映るのですか?
いや。。。もっとすごい人物が居ますよ。
それは誰ですのォ〜?
11代将軍・徳川家斉ですよ。
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