5歳の愛と死(PART 1)
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プノンペンにあるマザーハウスは、20人くらいの孤児を預かる施設だった。
大通りに面しているにもかかわらず、小さな看板に気づかずに素通りしてしまうほど、地味なたたずまいだった。
...
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私と同じ日にこのマザーハウスの門をくぐった4歳の男の子は、HIV感染者だった。
両親が亡くなり、ここへ引き取られてきた。
彼の皮膚には、タイのホスピスで見たことのある症状がすでに現れていた。
彼は歩けない。
かろうじてつかまり立ちと、体を支えていれば自分が足を前に踏み出しはするが、まったくと言っていいほど、力が入らない。
体を支えられないのだ。
彼の名はビレアック。
ビレアックは来たばかりではあったが、泣きじゃくるとか、脅えきっているとかという風ではなかった。
そのかわり、あたりの様子をじっとうかがっているようだった。
何度かちょっかいを出してるうちに、口角が上がった。
でも、なかなか心は許してもらえないのか、顔全体で笑うとか、声をあげてはしゃぐとかはしてくれなかった。
そのうち、お絵描きの時間になって、クレヨンと画用紙を持ち出したが、彼はそれをひたすら丸めるのだった。
私はそれで彼の顔をのぞいたり耳打ちしたりしたが、それほどの反応もなく、やはり口角を少し上げるだけだった。
クレヨンがテーブルの上を転がり、落ちそうになったところを“おっとっと〜!”と言ってキャッチした時、彼は口を開け、大きな声をあげて笑った。
それから、彼は私で遊ぶようになり、ハイハイをしながらボールを私の足にぶつけて、私の反応を楽しんでいた。
とにかく彼が笑ってくれた。
口を開けて、声をあげて笑ってくれた。
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木曜日は、孤児院のシスターがエイズホスピスを訪問する日だ。
ホスピスにいるシスターが休息を取るためである。
その日の朝、私はビレアックを抱きかかえ、シスターたちとともにホスピスに向かった。
郊外にあるホスピス。 彼はそこに移るのだ。
車に乗ると、ビレアックは私の胸にしっかりと顔を隠すように押し付け、力が入った両手が掴んだ私のTシャツは、袖が伸びるようだった。
次第に慣れてきたのか、窓の外を眺めたり、私の顔を見てまた口角を上げた。
プノンペンのこぢんまりとした町のはずれにあるホスピスは、どんな所だろう?
子どもはビレアック一人きりなんだろうか?
ちゃんと面倒を見てくれる所なんだろうか?
私はビレアックを抱きしめながら、不安で不安でしょうがなかった。
(中略)
2階に上がると、広いバルコニーで4,5歳の子どもたちが思い思いに遊んでいた。
勉強している子どももいた。
この子たちもHIV感染者なのだ。
新生児の部屋に入り、シスターの説明を受けると、またもや“貧困”が引き起こす現実に胸が締め付けられる思いがした。
この十数名の赤ちゃんたちはHIV感染者ではなく、親に売られたところを保護されて、ここに引き取られてきたということだった。
ビレアックがシスターに抱っこされて病棟にやってきた。
新しい子どもたち、次から次へと変わる景色、孤児院よりも多い大人の数。
バルコニーの床に座ったビレアックの顔が歪んでいた。
オーストラリア人の女性に寝かせられて、いよいよ涙があふれそうになった。
“この子、泣いてるわ……” とやさしく撫でたはずの手を、ビレアックは嫌がった。
ビレアックと目が合った私は、抱き上げてほっぺにキスをした。
しがみつくビレアックのおでこに何度もキスをした。
それでも、子どもなんだなぁ、また周りの様子をじっとうかがっていたかと思うと、床に降ろしてくれと意思表示をし始めた。
大きくなったら、好奇心旺盛な冒険好きの男の子だな、なんて思って少しホッとした。
(中略)
お昼少し前に、私たちは帰ることになった。
2階にいるビレアックにサヨナラを言わなければいけない、もう合えないかもしれないからきちんとサヨナラを言っておきたい。
そうシスターに言うと、“言ってらっしゃい”と笑顔で承諾してくれ、その前に手を洗うように言われた。
(中略)
私は今、彼のことを思うだけで切なくなる。
その幼くて儚(はかな)い命を、そう燃やせと言うのか。
子どもが最初に知る親の愛を十分に受け取ることさえなく、もし彼がエイズで死んでいくのだとすれば、それはあまりにも耐え難い恐怖だ。
怖くて、苦しくて、痛くて……。
どんなにイキがってた大人だって、死ぬのなんて怖くないさと胸を張る大人だって、その瞬間はやっぱり怖くて震えるのに……。
ビレアックより私の方が離れられなくなりそうな予感を残して、なかなか笑ってくれない彼のほっぺに、またキスをした。
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真と地図はデンマン・ライブラリーより)
256-261ページ 『愛してるって、どういうの?』
(生きる意味を探すたびの途中で)
著者: 高遠菜穂子
2004年4月26日 初版第5刷発行
発行所: 株式会社 文芸社
デンマンさん。。。、あんさんは、どうして急に、こないな記事を持ち出してきやはったん?
あのなァ〜、わてはバンクーバー図書館で『愛してるって、どういうの?』という本を借りてきて夕べ読んでいたのや。
その中に上のエピソードが出てきやはったん?
そうなのや。。。読んでいたら、ずいぶん前にめれちゃんがネットに公開した次の手記が思い出されてきよったのやァ。
不安と焦燥感と寂しさ
2004/10/03 18:28
もう、このままで生きてるんなら、
命いりません。
ドナーカード持ってるから、
心臓でも角膜でも、
なんでも持っていって下さい。
家族はいません。
承諾とらなきゃいけない人は
誰もいません。
by レンゲ
『ん?体の関係と無責任大国日本』より
(2007年11月21日)
デンマンさん。。。、これはレンゲさんの手記ですやん。
めれちゃんも同じような手記を書いていたのや。 何度も死のうとしたやないかいなァ!
あんさんは、わたしの古傷を掻き毟(むし)るようなことをしますのやねぇ〜。
めれちゃんは死にたいという手記を書いていた頃とは変わったと言うのんかァ〜?
あたりまえですやん。。。こうして生きているのが何よりの証拠ですう。。。で、あんさんは上の手記を持ち出してきて何が言いたいねん?
あのなァ〜、世の中には何の罪もなく生まれてきた者が、それこそ親の因果(いんが)のために生きたくとも生きられない運命を背負わされている。 そないな幼児がいるのやがなァ。
つまり、わたしが死にたいと思ったこと自体が我侭(わがまま)で、身勝手で、短絡的な事やったと、あんさんは言わはるのォ〜?
いや。。。わては神様ではないよってに、そないな事はよう言わん。 ただ、本を読んで、めれちゃんの手記を読み返していたら、いろいろなことを考えさせられたのやァ。
いろいろなことってぇ。。。?
この著者は1970年の1月生まれなのや。 めれちゃんの方が若いけれど、それほど年が離れているわけやない。 大学卒業後1年間OLしたあとで再びアメリカへ渡って“どう生きるか”の旅をしやはったのやァ。 めれちゃんも一度アメリカの西海岸を旅したと言ってたなァ〜?
そうですう。 ロスとシスコに行きましてん。 もう一度行きたいと思うてますねん。
高遠さんは帰国後、30歳までは経済活動を学ぶ目的でカラオケボックスを始めるねん。 6年後の2000年、30歳を迎えて閉店し、ボランティアに専念するためにインドへ行ったのや。
つまり、それからカンボジアのプノンペンのマザーハウスへ行き、そこで孤児のビレアックに会(お)うた、と言うのォ〜?
その通りや。
そやけど、どうしてアメリカからインドになったん?
高遠さんがインドのカルカッタに着いたのは、ちょうどマザーテレサが始めた Missionaries of Charity の50周年の年だったらしい。
“神の家の宣教者会”というものやねぇ。。。
あれっ。。。めれちゃんも知ってるのか?
そうです。 わたしも少しはマザーテレサに関心がありましたさかいに本を探して読みましてん。
さよかァ〜。。。今ではマザーテレサが始めた“神の家”は世界120カ国以上に広がったらしい。 本部はカルカッタ。 マザーテレサが1日中、足をマメだらけにして歩き回った活動の拠点やがなァ。 現在では、それこそ全世界からボランティアが集まり、施設も充実しているらしいけど、1950年の発足当初はマザーテレサに対する風当たりは強くて、ずいぶん苦労したと言うこっちゃ。
たとえば。。。?
ある日、台所を受け持っていたシスターがマザーテレサにそっと耳打ちしたのやァ。 “マザー、もう一切れのパンも残っていません。 どうすればよいでしょう”
それで、どうしやはったん?
マザーテレサは答えたのやがなァ。。。“祈りましょう”と。。。
それで。。。?
奇跡が起こったと言うのやァ。 翌日、カルカッタ市内の学校が急遽休校となり、トラックいっぱいのパンがシスターたちのもとへ運ばれてきたという。
マジかいなァ〜?
高遠さんが本の中で書いていることやァ。 嘘は書かんやろう! マザーハウスの1階にあるマザーの墓には、ことあるごとにシスターたちが額をつけ、墓にくちづけ、言葉を捧げていくらしい。 シスターたちだけではあらへん。 ボランティアや墓参りに訪れた観光客も墓にお参りしてゆくねん。
それで高遠さんとビレアックはその後どうなりはったん?
引用するから、めれちゃんも読んでみたらええやん。
(2001年)9月に帰国してから10日ほどたった頃、ビレアックは私の夢に出てきた。
しっかりと私にしがみつき、私を見上げた顔に笑顔はなかった。
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その顔がずっと気になって、私はプノンペン行きのチケットを予約したのだった。
(中略)
エイズの子どもたちの平均寿命は5歳である。
最初に出会った頃の彼は歩くことも話すことも、そして笑うこともなかった。
人気のない村から連れてこられた所にはたくさんの人がいて、彼の目は始終辺りを見回していた。
周りを取り囲みあやしてくれる大人や、同じように孤児となった子どもたちの遊ぶ姿を見ても、彼は笑うことをしなかった。
口をつぐんだまま、少し口角を上げるだけだった。
ビレアックを抱きかかえる私に、シスターは言った。
“この子、リハビリすれば普通に歩けるようになるのよ”
私はすっかりエイズが原因で足の筋力が衰えたのかと思っていたのだが、それはどうやら見当違いだったようだ。
彼は歩くこと、話すことを教えられなかったのだ。
床に伏した両親は起き上がることもできず、その傍らで彼はただ黙って座り、ハイハイ以上の歩行訓練を習得することができなかったのだ。
そして、そこに言葉はほとんど存在しなかったのだろう。
ビレアックは大きな声で、くちゃくちゃな笑顔で笑うことがなかったのかもしれない。
彼に出会ってから毎日ホスピスに足を運び、歩行のリハビリをした。
そのうち、彼は私の膝につかまりながら、自力で立ち上がるようになった。
両手を引いてあげると、一歩ずつ足をしっかりと前に出すようになっていた。
そして、かわいい笑顔で私を見上げるのだった。
何よりもうれしい瞬間がそんな時だった。
悲しいけれど別れの時が来て、離れたくない気持ちを彼に悟られないように私は帰国の途についた。
日本に帰ってからも写真を眺めては、ビレアックに会いに行くよと声をかけ続けていた。
そして2度目のカンボジア。
いよいよ彼との再会の日。
プノンペンの空港に着くとすぐにバイクタクシーにまたがり、ホスピスに向かった。
久し振りに会う私を覚えているだろうか?と多少不安もあったが、一瞬の戸惑いの後にこぼれた笑顔から、彼が私を覚えていてくれたことを確信した。
彼が夢に出て来たのは、きっと寂しかったのかと思う。
体調はそんなに悪くないようだし、食欲もある。
だけど、昼寝から覚めた彼の目には涙がこぼれていた。
笑顔はやっぱり救われる。
命に彩を添えてくれる。
それは自分の命にも、そして周りの命にも鮮やかな色を与えてくれる。
“親がなくとも子は育つ”とは言うけれど、周囲に色を与えてくれる人がいなければ、その命は目覚めることができない。
たとえその命が儚いものだとしても、命は輝くためにある。
昨日も今日も、私とビレアックはただ笑い合っている。
そして、ビレアックがぎゅーっと私にしがみついて来る時、私はこの上ない幸せを感じる。
この子に出会えたことに、この子のそばにいられることに心から感謝して……。
いつまで続くかわからない私たちを“永遠”と呼んで……。
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
282-285ページ 『愛してるって、どういうの?』
(生きる意味を探すたびの途中で)
著者: 高遠菜穂子
2004年4月26日 初版第5刷発行
発行所: 株式会社 文芸社
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