ミッチブーム(PART 1 OF 3)
大田区南馬込(まごめ)の三島邸は、女優で演出家の長岡輝子の家から路地をひとつ隔てたところにあった。
陽光に映える三島趣味のヴィクトリア朝コロニアル様式の白亜館が新築されて以来、長岡とは、芝居でのつき合いというよりも、むしろご近所のつき合いがあった。
自決事件(昭和45年11月25日)からしばらくして、長岡は手作りの惣菜を持って三島邸を訪れた。
夜食でもともにして、母親の倭文重(しずえ)夫人を慰めるつもりだった。
「…でもね、由紀夫さんは、自分のなさりたいことはぜんぶ成し遂げて、それこそ藤原道長の歌じゃないけれど、「望月」の本望がかなった方じゃありません?…」
と長岡はたずねた。
すると倭文重は、ややあって、
「今度はじめて、やっとあの子が本当にやりたかったことができたのですから、その意味では、男子の本懐を遂げたことになります。…でも、あの子には、ふたつだけ叶わなかったことがあります。
ひとつは…ノーベル文学賞をもらえなかったことです」
「ノーベル文学賞はおれが取るぞって、意気込んでいらしたからね…」
「それが川端先生に決まったとき、弟の千之(ちあき)に向かって、大声で、くやしい!と叫んでいました。…
それと、もうひとつは、結婚問題です。本命の人と結婚できなかったんです。…お見合いをして、不成立の縁談で、唯一、心残りの方がありました…」
「それは…どなた?…」
倭文重の顔は紅潮していた。
長岡は、ひと言も聞きもらすまいと耳を傾けた。
「のちに皇太子妃になられて、時とともにあの子の意中の人として消えがたくなっていったようです。もし、美智子さんと出遭っていなければ、『豊饒の海』は書かなかったでしょうし、自決することもなかったでしょう…」
「でも、どのみち畳の上では死ねなかった方よ。…どこかに死に場所を探されたでしょうけれど…」
(注:写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました。
赤字はデンマンが強調)
7 - 9ページ
『三島あるいは優雅なる復讐』
2010年8月26日 第1刷発行
著者: 高橋英郎
発行所: 株式会社 飛鳥新社
『アナクロニズム』に掲載
(2011年3月27日)
デンマンさん...どうしてまた亡くなった三島さんのことなど持ち出してきたのですか?
あのねぇ〜、僕は『三島あるいは優雅なる復讐』を読むまで三島さんが若かりし頃、現在の皇后である正田美智子さんと見合いをしていたという事実を知らなかった。
個人的なことですもの知らないのが当たり前ですわ。 私だって知りませんでしたわ。
でもねぇ、三島ファンならば、おそらく知っているだろうと思うのですよ。 小百合さんは三島ファンではないでしょう!?
そうですわね。 私は自決するような人はどうも。。。
うししししし。。。やっぱり、そうですか? 確かに熱烈に応戦している作家があのような事件で死んでもらっては困るからねぇ。 熱烈な三島ファンならば、自分の命のように三島さんの命も大切ですよ。 三島さんが自決したことで、実際、それまでの三島ファンの半分が熱が冷めたと言っていたそうですよ。
あの事件でそれ程変わるものですか?
あのねぇ〜、僕は三島ファンではないけれど、やっぱりあの事件には衝撃を受けましたよ。 愚かだ! 時代錯誤だ! 気が狂ってしまったのかア! 。。。と、いろいろ取りざたされたけれど、僕は雷の直撃を食らったようなショックでしたよ。 愚かだとか?時代錯誤だとか?気が狂ったとか?。。。そう言う以前の、何か。。。動物的な。。。本能的な。。。恐れ、感動、ショックでしたね。
確か。。。デンマンさんが初めて小説を読んだのは三島さんの『潮騒』だったのでしょう?
あれっ。。。小百合さんはよく知ってますねぇ〜。。。
デンマンさんが書いた次の記事を読みましたわ。
恋愛小説だとか、エロい本は身の回りに無かった。そのような本を見た事が無かったですよ。父親の本棚にあった出産の本を見たのが初めての経験でした。だから小説を初めて読んだのは中学3年生の時でしたよ。
何を読んだのですか?
三島由紀夫の『潮騒』ですよ。
本屋さんで買ったのですか?
いや、そうじゃないんですよ。僕は本を買って読むと言う事を知らない。。。。つうかあ、本を買ってまで読む気が無かったのですよ。
それで、どういうわけで『潮騒』を読む気になったのですか?
たまたま隣に座っていた同じクラスの悦子さんが読んでいた。あんまり夢中になって読んでいたものだから、一体どんな事が書いてあるのだろうかと思って、興味に駆られて盗み読みしたのがきっかけだったんですよ。
それで、その悦子さんはデンマンさんが盗み読みしたことに気づいたのですか?
そうなんですよ。気づいたのですよ。
それで。。。。?
そんなに読みたいのならば貸してあげるわ、と言ってくれたのですよ。うれしかったですよ。
それで。。。?
もちろん、あの海辺の小屋でかがり火を焚いて若い二人が裸になる。。。なんと言ってもあの場面が僕の脳裏に残りましたよ。実は、その悦子さんは僕のオナペットだったのですよ。
それで、デンマンさんは、その悦子さんに愛の告白をなさったのですか?
それが出来なかったのですよ。
『エロい文学少女』より
(2007年4月11日)
そうなのですよう。 同じクラスの悦子さんが読んでいた本が『潮騒』だったのですよ。 それを僕はこっそりと盗み読みしたようなわけです。うししししし。。。
やっぱり意中の女の子が読む本は気になりましたか?
いや。。。意中の女の子というよりも、それまでの僕は本などを読んで何が面白いのだろうか? それが小説だということも想像できなかった。 とにかく、何が面白いのか? 悦子さんは何を求めてその本を読んでいるのか? 僕は好奇心に駆られて盗み読みしたのですよ。
。。。で、読んでみて、その面白みがデンマンさんにも判ったのですか?
うん。。。なんとなくと言うか。。。やっぱり男も女も年頃になると性的なことに興味と関心を持ち始めて、性の世界に誘(いざな)われてゆくものなんだと実感しましたよ。
でも、デンマンさんは“性の世界”と言いますけれど、悦子さんには“愛の世界”だったかもしれませんわ。
いや。。。“性の世界”であれ、“愛の世界”であれ、ワクワクするもの。。。秘密めいたものに惹かれたのですよ。。。そう言えば、小百合さんも中学生の時にエマニエル夫人の映画を見たのでしたよね。
このような事になるとデンマンさんの記憶は抜群なのですわね。うふふふふふ。。。
いや。。。小百合さんだけではないですよ。 めれんげさんだって小学生の時に「チャタレー夫人の恋人」を読んでいましたからね。
読書して怒られる
2006/05/11 14:16
子供のころから、
家にはたくさんの本がありました。
わたしは江戸川乱歩の少年探偵団を、
よく読んでいたのですが、
そのうち、飽き足らなくなったのか、
親が持っていた「江戸川乱歩全集」を、
愛読するようになりました。
しかし。
その全集には、
横尾忠則氏の挿絵がついていて、
えっちなんです。
なので、親には読んじゃダメと
言われていました。
(だったら、かくしといてくれ)
わたしはこっそりかくれて、
そのえっちな江戸川乱歩の本を、
読んでいたのでした。
しょっちゅう見つかって、怒られました。
さらに。
印象的なのが
「チャタレイ夫人の恋人」です。
もちろん禁止本です。
禁止されたら、読むに決まってます。
・・・ませガキ。
・・・エロガキ。
by めれんげ
「めれんげの日記」
『だれかつっこみいれて!』より
『エロい文学少女』に掲載
(2007年4月11日)
多分、誰にでも“性の世界”や“愛の世界”を知るようになったという本や映画があるのかもしれませんわね?
僕もそのように思いますよ。
ところでミッチーブームって私は知らないのですけれど、それ程すごかったのですか?
そう言えばミッチーブームの時には小百合さんはまだ生まれていなかったのですよね。 うへへへへへ。。。
そうですわ。 だから、アメリカのミッチ・ミラー合唱団のブームかと思いましたわ。
あのねぇ〜、三島さんも美智子さんと結婚できなくて残念がったように、美智子さんのブームはすごかったのですよう。
ミッチー・ブーム
ミッチー・ブームとは、正田美智子(当時)が1958年(昭和33年)から1959年(昭和34年)にかけて、日本の皇太子・明仁親王(当時)と婚約して結婚することにより生じた社会現象。
民間人である美智子が、皇太子の「テニスコートでの自由恋愛」により結婚に至ったこと、美智子がカトリックのミッション系大学出身者であったことなどをマスメディアが報道し、大きな話題となる。
これを契機にテレビが普及するなど、戦後日本の経済、ファッション、マスメディアなどの領域で、社会に大きな影響を与えた。
第二次世界大戦後、1956年(昭和31年)の経済白書が「もはや戦後ではない」と明記し、景気が上昇していた中で、宮内庁は1958年(昭和33年)11月27日、皇室会議が日清製粉社長正田英三郎の長女・美智子を皇太子妃に迎えることを可決したと発表する。
1957年(昭和32年)に聖心女子大学英文科を卒業していた美智子は、その年の夏、皇太子と軽井沢で親善テニス・トーナメントの対戦を通じて出会い、皇太子は美智子の人柄に惹かれて自ら妃候補にと言及したと報道され、皇族か五摂家といった特定の華族から選ばれる皇室の慣例を破り、財界出身とはいえ初の平民出身皇太子妃として注目の的となった。
昭和天皇は「皇室に新しい血を」という意向だったとされている。
正田家は家柄が違い過ぎるとして当初、固辞の姿勢を見せたが、皇太子の「柳行李一つで来てください」との言葉が決め手となって決心を固めたと報道された。
しかしこの報道は事実ではなく(「ご学友」橋本明の創作)、のち2001年(平成13年)に行われた天皇の記者会見では「このようなことは私は一言も口にしませんでした」と強く否定、プライバシーと尊厳の重要性に言及し、報道のあり方に疑問を投げかけている。
美智子がテニスで着ていた白地のVネックセーターや白い服装、身につけていたヘアバンド、カメオのブローチ、ストール、白の長手袋などのいわゆるミッチースタイルと呼ばれたファッションが大流行し、ヘアバンドはミッチーバンドと名付けられている。
宮内庁で行われた11月27日の婚約記者会見で美智子が「とてもご清潔でご誠実なご立派な方で心からご信頼申し上げ」と皇太子の印象を述べた発言が大きな注目を集め、「ご清潔でご誠実」は、流行語になった。
マスメディアは「昭和のシンデレラ」あるいは「世紀のご成婚」と銘打ち、美智子の生い立ちや、皇太子との交際などを詳報、週刊誌は1956年(昭和31年)の『週刊新潮』創刊をきっかけに、1957年(昭和32年)創刊の『週刊女性』(主婦と生活社)、1958年(昭和33年)の『週刊女性自身』(光文社)、『週刊明星』(集英社)、『週刊大衆』(双葉社)、『週刊実話』などの創刊が相次ぐ「週刊誌ブーム」が起きており、週刊誌・女性週刊誌の報道競争が過熱していた。「ご成婚」は週刊誌メディアにとって格好の題材・素材となって週刊誌の売り上げが伸び、さらに週刊誌記事を通じて皇室情報が一般人に浸透することとなった。
これら社会現象は婚約発表のその年に、美智子の愛称「ミッチー」に由来して「ミッチー・ブーム」と名付けられ、以後、この呼称が社会的に定着。
同年12月1日に日本銀行が一万円券(いわゆる一万円札)を発行、股上が極端に短い新作パンティー「スキャンティー」を発表するなど女性下着ブームの火つけ役となって女性下着の歴史に画期をなしたファッションデザイナー鴨居羊子が『下着ぶんか論 解放された下着とその下着観』を上梓、インスタントラーメンの元祖チキンラーメンが発売され、またロカビリーブームが起こるなど、この年に多くの人々が景気の上昇を実感する時代を迎え、本格的な消費社会の入口にさしかかっていたことが、経済的にミッチー・ブームを支える背景となっていた。
また首都圏広域の電波送信を可能にする東京タワーが12月23日に完成、マスメディアの領域ではテレビ放送時代の幕開けの準備が整う。
このような時代背景の中で、ミッチーブームは、戦後の明るい話題として取り上げられた。
皇太子明仁親王と正田美智子の結婚の儀翌1959年(昭和34年)4月10日の、いわゆる結婚式(「結婚の儀」「御成婚」)と、実況生中継されたパレード(ご成婚パレード)で、ミッチー・ブームは頂点に達する。
皇居から渋谷の東宮仮御所までの8.18キロを馬車、あるいはロールス・ロイスのオープンカーが目抜き通りを走るパレード沿道には、53万人の群衆が詰めかけた。
パレードに先立ち、テレビのメーカー各社は競って宣伝を行なったため消費者は実況生中継を見ようとし、テレビの売り上げが急伸、パレードの一週間前に NHK の受信契約数(いわゆる普及率)は、200万台を突破。またテレビ製造メーカー、週刊誌各社は大量消費社会へのテイクオフ(離陸)を果たし、テレビコマーシャルや週刊誌の消費が伸びる契機となった。
日本の経済、ファッション、マスメディアなどの変遷を語る上でエポックとなった空前のミッチー・ブームが起きたちょうどそのころ、日本の経済は岩戸景気に突入し、高度経済成長時代を迎える。
マスメディアはその後も彼女の皇太子妃としての生活(第一子「浩宮」誕生、第二子「礼宮」誕生、子育て)などの様子を頻繁に取り上げ、美智子妃は国民にとっての「象徴」としての役割、すなわちいわば「憧れ」の対象としての地位を確立してゆく。
政治学者の松下圭一は、これら一連の「ミッチー・ブーム」社会現象を切り口にして天皇制を分析した著作「大衆天皇制論」を1959年(昭和34年)に著している。
2005年(平成17年)出版のDVDブック「昭和ニッポン」(第8巻『美智子さまブームと東京タワー』など全24巻)を共同執筆した横浜市立大学助教授の古川隆久は、ミッチー・ブーム前後のメディアの皇室報道を検証して「逆説的ですが、民間人出身の皇太子妃が誕生したことで、国民は皇室との距離を実感してしまったのではないか」と分析している。
(注: 写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました。
赤字はデンマンが強調)
出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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