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愛と禅と茶(PART 2)

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愛と禅と茶(PART 2)


利休は刀の白刃を静かにみやり、辞世を詠む。

きたれ、

永遠(とわ)なる剣よ!

仏陀を貫き

達磨をも貫き、

汝は汝の道を貫くがいい

こうして利休は、笑みを浮かべて彼岸へと旅立ったのだ。




この辞世の句は死に臨んだ者が心の平穏を保って詠んだとは、わてにはどうしても思えん。



どないなわけで利休さんの心が乱れていたと、あんさんは思うのォ〜?

つまり、心のどこかに死んでも死に切れない豊臣秀吉に対する憎悪の念が心の片隅で燻(くすぶ)っていたのやァ。 その消し去りがたい情念が上の辞世の句を利休に詠ませたのだと、わてには思えるのやァ。

つまり、利休は茶人としてではなく、秀吉に対して負け組みの一人として死んでいったと、あんさんは思うてはるのォ〜?

その通りやァ。 利休は、笑みを浮かべて彼岸へと旅立ったのではあらへん。 苦虫(にがむし)を潰(つぶ)したような表情を浮かべてあの世へ逝ったのやァ。 もし、茶人としてあの世へ逝ったのであれば、もう少し心の平穏を保つことができたと、わては思うねん。

どないなわけでぇ〜。。。?

岡倉天心は次のように書いてるゥ。


茶人は、芸術を真に理解できるのは芸術から日々影響を受ける者だけだと考えた。
だからこそ日々の生活を、茶室で得られるような高度に洗練された規範で律しようとしたのだ。
どのような状況でも心の平穏を保ち、会話が周囲の調和を乱すことがあってはならない。




もし死に臨んだ利休さんの心が平穏であったら、どのような辞世の句を残したと、あんさんは思いはるのォ〜?



あのなァ〜。。。わてはたまたま小津安二郎・監督の墓を思い出したのやァ。

小津安二郎之墓

鎌倉 円覚寺

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利休さんの心が豊臣秀吉を許して心が平穏であったなら、おそらくただ一言“無”と言ってあの世に逝きはったと思うねん。 千利休こそ辞世の句に、ただ一字---“無”という字を残す事こそふさわしい!。。。わてはそう思うたのやがなァ。



小津安二郎監督も禅にハマッていたのやろか?

わての知る限り小津安二郎監督が禅にハマッていたとは思わん。 そやけど、小津安二郎監督は禅の心を持っていたと、わては思うねん。

どないなわけで。。。?

小津安二郎監督は言うてたのや。 「映画は終わった所から始まる」と。。。

マジで。。。?

岡倉天心は次のようにも書いていた。 


完璧なものは、見つけることさえできればいたるところにあるものだ。


そやけど、完璧なものなど、この世にはあらへん。

そうやろか?

「茶の道」とは「不完全」を学ぶものだと、わては思うでぇ〜。。。

「不完全」を学ぶって。。。どういうことやねん?

つまり、どんなものであれ、すべて完璧に仕上がったもなどあらへん。 そやから小津安二郎監督は言うたのやァ。 「映画は終わった所から始まる」と。。。

「映画は終わった所から始まる」とは、どういうことやねん?

例えば『晩春』。。。


(hara111.jpg)

『晩春』 (PART 4 OF 5)

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この映画を見終わってから観客は映画の余韻の中で父と娘の愛を考える。。。


『晩春』をめぐる有名な「壺のカット論争」

終盤近くの京都の旅館のシーンにおいて、笠智衆と原節子が枕を並べて眠っていると、一瞬床の間に置かれた壺が写り込むカットの意味をめぐるものである。
アメリカの映画監督ポール・シュレイダーは、これを父と別れなければならない娘の心情を象徴する「物のあわれ」の風情であると評している。
また映画評論家のドナルド・リチーは、壺を見ているのは原節子であり、壺を見つめる原節子の視線に結婚の決意が隠されていると分析する。
一方、この二人に対して異議を唱えているのが、『監督 小津安二郎』で小津映画の評価に新しい方向性を投げかけた蓮實重彦である。



蓮實は、まず小津映画において、父子とはいえ性別の異なる男女が枕を並べて眠っていること自体が例外的であり、またすべてを白昼の光の中に鮮明な輪郭を持って描いてきた小津が、月光によって逆光のシルエットになっている壺を描いたことも例外であるとする。
そして蓮實は、それらから父と娘の間に横たわる見えない性的なイメージを読み取ろうとしている。

娘が父に対して性的コンプレックスを抱いているのではないかという憶測を最初に投げかけたのは、映画評論家の岩崎昶である。
岩崎は壺の意味については言及していないが、『キネマ旬報別冊 小津安二郎・人と芸術』(1964年)の中で、父娘の会話が旅館の寝床の上で交わされていることに注目し、この旅館のシーンを転機とし、父に対して性的コンプレックス(エレクトラコンプレックス)を抱いていた娘が、父から性的に解放される名シーンであるとしている。

なお、杉村春子はこのようなカットを撮影する際に、小津から「気持ちを残したように演技してください」と注文を受けたと語っている。

本作は、リンゴの皮を剥いていた周吉がうなだれるシーンで終わるが、台本上では周吉が慟哭するシーンになっていた。
涙を流す演技を拒否していた笠智衆が、このシーンはできないと申し出たため変更になったのである。
小津の言われるままに演技をしていた笠が、唯一小津に異を唱えたのがこのシーンである。
しかし、評論家からはこのシーンは酷評され、笠は「普段は評論家からの批評は気にしなかったが、この批評には憤りを感じた(『大船日記』)」という。



出典: 「晩春 (映画)」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




つまり、『晩春』という映画は不完全なものやねん。 映画を見終わっためれちゃんが自分の父親との愛情のことを考えないわけにはゆかへん。 それが、まさに小津安二郎監督の『晩春』やと、わては思うたわけやァ。。。


【レンゲの独り言】



ですってぇ〜。。。
あなたは『晩春』を観ましたか?
あたしは、とってもいい映画だと思いましたわ。
あなたもぜひお近くの図書館でDVDを借りて観てくださいね。

とにかく、次回も興味深い記事が続きますわ。
だから、また読みに戻ってきてください。
じゃあ、またね。。。








ィ〜ハァ〜♪〜!

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