愛と禅と茶(PART 1)
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デンマンさん。。。、あんさんは、どうしてまた読者の注目を引くようなタイトルをつけはったん?
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あきまへんかァ〜?
タイトルを見て期待に胸を膨らませて読みはるネット市民の皆様が、わたしとデンマンさんのお話を聞いてガッカリしやはったら、あんさんはどないするつもりやのォ〜?
めれちゃん。。。そないな事まで、めれちゃんが心配せ〜へんでもええねん。
そやかてぇ、わたしはネット市民の皆様の期待を裏切るようで、なんとのう申し訳ないように思うてしまいますねん。
あのなァ〜、わては読者の気を引くようなタイトルをわざと掲(かか)げたのではあらへん。
あんさんはホンマに「愛と禅と茶」についてのお話をするつもりやのォ〜?
当たり前田のクラッカァ〜♪〜!
あんさん!。。。それは、かれこれ半世紀前のテレビの『てんやもんや三度傘』で藤田まことが言うたセリフですやん。
そうやァ。。。これを読んでいるネット市民の皆様の中にも、きっと懐かしく思う人も居(お)ると思うでぇ〜。。。
そないなことよりも、どないなわけで「愛と禅と茶」を持ち出してきやはったん?
あのなァ〜、わてはバンクーバー図書館から借りた本を夕べ読んだのやァ。
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(lib20801.gif)
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赤枠で囲みはった『茶の本』を読みはったん?
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よう判ったなァ〜。。。
赤枠で囲みはってあるさかいに、誰が見たとてすぐに判りますやん。 その本を読みはってぇ、あんさんは感動しやはったん?
あのなァ〜、その本は岡倉天心が英語で書いた本なのやがなァ。
岡倉 天心
誕生:1863年2月14日(文久2年12月26日)
死亡:1913年(大正2年)9月2日
日本の思想家、文人、哲学者。
本名は岡倉覚三(かくぞう)。
幼名は岡倉角蔵。
福井藩の武家の子として横浜に生まれる。
東京美術学校(現・東京藝術大学)の設立に大きく貢献し、また日本美術院を創設した。
近代日本における美学研究の開拓者で、英文による著作での美術史、美術評論家としての活動、美術家の養成といった多岐に渡る啓蒙活動を行い、明治以降に於ける日本美術概念の成立に寄与した。
福井藩の下級藩士の父・岡倉勘右衛門は廃藩後に貿易商となり、教育熱心な父親の命で、漢籍を学ぶと同時に、宣教師のもとで英語も学んだ。
弟の岡倉由三郎は英語学者。
東京開成所(のちの官立東京開成学校、現・東京大学)に入所し、政治学・理財学を学ぶ。
英語が得意だったことから同校講師のアーネスト・フェノロサの助手となり、フェノロサの美術品収集を手伝った。
16歳のとき、13歳の基子と結婚する。
1882年(明治15年)に専修学校(現在の専修大学)の教官となり、専修学校創立時の繁栄に貢献し学生達を鼓舞した。
専修学校での活躍は、文部省専門学務局内記課に勤めていたころである。
また専修学校の師弟関係で浦啓一も岡倉と出会い、岡倉の指導によりその一生に決定的な影響を受けた。
1890年(明治23年)から3年間、東京美術学校でおこなった講義「日本美術史」は日本(の美術史学)における日本美術史叙述の嚆矢とされる。
東京都台東区に岡倉天心記念公園(旧邸・日本美術院跡)がある。
また、ニューヨークで英語で「茶の本」を出版して100年にあたる2006年の10月9日に、天心が心のふるさととしてこよなく愛した福井県の大本山永平寺において“岡倉天心「茶の本」出版100周年記念座談会”が行われた。
出典: 「岡倉 天心」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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1906年にニューヨークで出版しやはったのやァ。
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それで、あんさんも英語で読みはったん?
いや。。。わての借りた本は日本語と英語の両方で書いてあるねん。 それほど厚い本でなかったよってに、わては日本語で一気に読んでしもうたのや。
それで、その本の中にあんさんが感動するような事が書いてあったん?
いや。。。とりわけ感動したと言う訳ではあらへん。
それやのに、どうしてこうして『茶の本』を取り上げる気になりはったん?
次の箇所に目が留まったのやァ。
宗教では、未来はわれらの背後にある。
芸術では現在こそが永遠である。
茶人は、芸術を真に理解できるのは芸術から日々影響を受ける者だけだと考えた。
だからこそ日々の生活を、茶室で得られるような高度に洗練された規範で律しようとしたのだ。
どのような状況でも心の平穏を保ち、会話が周囲の調和を乱すことがあってはならない。
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着物の形や色も姿勢も歩き方も、すべてその人の芸術的な表現となりうる。
これらを軽々しく扱ってはいけない。
おのれを美しくすることなくして、美へ到達することはできないからだ。
そうしてこそ、茶人は芸術家であることを超え、芸術そのものに近づこうとする。
それこそが禅の美学である。
完璧なものは、見つけることさえできればいたるところにあるものだ。
利休は好んで次の古歌を引用した。
花をのみ 待つらん人に 山里の
雪間の草の 春を見せばや
(赤字はデンマンが協調のため。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより。)
168ページ 『茶の本』
著者: 岡倉天心
2008年4月8日 第1刷発行
発行所: IBCパブリッシング株式会社
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天心が心のふるさととしてこよなく愛した福井県の大本山永平寺というのは曹洞宗の宗祖・道元和尚の建てたお寺やがなァ。
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つまり、岡倉天心さんは禅に嵌(はま)っていたと、あんさんは言うねんなァ?
そういうことやがなァ。
道元と永平寺
曹洞宗の宗祖道元は正治2年(1200年)に生まれた。
父は村上源氏の流れをくむ名門久我家の久我通親であるとするのが通説だが、これには異説もある。
幼時に父母を亡くした道元は仏教への志が深く、14歳で当時の仏教の最高学府である比叡山延暦寺に上り、仏門に入った。
道元には「天台の教えでは、人は皆生まれながらにして、本来悟っている(本覚思想)はずなのに、なぜ厳しい修行をしなければ悟りが得られないのか」という強い疑問があった。
道元は日本臨済宗の宗祖である建仁寺の栄西に教えを請いたいと思ったが、栄西は道元が出家した2年後に、既に世を去っていた。
比叡山を下りた道元は、建保5年(1217年)、建仁寺に入り、栄西の直弟子である明全(1184-1225)に師事した。
しかし、ここでも道元の疑問に対する答えは得られず、真の仏法を学ぶには中国(宋)で学ぶしかないと道元は考えた。
師の明全も同じ考えであり、彼ら2人は師弟ともども貞応2年(1223年)に渡宋する。
道元は天童山景徳寺の如浄に入門し、修行した。
如浄の禅風はひたすら坐禅に打ち込む「只管打坐(しかんたざ)」を強調したものであり、道元の思想もその影響を受けている。
道元は如浄の法を嗣ぐことを許され、4年あまりの滞在を終えて帰国した。
なお、一緒に渡宋した明全は渡航2年後に現地で病に倒れ、2度と日本の地を踏むことはできなかった。
日本へ戻った道元は初め建仁寺に住し、のちには深草(京都市伏見区)に興聖寺を建立して説法と著述に励んだが、旧仏教勢力の比叡山からの激しい迫害に遭う。
旧仏教側の迫害を避け新たな道場を築くため、道元は信徒の1人であった越前国(福井県)の土豪・波多野義重の請いにより、興聖寺を去って、義重の領地のある越前国志比庄に向かうことになる。
寛元元年(1243年)のことであった。
当初、義重は道元を吉峰寺へ招いた。
この寺は白山信仰に関連する天台寺院で、現在の永平寺より奥まった雪深い山中にあり、道元はここでひと冬を過ごすが、翌寛元2年(1244年)には吉峰寺よりも里に近い土地に傘松峰大佛寺(さんしょうほうだいぶつじ)を建立する。
これが永平寺の開創であり、寛元4年(1246年)に山号寺号を吉祥山永平寺と改めている。
寺号の由来は中国に初めて仏法が伝来した後漢明帝のときの元号「永平」からであり、意味は「永久の和平」である。
出典: 「永平寺」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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日本ばかりじゃなく、海外にも目を向けんとアカン!という考えは、道元和尚の影響もあるのやと、わては思うたのやァ。
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それで岡倉さんはアメリカにも行きはったん?
そうやと思うでぇ〜。。。見聞を広めるために。。。そやけど、アメリカかぶれにならずに日本の素晴らしい物を見出したということは「文明開化」の世の中にあってマジで日本史上貴重な人物やと、わては思うたのやァ。 次のようにも書いている。
禅は仏教の無常観や、物質に対して精神が優位でなければならないという教えから、家屋というものは単に身を置くだけの仮の宿に過ぎないとみなした。
(中略)
茅葺きの屋根や弱々しい細い柱、軽い竹の支え、ありきたりの材料を使った無造作な造り、そうしたものに茶室における儚(はかな)さの表現を見ることができるのだ。
永遠というものはこうした簡素な四囲に体現されていて、洗練さというほのかな光でその簡素さを美化する精神の内にこそみいだされるのである。
茶室は個人的好みに適するように建てられるものだ、という考え方は、芸術の活力が生まれる原則にかなっている。
芸術が十分に鑑賞されるためには、その時代の生活にあてはまらなければならない。
後世のことを考えないということではなく、現在をより楽しむようにしなくてはいけない。
過去の創造を無視することではなく、それを自分たちの意識の中に取り込んで吸収しなくてはいけない。
伝統と形式に隷属すれば、建築において個性を表現しようというときに足かせとなってしまう。
今日の日本にみられるような、洋風建築を無分別に模倣したものは、嘆かわしいというしかない。
(赤字はデンマンが協調のため)
106-108ページ 『茶の本』
著者: 岡倉天心
2008年4月8日 第1刷発行
発行所: IBCパブリッシング株式会社
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日本にある良い物までをすべて捨てて西洋の物真似だけしていた当時の政府の高官に対して批判的やったのやがなァ。
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鹿鳴館時代を冷(ひ)ややかに見ていたのやねぇ。
めれちゃんも岡倉天心が言うことを理解してるやないかいなァ。
その程度のことは誰でもこれまでの話を読んでくれば解りますやん。
さよかァ〜?
それよりも、あんさんは岡倉天心の考え方に、すっかり共鳴してますやん。
いや。。。そうでもないねん。 次の箇所を読んでみて、わては岡倉天心とは見方が違っていると思うたのやがなァ。
自害の当日、利休は主だった弟子を集めて最後の茶会を催した。
(中略)
利休は皆の前にさまざまな道具を置く。
掛け軸も置く。
皆がその美しさを口々に讃え、利休は客の一人ひとりに1品ずつ形見分けをする。
利休の手元には茶碗だけが残った。
「不運な唇によって汚されたこの茶碗が、二度と使われぬように」
利休はそう言って、その茶碗を粉々に打ち砕いた。
茶会は終わった。
客人たちはあふれ出す涙をこらえ、最後の別れを告げて茶室を出てゆく。
一人だけ、最も近しい者だけが求められて残り、最後を見届けることになる。
利休は茶会の衣装を脱ぎ、きちんとたたんで畳に置く。
もやは身につけているのは純白の死に装束のみ。
利休は刀の白刃を静かにみやり、辞世を詠む。
きたれ、
永遠(とわ)なる剣よ!
仏陀を貫き
達磨をも貫き、
汝は汝の道を貫くがいい
こうして利休は、笑みを浮かべて彼岸へと旅立ったのだ。
(赤字はデンマンが協調のため)
174-178ページ 『茶の本』
著者: 岡倉天心
2008年4月8日 第1刷発行
発行所: IBCパブリッシング株式会社
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どの部分が、あんさんにとって共感できへんのォ〜?
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次の部分やがなァ。
(すぐ下のページへ続く)