癒しと水墨画(PART 1)
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あらっ、デンマンさん。。。上のイラストの中のあたくしは水墨画の中で癒されているのでござ〜♪〜ますか?
その通りですよ。 卑弥子さんが平安朝の絵巻の中から出てきて雪舟の時代の山水画の中で癒されているのですよ。 うへへへへ。。。
でも、どうして急に山水画などを持ち出してきたのですか?
卑弥子さんは急に水墨画の世界にタイムスリップしたように思うかもしれないけれど、実は、僕は7月の下旬に日本美術史の本をバンクーバー図書館から借りてきて水墨画の世界にかなり浸っていたのですよ。
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赤枠と青枠で囲んである2冊ですか?
そうです。
デンマンさんは源氏物語の世界ではなくて水墨画の世界にハマッているのでござ〜ますか?
いや。。。ハマッているというほど水墨画が好きではありません。 でもねぇ、赤枠で囲んである本をパラパラめくっていたら水墨画に出くわしたのですよ。
あたくしの背景にある水墨画は雪舟さんが書いたのでござ〜ますか?
その通りです。 でも、雪舟さんの自筆のものではなくて他の人が模写したものですよ。 だけど、まるで本物のように良く描けています。
デンマンさんは、この背景になっている水墨画が気に入ったのですか?
いや。。。気に入ったというより僕の心がスウ〜ッと吸い込まれてゆくようなすがすがしさを感じたのですよ。
あたくしには、なんだか落書きのように思えるのですけれど。。。おほほほほほ。。。んで、どういう所がそれほど良いのでござ〜ますか?
もともと僕は幻想的なものに惹かれる感性を持っているのかもしれません。 (微笑)
マジで。。。? 上の背景の水墨画は幻想的なのですか?
あのねぇ〜、雪舟さんが生きていた頃、水墨画を描くということは日本の風景ではなく中国の風景を描くことだったらしい。 上の方に霞(かす)んで見えるのは霧がかかってうっすらと見える中国の山ですよ。 なんとなく幻想的な気分が表現されていると思いませんか?
そうでしょうか?
あのねぇ〜、僕が初めて水墨画を見た小学生の頃、どうしてこんな出鱈目(でたらめ)な山を書くものかと不思議に思ったというよりも呆れたものですよ。 こんな山があるはずないじゃないか! 山と言えば富士山のような山が典型的な日本の山ですからね。。。 僕が生まれ育った行田市からは、よく晴れた日には富士山が見えるのですよ。
あらっ。。。今度は富士山を背景にあたくしが癒されているのですわね。 うふふふふふ。。。でも、デンマンさんのふるさとからマジで富士山がこんなにきれいに見えるのですか?
マジですよ。 僕の実家から自転車で20分ぐらい行ったところに久下橋がある。 その橋の袂から見たのが上の写真の富士山ですよ。
あたくしも一度、デンマンさんのふるさとから富士山を見てみたいものですわ。
僕の実家の東北の方には赤木山、それに北の方には榛名山。。。どの山も裾を引いて山水画に書かれているような垂直にそそり立っているような山とは大違いですよ。 初めて水墨画に描かれている山を見たとき、とても山とは思えなかった。 こんな山があるはずがない! 下手糞な絵を描くものだと子供心に馬鹿にしていたものですよ。 でもねぇ、中国へ行って初めて水墨画で描かれているような実物の山を見た時にはビックリしましたよ。
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「桂林水墨画」の世界
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「百聞は一見にしかず」。。。たぶん、これは雪舟が中国へ行って実物の山を見た時に言った言葉じゃないか! そう思ったほどですよ。
あらっ。。。デンマンさんは実物の変な山を見るために中国に行ったのですか?
もちろん、山だけを見るためではありません。 上海に行ったついでに水墨画の世界に浸りたいと思って田舎に言ったのですよ。
ところで、雪舟さんも中国に行ったことがあるのですか?
あるのですよ。 本には次のような書いてあります。
雪舟は、日本の水墨画の転換期にいる。
雪舟によって「水墨画の日本化」が“始まる”、あるいは“達成された”ということになっているからだ。
雪舟は「日本的水墨画の完成者」ということになっていて、「それまでは“本場の中国の方がエラくて、日本製のものはオリジナリティーのない二流だ”と思われていたのを雪舟が覆(くつがえ)した」ということになっている。
がしかし、これは別に室町時代の評価ではなくて、ず〜っとあとの近代になってからの評価である。
(中略)
中国から日本に帰ってきた雪舟は、大内氏の山口県には行かず、大友氏のいる大分県に行く。
なにしろ当時は応仁の乱でゴタゴタしていた。
雪舟は大分県に天開図画楼(てんかいとがろう)というアトリエを開く。
大友氏の援助があったのは当然のことだろう。
天開図画楼で制作に励んだ後、しばらくの間、雪舟は日本各地を転々と旅する。
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易いように改行を加えています)
156ページ 『ひらがな日本美術氏 2』
著者: 橋本治
1997年8月25日発行
発行所: 株式会社 新潮社
遣唐使は廃止されて定期的に中国へ行くことはなくなっていたけれど、中国文化・芸術は当時ではやはり現在の“アメリカ映画”や“欧米ファッション”のようにもてはやされていた。 だから雪舟も当然、本場の水墨画に触れたいと思って当時の明国に渡ったに違いないのですよ。
。。。で、中国で絵の勉強してきたのですか?
ところが雪舟はそのつもりで中国へ行ったのだけれど、ついに素晴らしい絵の先生に恵まれなかったらしく、自分が日本で師事していた先生である周文(しゅうぶん)。 それに周文の先生である如拙(じょせつ)の絵の方が素晴らしくて、ますます日本人の二人を尊敬したと言うのですよ。
つまり、“灯台もと暗し”だったのですわね。
そうなのです。
でも、雪舟は日本各地を転々として、どうして京都に住まなかったのですか?
あのねぇ〜、雪舟が生きていた頃は京都は応仁の乱で大変だったのですよ。
応仁の乱
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応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約10年間にわたって継続した内乱。
8代将軍足利義政の継嗣争い等複数の要因によって発生し、室町幕府管領家の細川勝元と山名持豊(出家して山名宗全)らの有力守護大名が争い、九州など一部の地方を除く全国に拡大した。
乱の影響で幕府や守護大名の衰退が加速化し、戦国時代に突入するきっかけとなった。
十数年に渡る戦乱によって、主要な戦場となった京都は灰燼と化し、ほぼ全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。
応仁元年(1467年)に起きたことから応仁の乱と呼ばれるが、戦乱期間の大半は文明年間であったため応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれる。
応仁の乱後の京都復興
応仁の乱によって京都を追われた公家や民衆は京都周辺の山科や宇治、大津、奈良、堺といった周辺都市や地方の所領などに疎開していった。
応仁の乱後の文明11年(1479年)に室町殿や内裏の造営が開始されたものの都市の荒廃による環境悪化によって疫病や火災、盗賊、一揆などの発生が頻発したこと、加えて在京していた守護大名やその家臣達(都市消費者として一定の役割を果たしていた)が領国の政情不安のために帰国したまま帰ってこなかったこともあり、京都の再建は順調とは言えなかった。
また、こうした災害を理由とした改元(長享・延徳・明応)が相次いだ。
将軍義政は、義教の死後中断していた勘合貿易を宝徳3年(1451年)に復活させた。
勘合貿易の復活や側近の守護大名及び幕府官僚の財政再建によって、応仁の乱前の幕府財政は比較的安定してはいた。
だが、義政は幕府財政を幕府の権威回復や民衆の救済にではなく、趣味の建築や庭園に費やした。
結果、応仁の乱後の京都の復興は大幅に遅れることとなった。
一方で、町衆主導によって行われたと評価されてきた明応9年(1500年)の祇園祭の再興も本来祇園祭が疫病平癒の祭りであったことを考えると、逆に当時の社会不安の反映が祇園祭再興を促したという側面も考えられる。
また、当時町衆における法華宗受容も社会不安からくる信仰心の高まりと関連づけられる。
それでも明応7年(1498年)頃より京都の住民に対する地子銭徴収が次第に増加していったこと、永正5年(1508年)以後の酒屋役徴収の強化命令が幕府から出されている事からこの時期に京都の人口回復が軌道に乗り出したと考えられ、明応9年の祇園祭の前後数年間が京都の本格的な復興期と考えられている。
出典: 「応仁の乱」
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