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曲屁(きょくべ)(PART 1)

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曲屁(きょくべ)(PART 1)





デンマンさん。。。またおシモの話題でござ〜♪〜ますか?



いけませんか?

曲屁(きょくべ)ってぇオナラで奏(かな)でる曲でざ〜ますか?

だいたい、そういうことらしいのですよ。 『ウィキペディア』で調べたら次のように出ていましたよ。


曲屁

曲屁(きょくべ)とは、音の高さや長さ、強さをさまざまに変えながら放屁することにより、聞き手を楽しませる行為のことである。
曲放(きょくひり)ともいう。

興行として曲屁を行った事例は世界各地に存在し、日本では安永年間に霧降花咲男を称する者が興行を行った記録があるほか、19世紀末のフランスでムーラン・ルージュを中心に活動したル・ペトマーヌ、近年ではイギリスのミスター・メタンなどが知られる。

こうした興行では、放屁の長さや連発といった単純な放屁技能の誇示や、「若い女の屁」「紳士の屁」などさまざまな設定で放屁し分けることで笑いを誘うもの、放屁単独もしくは別の楽器を伴った音楽の演奏などが行われた。
また放屁そのものを聞かせる芸以外に、肛門に管をつないで別の楽器を演奏する、放屁で離れたところにあるろうそくを吹き消す、といった芸も行われた。

2) これが世界一のオナラの威力だ!

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出典: 「曲屁」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




あらっ。。。おほほほほほ。。。世の中には信じられない人が居るのでござ〜♪〜ますわね。。。でも、どうして急に「曲屁」など持ち出してきたのですか?



あのねぇ〜、バンクーバー図書館から借りてきた本を読んでいたのですよ。


(lib20917.gif)



赤枠で囲んだ本でござ〜♪〜ますか?



そうです。 その本の中では次のように書かれていたのです。


庶民の生業(なりわい)

江戸は百万都市でございます。
その人口の約半分近くが庶民ですから、それはそれは様々な職業がございます。
しかし、誰もが好き勝手に江戸に住み、自由に商売ができるわけではございません。
庶民は人別帳で管理され、基本的には親の仕事を受け継ぎます。

それでも、新しく江戸の住人になる者もたくさんおります。
次男以下の者や遊女など、弟子入りや年季奉公で江戸に来る場合などです。
彼らが一人前になったり年季が明けますと、江戸で自分で商売をして暮らすことができます。
ただし、商売のほとんどが株や鑑札が必要ですので、請人や町役人の保証がなければ棒手振にも簡単になれません。

曲屁(きょくべ)



どうにも品のない芸ですが、三味線や小唄に合わせて屁を放(ひ)る曲芸を申します。
梯子屁(はしごっぺ)、祇園囃子(ぎおんばやし)、犬の鳴き声など様々な技があり流行りましたが……「江戸文化」などと申して真似などなさいませんように。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
イラストはデンマン・ライブラリーより)



101、132ページ
『絵でみる江戸の町とくらし図鑑』
善養寺ススム 文・絵
江戸人文研究会 編
2011年6月1日 初版第1刷発行
発行所: 廣済堂あかつき株式会社




この本は220ページの本なのですよ。 図鑑といっても厚い大きな本じゃなくて片手でパラパラめくれるような比較的小さな本です。 その本の半分近くが江戸時代の職業を紹介している。



江戸時代には「曲屁」を商売にしていた人がそれほど居たのでござ〜ましょうか?

意外にたくさん居たようです。

でも、オナラを自由自在にぶちかますなんてぇ、人の技(わざ)とは思えませんわ。 それほど自由に出るものでござ〜♪〜ましょうか?

あのねぇ〜、誰もがそのような疑問を持つと思うのですよ。 自由に屁を出すなんて、考えただけでもできるわけがないのですよ。

それなのに、自由にオナラを出してそれを商売にする人たちが居たというのは、どういうわけなのでござ〜ますか?

僕も不思議に思って調べてみたのですよ。

どのようにすると自由にオナラだ出せるか解ったのですか?

解りました。 「曲屁」の説明の中に出てきた人物「19世紀末のフランスでムーラン・ルージュを中心に活動したル・ペトマーヌ」さんについて調べてみたのですよ。 次のように書いてありました。


ル・ペトマーヌ (Le Pétomane)

ル・ペトマーヌはフランスの曲屁師(放屁芸人)であったジョゼフ・ピュジョル(Joseph Pujol, 1857年6月1日 – 1945年)の芸名である。
腹部の筋肉に加える力を調整することにより、意のままに放屁しているかのように見せる芸で知られる。
芸名はフランス語の動詞péter(放屁する)に接尾辞-mane(…狂)を加えた形で、「放屁狂」を意味する。

なおピュジョルの芸は本物の屁を用いた芸であると思われがちであるがそうではなく、直腸に向かって空気を吸い込み、この空気を肛門括約筋を加減しつつ放出していた、というのが真相である。
こうした実態は、ピュジョルが芸を披露し始めた初期、軍隊時代に同僚兵に向かって行った際の記録にも示されている。

軍に入隊したピュジョルは、同僚兵に自分の特殊能力について語り、平鍋に張った水を直腸に吸い込み、その水を肛門からあたり一面に撒き散らす芸を座興として何度も披露した。
やがてピュジョルは水だけではなく空気も吸ったり出したりできることに気付いた。
除隊してパン屋になったピュジョルは、肛門からの空気で楽器のような音を出してみせ、顧客を楽しませた。
ピュジョルはこの芸で舞台に上がってみたいと決意、1887年、マルセイユで放屁芸の公演を始めた。
この芸は好評で、1892年にはパリに移り、ムーラン・ルージュで芸を披露するようになった。

公演の目玉は大砲の砲撃音や雷鳴の音を出すもののほか、肛門とオカリナをゴム管でつなぎ、『オー・ソレ・ミオ』や『ラ・マルセイエーズ』を演奏するなどというものもあった。
何メートルも離れたところからろうそくを吹き消すこともできた。
アルバート・エドワード王太子、ベルギー国王レオポルド2世、ジークムント・フロイトといった人々も、ピュジョルの芸を観た。

しかし1894年、経済的に困窮した友人を助けようと即興で芸を披露したことが原因で、ピュジョルはムーラン・ルージュの興行主から訴えられてしまう。
ムーラン・ルージュ側は勝ったものの、たった3000フランを得ただけで、1回の公演で20000フランを稼ぐ呼び物であったピュジョルを失うことになった。

ムーラン・ルージュを去ったピュジョルはテアトル・ポンパドゥールの名で旅回りの一座を組んだ。
この時期、ピュジョルは芸を洗練し、もっと上品なものにしようと力を注いだ。
得意の演目は農場を描いた自作の詩に、肛門から出す動物の声を交えたものであった。

しかし第一次世界大戦が勃発、戦乱の残酷さに直面して意欲を失ったピュジョルは舞台をやめ、マルセイユのパン屋に戻った。
後にトゥーロンでビスケット工場を開いた。
1945年、ピュジョルは88歳で死んだ。
遺体はラ・ヴァレット=デュ=ヴァールの墓地に埋葬され、今でもそこに墓が残る。
死後、多額の金と引き換えに遺体を調べたい、という申し出が医学校からあったが、遺族が申し出を受け入れることはなかった。

ピュジョルの至芸はその後も長く語り継がれ、その人生を元に小説・音楽・映画などさまざまな芸術作品が制作された。



出典: 「ル・ペトマーヌ」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




あらっ。。。うふふふふふ。。。これはチョンボじゃござ〜ませんか! 本物のオナラではないのですわね。



そうなのですよ。 直腸に向かって空気を吸い込み、この空気を肛門括約筋を加減しつつ放出するのですよ。

かなり特殊な技(わざ)ですわね。

でもねぇ、僕はこの部分を読んで不意に思い当たる事があった。 実は、僕は高校時代に体操部に居たことがあって、床運動の練習をしている時に仰向けになって両脚を顔の上に持ってくる。 そうなると、尻がグッと持ち上げられて、ある角度になると、直腸に向かって空気が吸い込まれることを偶然に発見したことがあった。

あらっ。。。マジで。。。? 。。。んで、その吸い込まれた空気をオナラのようにしてブッとぶっ放すことができたのでござ〜ますか? うふふふふふ。。。

いや。。。音までは出そうとしなかったけれど、今でも空気を直腸に出し入れできますよ。 音を出そうと思えば、多分できると思うのですよ。 ただ、そのような馬鹿らしい事をする気にならないだけです。 うへへ屁へへ。。。

あらっ。。。訓練すればデンマンさんもバンクーバーの「ル・ペトマーヌ」として世界的に有名になれるのではござ〜ませんか?

いや。。。たとえ出来るようになったとしても、そのようなバカバカしい事をしてまで金儲けしようとも、有名になろうとも思いませんよ。

つまり、その事を言いたいために、わざわざ「曲屁」を持ち出してきたのでござ〜ますか?

いや。。。違うのですよ。 ぼくは本の中で次の箇所を読んだのですよ。


江戸の町

新吉原(しんよしはら)


(yoshi02.jpg)

人形町あたりにあった吉原が、浅草の北に移されたのは明暦の大火の年、明暦3(1657)年です。
正月に江戸が丸焼けになりましたが、その6月には浅草田んぼの中に完成するという早業でした。

田んぼの中を左右に貫くのが「日本堤(にほんづつみ)」。
左に行きますと待乳山(まっちやま)や猿若町(さるわかちょう)のある大川(隅田川)岸になります。
新吉原へは、猪牙舟(ちょきぶね)で待乳山まで来まして、そこから歩くか、駕籠(かご)に乗るというのが定番です。
そのため土手の上には掛茶屋(かけちゃや)や「西瓜(すいか)の断売(たちうり)」などの辻商(つじあきない)が賑やかに軒を連ねています。

吉原の正面に着きますと、お客が「襟(えり)を正す」という「衣紋坂(えもんざか)」。
降りて右手に高札場(こうさつば)、左手には「見返り柳」があります。
両脇に吉原内の茶屋を紹介してくれる茶屋が並ぶ「五十間道」をつ〜っと行きますと、正面が「大門(おおもん)」です。
吉原の門はここひとつっきりで、周りは御歯黒溝(おはぐろどぶ)が囲っています。

中央を貫く大通りの両脇に茶屋が並び、ここで皆さんお酒を飲んで座敷遊びを楽しみます。
一般の女性は普段は入れませんが、桜の見物ができました。
しかし、この桜の来は花の時期だけの移植で、秋には紅葉(もみじ)が植えられます。

(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)



60-61ページ
『絵でみる江戸の町とくらし図鑑』
善養寺ススム 文・絵
江戸人文研究会 編
2011年6月1日 初版第1刷発行
発行所: 廣済堂あかつき株式会社




この部分に何か面白いことでも書いてあるのですか?



いや。。。特に僕の興味を惹くことが書いてあったわけじゃない。

それなのに、どうして「新吉原」を取り上げたのでござ〜♪〜ますか?

あのねぇ〜、このページを読んでからバンクーバー図書館で借りてきたDVDを観たのですよ。


 (すぐ下のページへ続く)



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