記憶のデフォルメ(PART 1)
この絵の不思議さと謎は、部屋という三次元空間にいる画家の筆先が、この作品は単に平面の絵画ですよ、立体像ではなく、キャンバスに描かれたペラッとした絵具が塗られたただの裸婦像ですよ、といっているのがわかる。
このややこしい二重性がぼくの筆力によってどれほど理解されたか少々心配だが、なんとなく分かっていただけただろうか。
もちこの絵が裸婦だけを描いたものであれば、左手は未完成のまま終わってしまったのだろうな、と鑑賞者に想像させるだけで十分なのだが、この絵をややこしくさせてしまったのは腕の続きを描く画家自身が画面の中に入り込んでしまったからだ。 なんだか食べ物が喉にひっかかったようなすっきりしないものを感じるが、ここはマグリットのペテン師的才能である。
ある意味では観念的(コンセプチュアル)な作品である。 現代作家に人気があるのもこのようなマグリットの観念的な発想に魅かれるからであろう。 ぼくは観念的な芸術をあまり好きになれない。 言葉や論理が優先する頭脳的な芸術よりも、肉体に直接響くような官能する作品が好きである。 芸術は生命の表象したものだと思っているからだ。
でもマグリットはなぜか好きである。 どういうところが好きであるかというと、彼の一枚の絵には何種類かの違った描写がされているからである。
この作品に関しては該当しにくいが、大抵の絵には実物を見ながら描いた部分、目の記憶によって描いた部分、写真や図版を模写するように描いた部分、これらの3つの、または4つの要素が一枚の絵の中に見事に調和しながら共存しているのである。 マグリットの絵の不思議さはアイデアにもよるが、この多様な様式の統合に負う部分も多いのである。
ぼくがマグリットを愛するのはこの後者の考え方である。 このことによってマグリットは本物のような嘘の現実を演出する。 これは丁度われわれの記憶が、真実と作りものによって構成されていることに似ている。 記憶というのは時間とともにどんどん変化していく。 マグリットの多様な様式はこのように変化していく時間を描いているように思うのである。
(注:写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました。
なお、ビキニはデンマンが描き加えたものです。
赤字はデンマンが強調)
82 - 83ページ
『名画 裸婦感応術』
2001年6月15日 初版第1刷発行
著者: 横尾忠則
発行所: 株式会社 光文社
デンマンさん...どうしてオリジナルの絵にビキニを描き加えたのですか?
あのねぇ〜、ヌードをそのまま表示すると削除される恐れがあるのですよ。 僕の記事やブログは、これまでに何度も削除されていますからね。 念のためにビキニを描き加えて口うるさいオバタリアンやオジタリアンの目にも教育上問題にならないようにしたわけですよ。
でも美術に関心のある人にとっては芸術に対する冒涜(ぼうとく)と映るのではありませんか?
確かに、そうのように受け留める人が居るかもしれません。 でもねぇ、裸婦像を表示したために僕のブログが削除されたら本末転倒ですからね。 言論の自由を認めても表現の自由となると理解できない人が居るのですよ。 そのような教養程度の低い人のために芸術を愛する人は表現の自由にバカバカしい制限を受けてしまう。 ビキニを描き込むなんて、本当にバカバカしい事なんですよ。
つまり、この場合、表現の自由よりもブログの方が大切なのですか?
その通りですよ。 削除されたら言論の自由も表現の自由も無くなりますからね。 なるべく削除されないように、最近は気をつけているのですよ。
分かりました。 それでデンマンさんは上のマグリットの絵がお気に入りなのですか?
いや。。。お気に入りと言うほどハマッているわけではありません。 たまたま『名画 裸婦感応術』を読んでいたら上の絵に出くわしたわけなのですよ。
。。。で、その絵と「記憶のデフォルメ」が関係あるのですか?
そうです。。。関係あるのですよ。 上の赤字にした部分を読んだ時に僕はハッとして次のメールがあざやかに蘇(よみがえ)ってきたのですよ。
件名:小百合さん、おはよう!
夕べからパソコンの調子が
いいですよう。
きゃはははは。。。
Date: 18/08/2010 9:58:04 AM
Pacific Daylight Saving Time
日本時間:8月19日(木曜日)午前1時58分
From: denman@coolmail.jp
To: sayuri@hotmail.com
CC: barclay1720@aol.com
まだ、これからシャットダウンすることがあるかもしれないけれど、夕べ10時頃パソコンが再起動してから、これまで一晩寝て起きても動いていますよう!
万歳!
パソコンのことで気を取られていて、町子さんのことを書いたかどうかあやふやになっていたけれど、書いていたんだよね。
そのメールを出だしに使って8月19日の記事を書いて夕べ予約投稿したのです。
題して「厳しさの中の名演」ですよ。
時間があったら読んでみてね。
■『厳しさの中の名演』
(2009年8月19日)
不思議なもので、高橋治の「絢爛たる影絵 − 小津安二郎」を読んだら、大坂志郎と原節子がお寺の縁側に出て、本の中に書いてあるとおりの演技をしたシーンが鮮明に思い出されたのですよう。
映画を見てから少なくとも15年は経っている!
映画のシーンだから、僕の人生とは直接に関係ないことだけれど、記憶に鮮明に焼きついている。
そういう事ってぇあるんだね。
もちろん、本を読まなかったら、多分、永久に記憶の片隅に追いやられていたかもしれない。
ただ、僕の記憶の中では、大坂志郎と原節子は畳の上であのシーンを演技したのではないのですよう。
お寺の縁側だった。
つまり、畳ではなくて板の縁側だったのですよう。
小津監督に徹底的に特訓を受けて、大坂志郎は汗をじっとりとたらし、その汗が畳に染み込んで畳の色が変わってしまった。
それで、本番の時に畳を一枚取り替えた、と書いてあるけれど、僕の記憶を探っても、どこにも畳は出てこない。
あの部分は小津監督の厳しい指導を表現するための高橋治の創作ではないのか?
板の間では、厳しさが表現できない。
畳の色が変わるほど大坂志郎が汗を出して演技をしたからこそ、読む人に小津監督の厳しさが伝わる。
そう、思ったのだよ。
いつか DVDを借りてきて畳だったか板の間だったか?じっくりと観てみるつもりです。
それにしても、10月だというのに、畳の色が変わるほど演技をすると言うのはすごいよね。
ところで、今朝のバンクーバーは、初秋という感じになりました。
午前8時半には空に雲が半分ほどかかって、お日様が顔を覗かせていたけれど、今は、すっかり雲に隠れて、お日様の顔が見えません。
爽やかで涼しい秋の気配を感じながら、こうしてメールを書いてます。
小百合さんも田舎の山の家で爽やかで涼しい秋の気配を感じていますか?
多分、日本の田舎では、まだまだ暑苦しい日々が続いているのだろうね。
とにかく、軽井沢タリアセン夫人になりきって、元気で楽しくルンルン気分で過ごしてね。
じゃあね。
『畳とおばさんパンツ』より
(2010年8月21日)
つまり、高橋さんの本の中では小津監督に徹底的に特訓を受けて、大坂志郎さんは汗をじっとりとたらし、その汗が畳に染み込んで畳の色が変わってしまった、となっているのですわね。
そうなのですよ。 でもねぇ、僕の記憶の中では畳の上ではなく大坂志郎さんはお寺の縁側に座っているのですよ。 要するに板の縁側ですよ。 畳ではないのです。
それで、デンマンさんはバンクーバー図書館からDVDを借りてご覧になったのですか?
そうなのですよ。 その証拠の画面を次に見せます。
■実際の図書館のページ
あらっ。。。デンマンさんはコメントを書いていますわね!?
分かりますか?
分かりますわよ。 赤い四角で囲んであるではありませんか!
実は、大坂志郎さんの畳の上の場面をソフトカメラで撮るのを忘れてしまって4月15日にまた予約したのですよ。 Holds:2 となっているのは、このDVDを待っている人が二人居るということです。 僕は2番目なのですよ。 予約した時に、ついでだと思って記念にコメントを書いたのですよ。 うししししし。。。
それで、大坂志郎さんの場面は、やっぱり畳だったのですか?
そうなのですよ。 僕の記憶はすっかり変わっていたのですよ。 大坂さんは板の縁側には座っていなかった。
縁側と「本堂の畳の間」は、同じ平面ではなくて本堂の畳の間が20センチぐらい高くなっているのですよ。 それで大坂さんは上の場面で立ち上がって本堂の端の方に歩いてゆく。 それから畳の端に腰を下ろすのです。 ちょうど低い椅子に腰掛けたようになって両足は縁側に出ている。 その背後に原節子さんが追いかけるようにやって来るのです。 確かに大坂さんの尻は畳の上にあるのですよ。
でも、どうしてデンマンさんの記憶が変わってしまったのですか?
われわれの記憶が、
真実と作りものによって
構成されていることに似ている。
記憶というのは時間とともに
どんどん変化していく。
あのねぇ〜、もう10年以上前になるのだけれど、僕は1度暑い夏の盛りに行田市の実家に帰省したことがあるのですよ。 その夏は特に暑くて山梨大学で教授をやっている先輩を訪ねた時、40度近くまで気温が上がって、うだるような暑さに懲りて、それ以来夏に帰省することをやめてしまったのです。 山梨から帰って、その後で母方の祖父と僕の母親の弟(叔父)の供養があって旧・南河原村の長徳寺へ行った。
(すぐ下のページへ続く)