裸婦と今一つの世界(PART 2 OF 3)
こないな事を2007年の4月に書いていたのやがなァ。
あんさんはホンマにくどいなァ〜!
ん。。。? わてがくどい?
そうやんかァ! 上の手記は何べんもあんさんが引用しましたやんかア!
それを知っているのなら、はよう認めんかいなァ! めれちゃんが惚けているから、わてが持ち出してきたのやないかいなァ。
それで、あんさんは何が言いたいねん?
つまり、めれちゃんが江戸川乱歩だけではなくて横尾忠則のイラストからも大きな影響を受けていると言いたかったのや。
そんな事、この記事を読みはってる人には関係あらへん。
あのなァ〜。。。例えとして出したまでやァ。
何の例え。。。?
横尾忠則さんもマルグリットの影響を強く受けてるねん。 つまり、人間っつうもんは。。。、めれちゃんだけやなしに、刺激的な芸術からは、やっぱり強烈な影響を受けるものなのやァ。
なんでマグリットを持ち出してきやはったん?
わては4月17日の記事の中でマグリットの絵を紹介したのやァ。
この絵の不思議さと謎は、部屋という三次元空間にいる画家の筆先が、この作品は単に平面の絵画ですよ、立体像ではなく、キャンバスに描かれたペラッとした絵具が塗られたただの裸婦像ですよ、といっているのがわかる。
このややこしい二重性がぼくの筆力によってどれほど理解されたか少々心配だが、なんとなく分かっていただけただろうか。
もちこの絵が裸婦だけを描いたものであれば、左手は未完成のまま終わってしまったのだろうな、と鑑賞者に想像させるだけで十分なのだが、この絵をややこしくさせてしまったのは腕の続きを描く画家自身が画面の中に入り込んでしまったからだ。 なんだか食べ物が喉にひっかかったようなすっきりしないものを感じるが、ここはマグリットのペテン師的才能である。
ある意味では観念的(コンセプチュアル)な作品である。 現代作家に人気があるのもこのようなマグリットの観念的な発想に魅かれるからであろう。 ぼくは観念的な芸術をあまり好きになれない。 言葉や論理が優先する頭脳的な芸術よりも、肉体に直接響くような官能する作品が好きである。 芸術は生命の表象したものだと思っているからだ。
でもマグリットはなぜか好きである。 どういうところが好きであるかというと、彼の一枚の絵には何種類かの違った描写がされているからである。
この作品に関しては該当しにくいが、大抵の絵には実物を見ながら描いた部分、目の記憶によって描いた部分、写真や図版を模写するように描いた部分、これらの3つの、または4つの要素が一枚の絵の中に見事に調和しながら共存しているのである。 マグリットの絵の不思議さはアイデアにもよるが、この多様な様式の統合に負う部分も多いのである。
ぼくがマグリットを愛するのはこの後者の考え方である。 このことによってマグリットは本物のような嘘の現実を演出する。 これは丁度われわれの記憶が、真実と作りものによって構成されていることに似ている。 記憶というのは時間とともにどんどん変化していく。 マグリットの多様な様式はこのように変化していく時間を描いているように思うのである。
(注:写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました。
なお、ビキニはデンマンが描き加えたものです。
赤字はデンマンが強調)
82 - 83ページ
『名画 裸婦感応術』
2001年6月15日 初版第1刷発行
著者: 横尾忠則
発行所: 株式会社 光文社
『記憶のデフォルメ』に掲載
(2011年4月17日)
上のマグリットの絵を見ると横尾さんが描いた次の挿絵が影響を受けているのが、よう判るのやァ。
江戸川乱歩 『闇に蠢く』
横尾忠則の挿絵
そうやねぇ〜。。。言われてみれば手を描き込んだところはマグリットのアイデアを真似たのかも知れへん。。。で、あんさんはこの事が言いたかったん?
いや、そればかりではあらへん。
。。。で、他に何が言いたねん?
次の小文を読んでみれば、めれちゃんにも分かるでぇ〜。。。
三島由紀夫は、横尾作品の評をもとめられた時、「日本固有のものだ、と考えられていた横尾の土着感覚は、実は、世界中のあらゆる民族が持っている土着的なものと、どこかで類縁性がある」という意味のことを書いた。 どの民族の神話もお伽噺も、話の骨格もタッチも、よく似ていることが、その証明となる。
(中略)
名声は、ロックシーンにまでおよび、サンタナからLP「ロータスの伝説」のジャケット製作を直接依頼され、サンタナの音楽以上に、その二十二面観音開きの作品は“驚異”の評価を受けた。 大島渚監督の映画『新宿泥棒日記』に主演男優として出演した。 また写真家宣言をして、当時としては世界記録(それまではジミー・ヘンドリックスのLP「エレクトリック・レディランド」の10名ほど)の36名の女優を河口湖畔につれてゆき大スペクタクル・素人完全ヌード写真を撮影した。
横尾さんの、多方面のはなやかな活動は、無名の若者たちを刺激し、イラストレーターという地味な仕事を、憧れの職種ナンバーワンにおしあげた。
(中略)
冥感(みょうかん)という言葉がある。 真心、あるいは自分をからっぽにして、神仏に接すると、神仏すら感動させてしまう、という意味だ。 横尾さんの作品にも人格にも、そういう、いたずらっぽい冥感があり、世界中の人々、有名無名人をとわず、“YOKOO”に会いたい、会いたい、といわれ続ける。 デイビッド・ボウイから、禅の高僧までも横尾家の応接間のソファに座る。
(中略)
横尾さんの冥感が、ただ一度だけ、ただ一人にだけは通じなかったことがある。 1970年代のある日、スペインのポルトリガトにある、古城のような、サルバドール・ダリの家の門をたたく。 ダリは、自分の絵画技術が超絶すぎるという理由で、ガラ夫人の霊感にたよって絵を描いていた。 そのガラ夫人がでてきて、いきなり横尾さんにむかって、現代経営学的な罵詈雑言をはく。 多分、ガラ夫人は、横尾さんと異なる宇宙観=暗黒銀河団系、を持っていたのだと思う。 横尾さんは銀河系宇宙観の代表芸術家のような人だから…。 隕石の衝突のような出会いだった。
(注:写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました。
赤字はデンマンが強調)
179 - 184ページ 『オーラな人々』
2009年2月28日 初版発行
著者: 椎根 和 (しいねやまと)
発行所: 有限会社 茉莉花社
つまり、三島由紀夫さんと横尾さんとのつながりを持ち出したかったん?
まあ。。。そう言う事やなァ。
でも、どないなわけで三島さんが関わってきやはるのォ〜?
横尾さんは横尾さん独自の世界を作り出したと、わては思うておるねん。
つまり、三島さんも三島さんの独自の世界を作り出したと。。。?
そうやァ。。。そう言う訳で二人は、何か共感するモノを共有していたと、わては感じるねん。
三島さんの独自の世界ってぇどないなモノやのォ〜?
次の小文を読めば、めれちゃんにも見当がつくはずやァ。
三島由紀夫の遺作となった小説『豊饒の海』第一巻『春の雪』は、作者が美智子妃への思いをもとに、想像力の赴くままに書き上げた私小説である。
その結末は破天荒で、これが戦前ならば不敬罪に当たることを、作者は百も承知で書き進めた。 そしてその頃、生涯の計画として、人の意表を衝く「死に場所」を求めていた三島は、その完成の日こそ己れの自決の日であると、秘かに心に決めていた。
その執筆と併行して彼が組織した「楯の会」は、“左翼革命”が起こるであろう日、自衛隊を先導して、硝煙けむる二重橋を渡り、火傷するほど熱い握り飯を捧げ持って、意中の人に献上するための私兵であった。
ところが、三島の期待に反した“左翼革命”は、待てども起こらなかった。
昭和43年、44年と学生デモ隊は警察機動隊の力で徹底的に鎮圧され、自衛隊の出動は見送られ、憲法改正の機会も見失われて、ついに「楯の会」は栄えある出陣の場を失ってしまったのである。
三島由紀夫が自由に生きた時代、それは昭和20年8月15日、敗戦の日で終わった。
次郎 …女はシャボン玉、お金もシャボン玉、名誉もシャボン玉、そのシャボン玉に映っているのが僕らの住んでいる世界、そんなこと、みんな知ってらあ。
菊 ただ言葉で知っておいでなだけでございますよ。
次郎 うそだ。 僕はみんな知っちゃったんだよ、だから僕の人生は終わったのさ。
(『邯鄲(かんたん)』昭和25年)
三島は、現人神(あらひとがみ)が「人間天皇」となった昭和の御代(みよ)を怒り、呪った。
大正10年(1921)11月25日は皇太子裕仁が大正天皇の摂政に就任し、事実上、昭和の御代が始まった日であるが、三島はこの11月25日という日を決行の日に選び、自衛隊に突入したのではないかと考えられる。
(中略)
現代において、何かを創造するには、歴史感覚の欠如や社会性への無視は許されないが、三島が生涯にわたって愛読した『葉隠』には、ある種の時代錯誤を感じないではいられない。 この書は、真の武士道とはほど遠く、三島の人生誤算の大きな原因となったのではあるまいか。
(注:写真はデンマン・ライブラリーから貼り付けました。
赤字はデンマンが強調)
280 - 283ページ
『三島あるいは優雅なる復讐』
2010年8月26日 第1刷発行
著者: 高橋英郎
発行所: 株式会社 飛鳥新社
『アナクロニズム』に掲載
(2011年3月27日)
三島さんの世界は昭和20年8月15日、敗戦の日で終わったと、書いてますやん。
その通りやァ。
そやけど、それ以後の三島さんの世界について何も書いてまへん。
いや。。。全く書いてないわけではあらへん。 『葉隠』の世界が三島さんの戦後の世界に大きな影響を与えたと、わては思うておるねん。
そやけど、それは時代錯誤の世界ですやろう?
そうかもしれへん。。。そやけど、どないな世界を持とうと個人の問題やァ。 世間の知った事ではあらへん。 江戸川乱歩先生は次のように言うてるねん。
(すぐ下のページへ続く)