桜と名女優 (PART 2)
原節子
戦争後の翌年、1946年9月、原は資生堂のイメージガールに起用され、戦後初の多色刷りポスターが街中を賑わせた。
さらに黒澤明監督の戦後初の作品『わが青春に悔なし』のヒロインに抜擢される。
当時の東宝はいわゆる東宝争議のさなかにあり、そのあおりを受けた原は新東宝映画製作所に移るが、1947年6月フリーの女優として独立する。
フリー第一作は初の松竹出演作品となった『安城家の舞踏会』(1947年)であった。
同作のヒットで原は戦後のトップ女優としての地位を確立した。
つづく1949年の『青い山脈』では女性教師役を演じ、服部良一作曲の同名主題歌とともに映画も大ヒットした。
同年、初めて小津安二郎監督と組んだ作品『晩春』に出演。
以後、1961年の『小早川家の秋』まで小津監督の6作品に出演を果たすことになる。
原は一般的に小津作品での印象が強いが、出演作の中でもっとも多くメガホンをとったのは山本薩夫監督(7本)であり、以下6本で小津、島津保次郎、渡辺邦男、今井正が続く。
小津は女優としての原節子を絶対的に高く評価し、自らの作品に起用し続けた。
小津は昭和26年に「原節子ほど理解が深くてうまい演技をする女優は珍しい。『原節子は大根だ』と評するのはむしろ監督が大根に気づかぬ自分の不明を露呈するようなものだ。実際、お世辞抜きにして、日本の映画女優としては最高だと私は思っている。」と絶賛している。
1949年(昭和24年)には『晩春』、『青い山脈』、『お嬢さん乾杯』の演技が評価され、毎日映画コンクールの女優演技賞を受賞した。
ルックス先行の人気、とささやかれてきた原にとって演技面での評価をうけることは長きにわたる宿願であった。
1952年の『東京の恋人』以降、しばらく出演作が途絶えたことで、マスコミから「伝説の存在」と表現されるようになる。
原が現場に復帰した1953年、『白魚』の御殿場駅での撮影中、原の眼前で実兄会田吉男(東宝のカメラマンであった)が助手の伊藤哲夫と共に列車にはねられ、不慮の死をとげるという悲劇にあう。
小津と原の代表作になった『東京物語』はこの事件の直後にクランクインしている。
1954年、原は体調を崩して通院を繰り返すことになり、引退をささやかれるようになる。
1955年に公開された『ノンちゃん雲に乗る』では初めて母親役を演じる。
体調が回復した1956年の作品『婚約三羽烏』が原にとって初のカラー作品であった。
1961年、日本映画の年間製作数は548本に達するが、これをピークに映画産業は斜陽化していく。
1962年、稲垣浩監督による東宝創立三十周年記念作品『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』が封切られ、原は大石内蔵助の妻りくを演じた。
これが彼女にとって最後の出演作品となった。
1963年12月12日、小津が東京医科歯科大学附属病院で死去。
その通夜に出席したのを最後に女優業を事実上引退し、以降表舞台には一切姿を見せなくなった。
現在は鎌倉市で親戚と暮らしているとされる。高橋治は原が「小津の死に殉じるかのように」公的な場から身を引いたと表現している。
朝日新聞は文化面で「はじめての原節子」を特集した。
その中で原と共演したことがある司葉子は原の一番の魅力を「清潔感」と指摘、「演技では出せない生地の魅力」と述べた。
現役女優の頃は美貌のトップ女優で、その早い引退と引退後の完全な隠遁生活なども同じことから『日本のグレタ・ガルボ』と言われている。
出典: 「原節子」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
もう亡くなられたのですか?
亡くなったという話は聞いたことがありません。 生きていれば、生まれが1920年6月17日だから、現在92歳ですよ。
原節子さんは小津監督が亡くなられると、殉じるように公的な場から身を引いたと言うことが桜の花のように潔(いさぎよ)いとデンマンさんは思うのですか?
もちろん、それも潔いと思う理由だけれど、原節子さんの身の振り方を見ると中国の故事が思い出されるのですよ。
その故事って。。。?
「琴の緒を断つ」という故事ですよう。 断琴(だんきん)とか絶弦(ぜつげん)とも言われる故事です。
琴の緒絶ゆ(ことのおたゆ)
中国の春秋時代、琴の名人伯牙(はくが)が、友人の鍾子期(しょうしき)が死んだとき、もはや自分の琴を理解する者が居ないと言って琴の緒を絶ち、生涯琴を弾かなかったという。
「呂氏春秋」本味の故事から
親友・知己に死別するたとえ。
琴の緒を断つ。
伯牙断琴(はくがだんきん)
伯牙絶弦(はくがぜつげん)
つまり、小津監督が亡くなった時、役者としての自分を最も理解してくれた人が消えたので、原さんは琴の名人伯牙(はくが)のように潔く引退したのですよ。
要するに、二人のどちらが欠けても駄目であったというわけですか?
おそらく二人には映画を創作することで結ばれた「愛の絆」があったと僕は感じますね。 小津監督は独身を通し、原節子さんも他の人と結婚しようとはしなかった。
【卑弥子の独り言】
ですってぇ〜。。。
「桜の絆」でしょうか?
でも、梅の花も捨てたものではござ〜♪〜ませんわ。
梅と言えば何と言っても太宰府天満宮にある「飛梅」が有名です。
(dazaifu2.jpg)
菅原道真の詠んだ有名な歌をご存知でしょうか?
そうです。
「東風(こち)吹かば。。。」という歌が有名です。
ところで、この歌に2つのバージョンがあるのを知ってますか?
東風(こち)吹かば
匂ひをこせよ
梅の花
主なしとて
春な忘れそ
【初出:1180(治承4)年頃の編纂と考えられる『宝物集』巻第二】
東風(こち)吹かば
匂ひをこせよ
梅の花
主なしとて
春な忘るな
【初出:1005(寛弘2)年頃に編纂された『拾遺和歌集』巻第十六 雑春】
伝説の語るところによれば、菅原道真を慕う庭木たちのうち、桜は、主人が遠い所へ去ってしまうことを知ってからというもの、悲しみに暮れて見る見るうちに葉を落とし、ついには枯れてしまったというのでござ〜ますわ。
しかし梅と松は、道真の後を追いたい気持ちをいよいよ強くして、空を飛んで行ったのですってぇ〜。
ところが松は途中で力尽きて、摂津国八部郡板宿(現・兵庫県神戸市須磨区板宿町)近くの後世「飛松岡」と呼びならわされる丘に降り立ち、この地に根を下ろしたのだそうです。
一方、ひとり残った梅だけは見事その日一夜のうちに主人の暮らす大宰府まで飛んでゆき、その地に降り立ったというのですわ。
ちょっと眉唾ですけれど。。。
飛梅伝説の現実的経緯としては、一説に、道真に仕えて大宰府にも同行した味酒保行が株分けの苗木を植えたものとも、道真を慕った伊勢国度会郡(現・三重県度会郡)の白太夫という人物が大宰府を訪ねる際、旧邸から密かに持ち出した苗木を献じたものとも言われているのでござ〜ますわ。
道真が自ら梅を植えたとも考えられるこの飛梅伝説は、他の地方にも見られ、若狭国大飯郡大島(現・福井県大飯郡おおい町大島半島の大島)の宝楽寺、備中国羽島(現・岡山県倉敷市羽島)、周防国佐波郡内(現・山口県防府市松崎町)の防府天満宮などが知られているのでござ〜♪〜ますう。
とにかく、興味深い話題が続きますゥ。
どうか、あなたもまた読みに戻って来てくださいませ。
じゃあ、またねぇ。。。
ィ〜ハァ〜♪〜!
メチャ面白い、
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こんにちは。ジューンです。
菅原道真さんはとっても頭が良かったそうです。
だから学問の神様になったのでしょうね。
日本には次のような諺があります。
“天才と馬鹿は紙一重”
あなただって聞いた事があるでしょう?
もちろん外国でも
似たような諺がたくさんありますわ。
ところで、英語では何と言うのでしょうか?
考えてみた事がありますか?
次のように言えるでしょうね。
There is only a thin line
between genius and stupidity.
“天才と狂気は紙一重”
これは次のように言います。
There is only a thin line
between genius and insanity.
ところで、英語の面白いお話を集めました。
時間があったら覗いてみてくださいね。
■ 『あなたのための愉快で面白い英語』
では、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。
じゃあね。