呉越の謎(PART 1)
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デンマンさん。。。「呉越の謎」って“呉越同舟”の呉の国と越の国のことでござ〜♪〜ますか?
あれっ。。。卑弥子さんは古代史に詳しいのですね。
こう見えても『新しい古代日本史』のマスコットギャルをやらせてもらっているのでござ〜ますわ。 おほほほほほ。。。
■『新しい古代日本史』
“呉越同舟”の意味を卑弥子さんは知っているのですか?
あ〜らァ、いやだわあああァ〜。。。こう見えても京都の女子大学で日本の未来を背負って立つ腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義してういる教職の身にあるものでざ〜ますわァ。 “呉越同舟”の意味ぐらい知っておりますわよう。 うふふふふふ。。。
マジで。。。?
いやだわあああァ〜。。。デンマンさんは、あたくしが知らないとでも妄想しているのでござ〜ますか?
余計な事は言わずに知っているのならすぐに答えてくださいよ。 それでなくとも僕の記事は長くなるのだから。。。
デンマンさんはあたくしを小馬鹿にしているのですわね。 んもお〜〜!
オラ、オラ、オラ〜。。。ムカつかないで知っているのならすぐに答えることですよ。
“呉越同舟”と言うのは日本の諺で言うならば「船頭多くして船山に登る」と言うことですわ。 英語で申し上げるならば"Too many cooks spoil the broth."と言うことでざ〜ますう。
あれっ。。。卑弥子さんは英語の諺まで知っているのですか?
当然ですわ! 馬鹿にしないでくださいましなァ! これでも京都の女子大学で日本の未来を背負って立つ腐女子に「日本文化と源氏物語」を講義してういる教職の身にあるものでざ〜ますう。
いや、いや、いや。。。 おみそれしました。 京都の腐女子に「日本文化と源氏物語」を教えているのに、英語の諺まで口に出せるとはマジですっご〜♪〜いですね。。。 で、"Too many cooks spoil the broth."の意味は。。。。?
あらっ。。。まだ、あたくしを小馬鹿にするのですわね。 あたくしが英語の意味を知らないとでも思っているのですか? 「コックが多すぎてスープが出来損なってしまう」という意味ですわよ。
ほおォ〜。。。卑弥子さんは英語の素養もあるのですねぇ〜。。。おみそれいたしました。
そんなことよりも、「呉越の謎」ってぇ、一体どのようなことでござ〜♪〜ますか?
そう。。。そのことですよ。 卑弥子さんも知っているように11月20日に僕は次の記事を書いたのですよ。
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呉公
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呉女
■『伎楽は呉の音楽?』
(2012年11月20日)
もちろん知っておりますわ。 あたくしがデンマンさんのお相手をしていたのですから。。。
こうして伎楽を通して呉の国で暮らしていた人の姿が伎楽で使われている「お面」として古代の日本に伝わっていたのですよ。 つまり、呉の国と日本は古代に強い絆(きずな)で結ばれていた。
マジで。。。?
ジューンさんも次のように書いていましたよ。
【ジューンの独り言】
ですってぇ〜。。。
呉の国と言えば、すぐに思い出すのが呉服ですよね。
呉服屋さんというのもよく耳にする日本語です。
では、呉服神社(くれはじんじゃ)というのがあるのを知ってますか?
大阪府池田市室町にある神社です。
呉の国から渡来し、日本に機織技術を伝えたとされる、織姫・呉服媛(くれはとりのひめ)と、仁徳天皇を祀っています。
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呉服神社(くれはじんじゃ)
応神天皇の時代、機織・縫製技術を得るために呉の国に派遣された猪名津彦命が、呉の国の王様に乞い4人の姉妹を連れ帰ってきました。
その4人の姉妹の名は、呉服媛(くれはとりのひめ)、穴織媛(あやはとりのひめ)、兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)といいました。
この4姉妹のうち、池田の地に迎えられたのが呉服媛だったのです。
それで呉服媛(くれはとりのひめ)を祀っているのです。
なぜ呉服媛(くれはとりのひめ)なの?
呉(ご)の国の呉は「くれ」とも読まれます。
機織(はたおり)が「はとり」と変化し、「くれはとり」となったとされ、それで「くれはとりのひめ」と呼ばれるようになったと言われています。
『伎楽は呉の音楽?』より
(2012年11月20日)
なるほどォ〜。。。応神天皇は確か第15代天皇でしたよね。
さすがに「源氏物語」を教えているだけあって天皇に詳しいのですね。
。。。つうことは応神天皇が玉座にあった270年から310年に呉の国の王様が4人の姉妹を日本へ派遣したのでござ〜ますわね。
そういうことですよ。
それが不思議なのでござ〜ますか?
いや。。。、その事が不思議なのではありませんよ。
では、一体何が不思議なのでござ〜ますか?
あのねぇ〜、僕は以前に次のようなことを記事に書いたことがあるのですよ。
呉人が日本へ呉服をもたらした西暦200年代というのは、気の遠くなるような古い時代です。
しかし、呉という国は、上の地図に書き込んだように、その寿命は、せいぜい50年です。
日本の長い歴史の中では、ほんの一瞬というような短い間なのに、呉人たちは、日本の文化に大きな影響を残しているわけです。
そのことは前にも書いたように、漢字の読みの呉音というかたちで、日本語の中に消しがたい足跡を残しています。
しかも、呉人のことをすっかり忘れ去っても、『呉服』という言葉をいまだに使っているように、『呉』は日本語にすっかり定着しています。
これとちょうど同じように、その当時の呉人の血は、間違いなく我われの体の中に、流れているわけです。
50年と言えば、一人の人間の一生の長さです。
一人の呉人がやってきたぐらいでは、これほどの影響はないでしょう。
ということは、国が滅んだ後に、相当数の呉人が日本へやってきたはずです。
一体、幾人の呉人がやってくると、これほどの影響が日本に残るのか?
ちょっと考えてみてください。
聖徳太子が生まれるのは、この呉の国が滅んでから、約300年後です。
しかし、見逃してならないのは、この300年というのは、大陸はもちろん、朝鮮半島も、日本も含めて、激動の時代でした。
中国では、下の年表に示すように、西晋、東晋を経て南北朝時代に入ります。
隋が中国を統一するまでに、なんと、11王朝が起こっては滅びます。
しかも平穏に王朝が交代するというようなことはありません。
必ず戦乱がつき物です。
すると、当然のことながら難民が出ます。
これは何も、古代にかぎったことではありません。
ベトナムからの難民騒ぎを覚えているでしょうか?
サイゴン(現ホーチミン市)が無血陥落(1975年4月30日)してベトナム戦争は終わりました。
しかし、その後の迫害を恐れる者、よりよい生活や自由を求める者などが小船に乗って次々とべトナムをあとにします。
いわゆる「ボートピープル」と呼ばれる大量の難民の出現です。
漂流中を漁船や貨物船、タンカーなどに救助された難民が、1977年5月28日の37人を皮切りに、日本へもやってきました。
1989年以降はベトナム難民を装った中国人の偽装難民も出現し、同年9月には、鹿児島に回航した149人もの“難民”を収容する施設がなく、神戸に再回航するというような事態も発生しました。
現代においても、このような事態が出現するわけですから、古代において、しかも、もっと身近な、中国沿岸、あるいは朝鮮半島からの、たび重なる難民の数は、相当なものだったことが容易に想像されます。
280年に呉が滅んでから、663年に百済が滅びるまでの間は、おそらく、日本史上で最も渡来人が数多く日本へやってきた時期だったでしょう。
『あなたは日本人ではない』より
(2007年3月23日)
実際、日本の文化史には呉の国の影響がマジで強く残っている。 こうして卑弥子さんと話している日本語の中にも呉の国の影響は消しがたいほどに強く残っているのですよ。
あらっ。。。マジで。。。?
「あらっ。。。マジで。。。」と言っている場合じゃないのですよ。
次の文章を読んでみてください。
呉音
呉音(ごおん)とは、日本漢字音(音読み)の一つ。
奈良時代に遣隋使や留学僧が長安から漢音を学び持ち帰る以前にすでに日本に定着していた漢字音をいう。
漢音同様、中国語の中古音の特徴を伝えている。
一般に、呉音は仏教用語をはじめ歴史の古い言葉に多く使われ、漢音にくらべるとやや古めかしい感じのする傾向がある、とされる。
が、そうとばかりは言えない面もある。
慣用的に呉音ばかり使う字("音"【オン】,"領"【リャウ】等)、漢音ばかり使う字("健"【ケン】,"軽"【ケイ】等)も少なくなく、両者は日常的に混用されているものである。
呉音は雑多なものを含んでいると考えられ、漢音ほどの整った体系を備えていない。
歴史
5, 6世紀に導入され、一般的に中国の南北朝時代、南朝の発音が直接、あるいは朝鮮半島(百済)経由で伝わったと言われるが、これは「呉」音という名称や倭の五王が南朝の宋に朝貢したことや朝鮮半島から儒教や仏教など多くの文物を輸入したという歴史的経緯が根拠となるのであろう。
しかし、呉音が本当に南方系統の発音かどうかについて、それを実証できるような史料はない。
対馬音や百済音といった別名が示すように古代の日本人は呉音は朝鮮半島からきたと考えていた。
呉音は仏教用語や律令用語でよく使われ、漢音導入後も駆逐されず、現在にいたるまで漢音と併用して使われている。
なお『古事記』の万葉仮名には呉音が使われている。
呼称について
呉音しか読音がない時代には名称などなく、後に漢音が導入されて以降につけられた名称である。
かなり定着していたことから古くは和音(やまとごえ・わおん)と呼ばれ、平安時代中期以降、呉音と呼ばれるようになったが、これらの語は漢音の普及を推進する側からの蔑称であったらしい。
中国の唐代、首都長安ではその地域の音を秦音と呼び、それ以外の地域の音、特に長江以南の音を「呉音」とか「呉楚之音」と呼んでいた。
帰国した留学生たちが、これにもとづいて長安の音を正統とし、日本に以前から定着していた音を呉音と呼んだものと考えられる。
また対馬音(つしまごえ・つしまおん)・百済音(くだらごえ・くだらおん)という名称もあるが、欽明天皇の時、百済の尼僧、法明が対馬に来て呉音で維摩経を読んで仏教を伝えたという伝承によるものである。
音のあいまいさについて
常用字でない漢字音について、漢音はその認定が中国の韻書などの反切資料を中心に行われるのに対して、呉音は日本に古くから伝わる仏典資料や律令などの歴史的史料が中心になるため、その認定が難しい部分があり、各漢和字典ごとに異なっている場合が多い。
出典: 「呉音」
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卑弥子さんが毎日、何気(なにげ)なくしゃべっている日本語の中にも呉の国の影響が無意識に発音の中に表れているのですよ。
そうですわよねぇ〜。。。考えてみたら、すっご〜♪〜いことでござ〜ますわ。
そうでしょう? 。。。で、ここまでしゃべってきたけれど、卑弥子さんには僕が言おうとしている「呉越の謎」がなんとなく解(わか)ってきたでしょう?
えっ。。。「呉越の謎」でござ〜ますか?
そうですよ。。。 ポカ〜♪〜ンとしてないで、味噌汁で顔を洗って目覚めてくださいよォ〜。 んもおォ〜。。。
いえ。。。解りませんわ。 何が「呉越の謎」なのでござ〜ますか?
やだなあああァ〜。。。んもおォ〜。。。ここまで説明してきたのに卑弥子さんは、まだ解らないのですかァ〜? もう一度地図を見てくださいよ。
(すぐ下のページへ続く)