波乱の半生(PART 1 OF 3)
あらっ。。。ケイトーって見かけによらずに女性に対して、かなり積極的なのねぇ〜?
それは、もう20年以上も前の話ですよ。
今はもう積極的ではないのォ?
ブログを書くのが忙しくってねぇ〜。
マジで。。。?
そうですよ。。。だから、こうして図書館に毎日のようにやって来て記事を書くようになったのですよ。
自分の家のパソコンでは書かないの?
ボッコわれてしまったのですよ。
あらっ。。。そうだったの? なるほどォ〜。。。それでねぇ〜。。。納得したわァ〜。。。
何を納得したのですか?
あのねぇ〜。。。実は、私はあなたと会うのは初めてではないのよ。
ん。。。? 初めてではない。。。?
そうなのよ。。。私はあなたと何度も会っているのよ。
まさか。。。?
いえ。。。マジで。。。
でもねぇ、シルヴィー。。。僕は今日あなたと面と向かって初めて話をしたのですよ。
ええ、そうだわ。。。でも、私はあなたと何度も会ってるのォ。
冗談でしょう!?
マジよ。。。あなたが気づかなかっただけなのよ。 私の話を聞けばあなただって納得するわ。 その前に、私、ちょっと。。。おトイレにいってくるから。。。ここでじっとして待っててね。 じゃあねぇ。 うふふふふふ。。。
『図書館deロマンス』より
(2011年4月27日)
シルヴィー,...ずいぶん長かったねぇ〜。。。
あらっ。。。そうかしら?。。。30分ぐらい、どうってことないでしょう? ちょっと気に入った本を見つけたから1章だけ読んでいたのよ。 ケイトーだってぇ、他に何もすることがなかったのでしょう?
待っててねぇ、とあなたが言ったじゃないですかァ!。。。僕はシルヴィーの話を早く聞きたいと思っていたから、1時間ぐらい待っていたような気がしますよ。
それってぇ、ちょっとオーバーよ。
とにかく僕は今日シルヴィーに会ったのが初めてなんですよ。
でも、私はケイトーにマジで何度も会ってるのよ。
だけど僕には記憶が全く無いよ。
そうかもねぇ。。。あなたはいつだってパソコンとにらめっこしていたからよ。 私はウェストエンドの分館で、あなたが記事を書いていたのをちょくちょく見かけていたのよ。
ウェストエンドの分館で。。。?
そうよ。。。あなたはいつもDianeの隣で記事を書いていたじゃない!
あれっ。。。シルヴィーはダイアンを知ってるの?
知ってるわよ。。。Dianeとは、ずいぶん前からの友達なのよ。 あの人ときたらケイトーと同じで、英国系カナダ人には珍しく勤勉なタチなのよ。。。日曜日は教会へ行くからパソコンに向かわないけれど、月曜日から土曜日まで毎日決まった時間にパソコンに向かい合うでしょう。 Dianeだけかと思っていたら、今年の1月頃からケイトーが加わったじゃない。 しかも、決まってDianeの隣に座って、澄ました顔して記事を書いていたじゃないの。。。それも不思議に決まった時間にDianeと隣り合わせでキーボードに向かって打ち込んでるじゃない。。。いったい、どういう事なのかと初めの頃はとっても興味深かったわよ。。。うふふふふふ。。。
知らなかったなあああァ〜。。。ネットをやる場合、ウェストエンドの分館ではパソコンは1時間だけしか使えないんだよ。 1時間では、とっても足りないんだよ。。。それで中央図書館にも足を運ぶようになった。 ここでは2時間使えるからね。 でも、1日3時間でもまだ時間が足りない。 それで僕はダイアンともほとんど話をしないで、わき目も振らずに記事を書いていたと言う訳なんだよ。。。だから、近くにマリリンモンローがビキニ姿で座っていたとしても、じっくりと眺めている暇が無いほど僕は集中していたんですよ。
そうよねぇ〜、だから、私も、もし停電しなかったとしたら、あなたに声をかける気にならなかったと思うわ。
なるほどォ〜。。。
何がなるほどなのよ?
停電で他に何もすることがないからシルヴィーが話しかけてきたとは思うけれど。。。それでも、急に畳み掛けるようにして話してきたから、ずいぶんと社交的な女性だと思って僕は内心ではビックリしていたんですよ。
あらっ。。。私、ちょっと積極的過ぎたかしら。。。?
いや。。。ダイアンと友達だったと聞いて僕も納得しましたよ。。。で、シルヴィーはバンクーバーで生まれて育ったの?
そう見える?。。。でも、違うのよ。
。。。つうことわァ〜。。。もしかして移住者?
そうなのよ。。。ケイトーは私がどこの生まれだと思う?
まあ。。。そうだねぇ〜。。。シルヴィーの表情から察して、多分英国系だと思うけれど。。。イングランドか? スコットランドか? アイルランドか? ウェールズか?。。。恐らくその内のどれかだと思うよ。
まったく違うわ。。。。実は、私はインドネシアで生まれたのよ。
マジで。。。? インドネシアは太平洋戦争前にはオランダの植民地だったから。。。もしかしてシルヴィーの両親はオランダ人?
そうなのよ。。。私の父はオランダ人。 母はオランダ人と華僑のハーフだったのよ。 つまり、私には4分の1の中国人の血が流れているのよ。
なるほどォ〜。。。よく見るとシルヴィーの表情には、どこかに東洋系の特徴があるよ。。。 まず、髪の色が黒っぽい。 鼻があまり高くない。 丸顔がなんとなく東洋系の女を思わせる。。。で、インドネシアからカナダに移住してきたの?
違うのよ。。。実は、私がまだ小さかった頃。。。、1965年にインドネシアには動乱があったのよ。 私は大きくなってから父に聞かされたのだけれど、1963年にマラヤ連邦が北ボルネオをイギリスから譲り受けてマレーシアが建国されると、スカルノ大統領はこれをイギリスによる新植民地主義のあらわれであると非難して「対決政策」を宣言したのよ。
1965年の動乱(9月30日事件)
インドネシアはボルネオ島全域の領有を主張して、マレーシア領へ侵入するなど、一触即発の事態となった。
これは1964年に領有を主張するフィリピンも含めた3者が東京で会談するなどで、現状維持で落ち着いた。
この対決政策によって、インドネシアはアメリカとIMFからの経済援助を停止され、国際社会から孤立していった。
スカルノ大統領は急速に中国に接近し、そして1965年1月7日、国連を脱退した。
さらに1965年の独立記念日(8月17日)には、世界銀行とIMFからも脱退した。
そのようにして対外政策がすすんでいるあいだにも、インドネシア国内の経済状態は悪化し、インフレによる物資高騰は民衆の生活を苦しめた。
こうした状況に国軍主流派や一部の政党政治家、経済テクノクラートらは危機感を強め、スカルノ大統領と共産党に対する不満が高まっていった。
このように緊張した政治環境の中で発生したのが9月30日事件だった。
この事件は、1965年9月30日深夜から翌未明にかけて、共産党シンパの国軍部隊と、共産党傘下の組織が国軍幹部の6将軍を殺害したことに端を発する。
陸軍戦略予備軍司令官だったスハルトがこれをすぐに鎮圧したため、左派勢力による政権奪取は失敗し、クーデター未遂事件として終わった。
共産党に肩入れしていたスカルノ大統領は苦しい立場に追い込まれ、事態を回復するための一切の権限をスハルトにあたえることになった。
これを受けてスハルトは共産党員およびそのシンパを殺害、拘束し、国内の左派勢力を物理的に解体した。
東南アジアで最大規模を誇ったインドネシア共産党が壊滅したことは、国内政治のみならず、冷戦期におけるこの地域の勢力図を一変させた。
その後、スカルノ大統領は事件への関与を疑われるきびしい立場に追い込まれ、国軍が煽動する反スカルノの民衆運動によって辞任への圧力をうけた。
1967年3月、スカルノは終身大統領の地位を剥奪され、1968年3月、スハルトが第2代大統領として選任された。
また、1966年9月にインドネシアは国連に復帰した。
この動乱がシルヴィーと関係あるの?
もちろんよ。。。スカルノ大統領は、国民をオランダの植民地支配から解放したということでインドネシア建国の父と呼ばれていたの。 国民的英雄だったわ。 でも、その一方で、植民地時代の遺産の完全否定を宣言して経済的には疲弊をもたらしたのよ。 大統領は、外国企業の資産を接収し、新たな外資の導入も禁止したのよ。 それに、植民地時代から経済分野で優勢な地位を固めていた華僑を差別したわ。 私の家族の場合には2重に風当たりが強かったのよ。 なぜなら、父がオランダ人。 昔の植民地主義者だと思われ、しかも、母の実家が華僑でしょう。
つまり、スカルノ大統領から目の敵(かたき)にされたわけだ。。。
そうなのよ。。。スカルノ大統領が共産主義に近づいていったのよ。 当然のことながら、それまでインドネシアの独立を支持していたアメリカもスカルノ大統領に対して不快感を強めていったのよ。 そう言う訳で、今ではスカルノ政権の転覆を図るためにアメリカのCIAが9月30日事件を策謀したという説も出ているのよ。 スハルト将軍は、政治的野心がないと思われていて、スカルノ大統領から信頼されていたのよね。 大統領は共産党寄りになっていたので、事件と関係があると疑われて厳しい立場に追い込まれたわけ。。。
それで大統領に代わってスハルト将軍が治安回復に乗り出したというわけ?
そうなのよ。 大統領がスハルト将軍に権限を委譲したのよ。 この後、スハルト将軍はアメリカ寄りの態度をとったわけ。。。それで、クーデター首謀者や共産主義者や、その仲間と関係したと疑われた一般の人々の集団虐殺が広がっていったのよ。 20世紀最大の虐殺の一つとも言われたものよ。
何人ぐらいが虐殺されたわけ?
50万人ぐらいと言われたけれど、歴史家の中には、最大推計では300万人とも言われているのよ。 今でも正確には把握されていなわ。 私の家族はジャワに住んでいたのだけれど、残虐に巻き込まれそうになったので父の親戚を頼ってオランダに逃げたのよ。
なるほどねぇ〜。。。それからオランダで暮らしたというわけだ。
そうなのよ。 アムステルダムに着いたのよ。 私はまだ小さかったけれど、ホッとしたわ。 子供心に、あの動乱の殺伐とした雰囲気を肌身に感じていたから天国にやって来たと思ったわ。
話には聞いていたけれど、アムステルダム(Amsterdam)って、とってもきれいな街なのよね。 なんだかおとぎ話の国に来たような気持ちだったわ。
ほおおおォ〜。。。おとぎ話の国ねぇ〜。。。 僕は“飾り窓の女”を思い出すけれど。。。
ケイトー!。。。あなたは、そういう事しか興味を持たないのォ〜?
いや。。。、あのォ〜、もちろん、オランダは江戸時代には日本と深いつながりがあったから、“飾り窓の女”以外にも、ずいぶんとオランダのことを勉強しましたよ。。。それで、どうしてカナダへやって来たの?
やっぱりねぇ〜、なかなか思うように暮らしが立たず、インドネシアから戻ってきたと言うと、なんとなく肩身が狭いのよね。 当時カナダに移住することが話題になっていて、いっそのこと新規まき直しでカナダに行こうということに家族で決めたのよ。
それでバンクーバーにやって来たわけ。。。?
違うのよ。。。モントリオールへ家族とともに移住したのよ。
モントリオール!?。。。でも、まもなくモントリオールでは 1970年の動乱ですよ。
そうなのよ。。。皮肉といえば皮肉よね。 まさかモントリオールで1970年に動乱があるなんて考えもしなかったでしょう。 だから1967年の春に船でカナダに渡ったのよ。 今のように飛行機がポピュラーだったら直接バンクーバーへやって来ていたかもしれないわ。
それで、モントリオールの動乱に巻き込まれてしまったの?
そうなのよ。
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