波乱の半生(PART 2 OF 3)
オクトーバー・クライシス
オクトーバー・クライシス(October Crisis)は、1970年10月にカナダのケベック州で発生した、ケベック解放戦線(FLQ)のテロリストによる2件の政府要人拉致事件の呼称。
当時のカナダ首相ピエール・トルドーが、(短期間ではあるが)戦時措置法を発動し、ケベック州とオタワにカナダ軍が展開された。
ケベック州首相のロバート・ブラッサ(Robert Bourassa)と、モントリオール市長のジャン・ドラポー(Jean Drapeau)が、カナダ政府に対して戦時措置法の発動を求めた。
カナダ首相トルドーは1970年10月に戦時措置法を発動。
強い力を与えられた警察は、分離主義者と判断した者すべてを保釈なしで留置した。
この時カナダ政府は、FLQのメンバーと他の過激な分離主義者、民主主義的な手法で独立を勝ち取ろうと啓蒙活動をしているケベック党(Parti Québécois)党員などを区別することを拒否した。
本危機が終結した後、特に1973年にケベック党の党員リストを手に入れるためにRCMP職員が不法に突入した事件などに対して、トルドー首相の指導によるRCMPに関する疑惑(Scandals surrounding the RCMP)が捜査された。
背景
1963年以降、ケベック州独立を唱えるケベック解放戦線(FLQ)によって仕掛けられた爆弾テロによって6名が死亡した。
特にこの爆弾の標的となったのは、裕福なアングロフォン(Anglophone、英語を話すケベック住民)が多く住むケベック州ウェストマウント(Westmount)の郵便箱であった。
1969年2月13日、モントリオール証券取引所で最大の爆発があり、これは負傷者27名という大規模な被害が出た。
FLQのメンバーは、軍事施設や産業施設から盗み出した数トンのダイナマイトを保有しており、自らの広報機関「La Cognée」を通じて更なるテロ攻撃の予告を行い、人々に脅威を与えた。
1970年までに、23名のFLQメンバーが逮捕・収監され、その内4名が殺人罪で有罪判決を受けた。
1970年2月26日、パネルトラックに乗った2人組がモントリオールで逮捕された。このとき彼らは、ソードオフ・ショットガン(銃身や銃床を短く切り詰めた散弾銃)と「イスラエル領事を誘拐する」という内容のコミュニケ(声明文)を持っていた。逮捕された一人はジャック・ランクト(Jacques Lanctôt)だった。
1970年6月、モントリオールから車で40分ほど北にあるローレンシャン高原の小さな町プレヴォスト(Prévost)で、警察が民家を急襲し、火器と弾薬、136kgものダイナマイトとその雷管、「アメリカ領事を誘拐する」というランサム・ノート(ransom note)を発見した。
戦時措置法の発効
トルドー首相の「まあ見ていろ」発言から3日後の10月16日、彼はケベック州知事ロバート・ブラッサとモントリオール市長ジャン・ドラポーの要請により、戦時措置法を発効した。
午前4時ちょうどにこの法律は執行され、何百人ものFLQメンバーとその共鳴者たちと疑われた人々が睡眠中のベッドから追い出され、そのまま拘束された。
ケベック州およびカナダの他地域で行われた世論調査では、戦時措置法に対する圧倒的な支持が示された。
後のケベック党党首ルネ・レベックは、当時はそれが必要な事態であったため執行に同意した、と書き残している。
しかしそれ以降、平時における戦時措置法の施行は、それが警察に逮捕と捜査に関する大きな力を与えることになるため、カナダ国内において激しい議論の対象となった。
ケベックの外(主にオタワ地域)で連邦政府は、連邦オフィスとその従業員を守るためとして、自らの権限の下に軍を配備した。
戦時措置法によって増大する逮捕権と(ケベック州政府によって要求され制御されているものの)軍隊の配備という組合せは、どこから見ても戒厳令の施行を連想させるものであった。
重大な違いは、軍が行政当局(この場合はケベック当局)に対するサポート役のままであり続け、司法的な機能を演じることがなかったことである。
にもかかわらず、連邦議会の芝生に駐車された戦車という光景は、多くのカナダ人を当惑させるものであった。
さらに、警察官僚が権力を濫用し、著名なアーティストや知識人を証拠無しで拘留したとの説もある。
1971年2月3日、法務大臣ジョン・ターナー(John Turner)は、戦時措置法により497人が逮捕され、うち435人が既に釈放されていることを報告した。
その他の62人は拘留され、うち32人は重罪犯としてケベック州高等裁判所から保釈を拒否された。
結果とその余波
オクトーバー・クライシスは、現代カナダにおける最も深刻なテロ事件とされ、そして、連邦政府および地方政府による対応については、現在も激しい論争の種となっている。
しかし当時の世論が、ケベック州の戦時措置法施行を圧倒的に支持していたのは確かである。
新民主党のトミー・ダグラスら幾人かの批評家は、トルドー首相が市民の自由を停止するために戦時措置法を施行するのは行き過ぎであった、そして、このことが先例となること自体が危険であると考えた。
この時カナダ政府がとった強硬な手段に肯定的な者は、政府の積極的な対応があったおかげで、1970年以降には同様なテロ事件が発生していないとの主張を続けている。
その一方でより一般的な見解として、ケベック州市民の間でこういったテロリズムは不愉快かつ不必要なものと理解されたからといわれている。
これによってカナダからの独立を求める人々は、充分に民主的なプロセスで独立が達成されるべきであり、またそうでなければならないと意識するようになった。
ケベック分離主義者に対する支持は一時低下したものの、後には再び十分な支持を得るようになった。
分離政策を掲げるケベック党も1976年にケベック州与党となった。1982年にカナダは新憲法を採択するが、ケベック州はこれを拒み、1987年にはケベック州の地位を認めたミーチ・レーク合意が得られたが、これも各州の足並みがそろわず実施されなかった。
ケベック州はカナダの一州であるが、その政治的地位は微妙な状態のままにある。
出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この時ケイトーは、バンクーバーに居たの?
いや、まだ僕は日本でのんびりと暮らしていましたよ。 でも、この動乱は日本でもテレビニュースで伝えられました。 僕はカナダに行こうと思っていたので、この時の動乱があったから、モントリオールではなくトロントに行こうと決めたのですよ。
じゃあ、ケイトーは初めにトロントへ行ったの?
そうですよ。 4年ほど暮らして、それから北極圏に近いイエローナイフの政府でコンピューターの仕事に就いたのですよ。。。で、シルヴィーは1970年に家族と共にモントリオールからも逃げ出したと言う訳?
そうなのよ。。。当時、ケベック州は独立するかもしれない、というウワサが飛び交って、そうなれば独立戦争になるかもしれないと思って家族で決断したのよ。
それでバンクーバーにやって来たわけだ。
違うのよ。。。私以外はバンクーバーにやって来たけれど、私の姉が結婚してラトビアのリガ市に住み始めたので姉の所に厄介になろうと思って出かけたのよ。
マジで。。。? ラトビアのリガ市に行ったの?
そうよ。。。どうしてケイトーはそれほどビックリした顔をするの?
あのねぇ〜、実は、僕はラトビアのリガ市からやって来た女性と知り合いになったのですよ。 その事は記事にも書いたよ。
ラトビアからやって来た
イングナさん
イングナさんは、安子さんが経営していた英語学校の生徒の一人だったのでござ〜♪〜ますか?
そうなのですよう。僕は英語学校の仕事を手伝っていた関係から、イングナさんとも知り合いになったのですよう。
イングナさんがきれいだったのでデンマンさんは、ちょっかいを出したのでござ〜♪〜ますわね?
やだなあああァ〜。。。人聞きの悪い事を言わないでくださいよう。イングナさんのお母さんがブティックを始めたのだけれど、税務が分からないからと言うので安子さんが僕を紹介したのですよう。
それで、イングナさんとは特に親しくしたのでござ〜♪〜ますか?
そうなのですよう。ソ連崩壊のことには興味があったから、僕は当時の事をずいぶんとイングナさんに尋ねたものですよう。
それで。。。?
一つだけ不思議な事をイングナさんが言ったのですよう。
どのような事を。。。?
手をつなぎあってエストニアから、ラトビア、リトアニアのバルト三国を結んだと言うのですよう。
手をつなぎあって三国を結ぶなんて冗談ならともかく、マジで考えるような事ではないのですよう。不可能ですよう。イングナさんは、まだ英語が充分に話せないので言い間違えたと僕は思ったのですよう。
それで。。。?
「手をつないでデモ行進したと言うのでしょう?」。。。僕は、そ〜聞き返したのですよう。でも、手をつないでデモ行進したのではない!3つの国を手をつないで結んだんだと言い張るのですよう。
。。。んで、デンマンさんは納得したのですか?
もちろん、納得できませんよう。「あのねぇ〜、3つの国を結ぶって、距離にしてどれくらいあるのォ〜?」
イングナさんは、なんと答えたのでござ〜♪〜ますか?
約600キロメートルあるわ。。。と言うのですよう。。。600キロと言ったら、東京から大阪を越えて神戸を越えて明石の方までですよう。人間が手をつないで東京から明石まで並べるはずがないじゃないかア〜!何を寝ぼけた事を言ってるのォ〜!
そうしたら。。。?
イングナさんが学校のインターネット・コーナーのところまで僕を連れて行って英語版のウィキペディアを開いて見せたのですよう。
人間の鎖 (Baltic Way)
人間の鎖は別名「バルトの道」といわれ、1989年8月23日当時ソビエト連邦支配下にあったバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)の独立運動の一環として行われたデモンストレーション。
およそ200万人が参加して手をつなぎ、3カ国を結び、600キロ以上の人間の鎖を形成した。
このデモンストレーションは、バルト三国のソ連併合を認めたモロトフ・リッベントロップ(独ソ不可侵条約)秘密議定書締結50周年を期して行われ、三国が共通の歴史的運命を共有していることを、国際社会に訴えるために行われた。
背景
旧ソ連ではゴルバチョフ政権のもとでペレストロイカ、グラスノスチが進められ、街頭デモが急増し、市民の支持も集めていた。
1986年、3国のそれぞれの首都で、一握りの人々が集まり抗議行動を行ったが、直ちに警察により解散させられた。
1987年には大規模集会が3国の首都で行われたが、当局者に非難され、逮捕者が出て終わった。
一年後、大規模抗議行動が初めて当局の認可を得て、平和裏に行われた。
この「人間の鎖」の一週間前にはソ連政府も秘密議定書の存在を認めたが、バルト3国が自主的にソビエト連邦に加盟したという点については譲らなかった。
集会の数日前、リトアニアの独立運動組織サユディスの委員会の170人のメンバーが、「ソビエト連邦の政治的、文化的、行政的支配を受けない」独立のリトアニア国家をめざすことを議決した。
抗議
「人間の鎖」は地元の共産党当局によって認可され、鎖が切れないよう、周到に計画された。
例えば、各都市や町には担当の場所が割り当てられ、他の交通手段を持たない参加者には無料バスを提供するよう指示された。
参加者は、現地時間午後7時から15分間手をつないだ。
この集会を調整するため、特別のラジオ放送も行われた。
人間の鎖にどれだけの人が参加したかは報道によって異なる。
翌日のロイター通信によれば、エストニア人70万人、ラトビア人50万人、リトアニア人100万人が参加したと報じている。
ラトビアの首都・リガの旧市街
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
いやァ〜〜。。。驚きましたよう。僕はマジで知らなかった。
あたくしも知りませんでしたわ。
僕は、これを読んでソ連の崩壊がバルト三国から始まったと言うのも分かるような気がしましたよう。やっぱり、民衆の力ってすごいよう。日本人も見習うべきだよね。
『小百合さんとワーグナー』より
(2009年7月4日)
(すぐ下のページへ続く)