虹のかなたから生還(PART 1)
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デンマンさん聞いてください。
文字通り奇跡、不思議な出来事です。
今日12月9日見舞いに行ってきました。
病室の交替もあり、部屋に入るとベットに芳江さん(デンマン注: 僕の母親)がいません。
血流が止まるくらいドキッとしました。
廊下に出て係りに尋ねたところ食堂に行っているとのこと。
気持ちでは走ってゆきました。
まあ、なんと車椅子で食卓に向き合っているではありませんか。
「芳江さんよかったね」と思わず手を握ったら力強く握り返してきました。
そのあと、よかったね、よかったねの連発。百遍も言ったでしょうか。
お互いに涙です。
不謹慎な言い方かも知れませんが芳江さんは死の淵より生還。
まさに奇跡です。
でも私だけが死の淵を考えたのでしょうか?
多分、デンマンさんだって一方ではその想いはあったのではと思います。
何しろ長男としての覚悟もあってか葬儀屋さんまで行かれたのですから。。。
芳江さんの真摯でこのあっぱれな負けず魂に敬意を表し、あとは欲張らず、このくらいの状態でいいから生への記録を大きく延ばして欲しいと心の底から思っています。
病院からの帰り際「デンマンさんに手紙を書くから」と言ったら「私は元気で飛び跳ねているからと書いて」と芳江さん。
車椅子の上で両手を高々に挙げて満面の笑みでした。
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繰り返しになりますがデンマンさんとの話の中、お互いに絶望を意識していたことを芳江さんにお詫びしましょう。
清司さんや正造さんには「お母さんはきっと良くなるから」といつも元気付けてきました。
芳江さんに対して私とデンマンさんの立ち位置が違うにせよ、デンマンさんにきついことを言ったとしたら、その点申し訳なかったなあとお詫びします。
夜7時まで病室にいました。
帰宅してあの元気な芳江さんの回復振りが私の脳を刺激しっぱなしです。
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行田総合病院 4F南棟 407
2012年12月9日夕食
加藤芳江様
糖尿1600
主食: 軟食
食事コメント
主・副 2/3量
一口大
肉のみきざみ
水分とろみ
介護食器
滑り止めマット
毎食佃煮類
メニューは変更することがあります。
エネルギー ↓OK きのこきざみ
私と話しながら芳江さんは病院食を食べました。
食べるのが遅いので看護士さんに「集中して」と言われながらも話についつい夢中になってしまいました。
1時間半もかかりましたが芳江さんは完食しました。お見事です。
上のメニュー表を看護士さんが捨てると言って揉んでしまったものを
デンマンさんに見せてあげようと思い貰いました。
そんなわけで紙がクシャクシャになっています。
12月8日 (土曜日)
お昼過ぎ台所でパスタソースを作っています。
明日、芳江さんを見舞いに行く予定。
先に行田の家を訪ねるつもりでいます。
清司さんと正造さんが肩を寄せて家を守っていることに常々偉いと感心しています。
私には大きなことはできませんが勇気付ける気持ちが少しでも移入できればと想いスパゲッティとポテトサラダ、それに味噌汁、さらにパスタソースを作っているわけです。
そこに嫁の厚子さんから電話で「お母さん、デンマンさんの手紙が家に来たけど、これから届けますから」
ちょうどよかった。
パスタソースを多めに作ったので半分にする。
彼女と一時間あまり雑談。
かくしてデンマンさんの手紙は12月8日に受け取りました。
(注: 今度は住所を間違えないでね)
12月9日 (日曜日)
とうとう冬になってしまいました。
最初芳江さんを見舞ったのは9月27日、行田中央総合病院でした。
その頃は自転車をこいで行くと着く頃は額に汗、半袖の晩夏でした。
今日は最高8度、最低2度。
これはカナダ並ですが、相変わらず赤城おろしのすさび場所。
寒いです。
途中、佐間のBELCで食材を購入。 午後1時半に行田に着きました。
テーブルの上に弁当が並べてあり、たまに弁当を食べるのであればご馳走ですが毎日この種類のものだと体に良くないあ、と思います。
正造さんが大宮に出かけるというので先に味噌汁を作ったら「料理は苦手だから。。。」と言いながらおいしいと何度も言ってくれました。
余談ですが私はこの言葉に弱くて、また作って差し上げたいと思う。
息子の家の良太君と太一君の二人が「多佳子さんの"から揚げ"は最高だよ」と、ついついその言葉につられて月一度の割合で作っています。
午後4時に料理終了。 その足で病院へ。
(以下、冒頭の場面に続きます)
P.S.: 【虹のかなたに】
Israel Kamakawiwo'ole
Over the Rainbow/What a Wonderful World
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ついに歌手がわかりました。神秘な歌声。
これに恋してDVDを何度か借り、この曲だけを聴きました。
他に2曲、全3曲のハーモニー。 音楽家ってすごいです。
なぜかうるうるになります。
ハワイに関係したTV放映で耳にしたことがありますがうなずけます。
TV局に問い合わせようと考えましたがデンマンさんが教えてくれてすごくうれしいです。
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Israel Kamakawiwo'ole
イズラエル カマカヴィヴォオレ
脳がだいぶ衰退したので覚えられるかどうか?
イズなら大丈夫そうです。
年明けに早々CDを買おうかな。
今年も20日余りで終わります。
一年が早い。
芳江さんも快方に向かっているので気を引き締めながら明るく行きましょう。
欧米式にクリスマスおめでとう。そして良い2013年を!
健康に気をつけてください。
九条多佳子
2012年12月9日は過ぎ10日の日付に変わっています。
勝手な生活をしているので昼夜逆転しても大丈夫です。
『虹のかなたの奇跡』より
(2012年12月20日)
デンマンさん。。。 叔母さんから手紙をまた持ち出してきたのですか?
いけませんか?
くどいと思いますわ。
あのねぇ〜、僕は多佳子さんに返信を書いたのですよ。
つまり、その返信をここに載せるので叔母さんの手紙を冒頭に掲載したのですか?
その通りですよ。 僕の手紙を読んでください。
多佳子さんへ
12月17日に手紙を受け取りました。
マジで奇跡が起きたようですね。
信じられないほど意外でした。
最後にお袋を見舞った時には、もう余命は1ヶ月ほどだと小生は思ったものですよ。
だから、新町にある「行田葬儀社」の事務所に行ってお袋の葬式の手はずを整えようとして社長に会いました。
いろいろと親切に教えてくれました。
参加人数や費用なども大体決めました。
資料をもらって家に帰り、家族の前でいろいろと説明しました。
親父の葬式の時には行田の泰夫さん(デンマン注: 僕のお袋の弟)が手配したようで、正造に聞いたところでは、どのような手順でやるのか心もとないとのことでした。
そのようなわけで、小生が行田に居る間に、できるだけ葬式の手配をしようと思って動き回った次第です。
以前、お袋と一緒に、静江さん(デンマン注: 僕のお袋の妹)を見舞った時、病室に入ったらかなり弱っていて声が出ませんでした。
長くても余命1ヶ月だろうと思っていたら、確かに、静江さんは、そのとおりに亡くなったのでした。
小生が最後にお袋を見舞った時には、お袋の様態は、まさに、静江さんと同じようでした。
声が出なくて、小生だという事は理解できましたが、弱りきっていたというのが実態でした。
だから、1ヶ月ほどで、あの世に逝くとマジで思ったのです。
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行田中央総合病院から退院する3日か4日前だと思いますが、
その時には病院の法事茶が口に合わないので水分を取らなかったために脱水症状で、しかも、病院食が食べられない。
食べようとすると嘔吐を催すと言っていたのです。
その時に、「もう覚悟をしたよ」と、そのよう意味の事をはっきりと小生に言ったのでした。
自分の病状が末期になったと自覚したようです。
だから、退院した時には、すでに最悪の状態だったのです。
確かに体温が下がっていました。
栄養剤もほとんど取らず、取ろうとしても体が受け付けない状態でした。
小生が無理に栄養剤を飲ませようとしましたが、だめでした。
栄養状態も悪かったので「床ずれ」もひどくなり始めてゆきました。
介護士さんが「見てください」と言ってお袋の尻を見せましたが、短期間にあんなにひどくなるものか?とビックリしたものです。
行田総合病院に入院した当日、主治医の三宅先生に尋ねたら、脱水症状、しかも栄養不足で全体に弱っていて腎不全を起こしていると言うのですよ。
検査の結果40を超えると危ないというのに、お袋の検査の数値は100を超えていて、人工透析するだけの体力がなく、薬で処置するしかないということで、かなり悪い状態だったのです。
「最善を尽くしますが、正直言って寝たきり以上に回復することはないでしょう」と、かなり悲観的な事を言ったものです。
加藤医院の堀内先生も「高齢者が栄養剤を鼻からとるようになったら、もう終わりですよ」というような話を往診した時に言ったものです。
行田中央総合病院の主治医の凌(りん)先生でさえ、「高齢者が入院するというのは、そのたびに悪くなってゆくのが当然のようなものですよ」と言ったものです。
凌先生のおばあさんが、やはり「入院するたびに悪くなっていった」と。。。
凌先生とは、突っ込んだ話をしませんでした。
一生懸命にやるという気力が感じられない先生でした。
「どうせ高齢者は先がないのだから。。。」と口では言いませんでしたが、お袋を診る態度には、そのような考えが表れていたのです。
そのようなわけで、行田総合病院の三宅先生に紹介された時には、これまでの経緯を2時間近く、こまごまと先生に説明して行田中央総合病院での不満や苦情をぶちまけたのですよ。
そう言う訳で、口うるさい患者の家族に出会ってしまったのだと、諦め半分だったようですが、いい加減な事をすると、この男に訴えられかねない。
そう思ったのかどうか?
それは確認しませんでしたけれど、三宅先生は最善の努力をしたようです。
Informed Consent
この話をくどいほど三宅先生と話し合ったものです。
要するに医者と患者と家族が納得するような形で治療を進めてゆくと。。。
その甲斐が現れたのかもしれませんね。
2週間ほど前に正造がバンクーバーに電話を寄越して、「胃壁に穴を開けてカテーテルを胃に直接通して栄養剤を送ろうか?」という話が持ち上がっているのですが、どうしましょう?
そういう話をしてきたのですよ。
鼻から栄養剤を与え続けるのは、あまり良いことではないそうです。
その時には、お袋は幾分回復して、すでに声が出るようになり、意識もはっきりして意思を充分に伝達できるという話でした。
「栄養剤が効(き)いたのか、少し太りました」と正造が伝えてきたのです。
本人の意思を尊重して「それなら、お袋が決めたらいいよ」と言って電話を切ったのでした。
回復の兆しが見えたようだけれど、起き上がったり車椅子に乗れるほど回復するようなことはないと小生は諦めていたのです。
「このままで死んでたまるか!」という気持ちがお袋に芽生えたのでしょうね。
何がきっかけになったのか?
やはり、だめな子供たちを置いて死ぬのが心残りだったのでしょうね。 (苦笑)
夢でも見たのか?
あるいは同じ病室で死んでゆく人を見て奮起したのか?
お袋は、あれで意外に芯の強い人ですから、粘り強いというか? 辛抱強いというか? とにかく頑張り屋ですよ。
35歳頃から腎臓を患って、体にむくみが出てきて、子供心にお袋は長生きできないと直感したものです。
そのお袋が80歳を過ぎるような高齢者になったのですから。。。
病気は気からと申しますが、本人の気持ちで病状もある程度左右されると思います。
恐らく何か、きっかけがあったはずです。
つまり、「もうちょっと生きなければ。。。このままでは死ねない」と。。。
「不幸で不憫な息子たちや家族をこのままにして置いて逝けない」と。。。
そのような気持ちが起こって、お袋を奮(ふる)い立たせたのかもしれません。
とにかく、「奇跡」といって簡単にすますことができない気持ちの変化・意思の変化がお袋の心の中で起こったのだと小生は信じます。
いずれにしても、奇跡的な回復が生じたのですから素直に喜びたいと思います。
多佳子さんが何かと気を遣ってお袋を見舞っていることも、お袋の回復の「きっかけ」になっているのかもしれませんよ。
せっかく多佳子さんが見舞いに来てくれるのだから、良くならねばいけないと。。。
そんな「お返し」の気持ちがお袋の心に芽生えたとしても不思議ではありません。
お袋はそういう人です。
とにかく、多佳子さんにはいろいろと気を使ってもらってすいませんでした。
お袋のことばかりか、行田の家族の食事の世話までしてもらうことも多々あったようです。
いろいろありがとうございました。
ところで、うっかりと古い住所を手紙に書いてしまいました。
手帳を見たら、その住所が目に付いたので確認せずに書いてしまったわけです。
これからは、そのような事がないように気をつけるつもりです。
【虹のかなたに】
多佳子さんが、それ程この曲にはまっているとは思いませんでした。
でも、確かにいい曲ですね。
ブログの記事には書いたのですが、
多佳子さんのように、この曲に惹かれて「Yahoo!知恵袋」に質問を書いた女性が居たのですよ。
たまたまGOOGLEで検索したら、その人の質問が引っかかって、それで歌手の名前が解ったのです。
(すぐ下のページへ続く)