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ロマンと弥勒と阿修羅(PART 3 OF 3)

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ロマンと弥勒と阿修羅(PART 3 OF 3)



あらっ。。。阿修羅像のことでいろいろの歴史上の事実を持ち出して、ずいぶんと長い記事を書いたのでござ〜ますわね。 でも、興福寺にある阿修羅像が後に孝謙天皇になる阿部内親王をモデルにして制作されたなどとは、どの歴史書にも書いてありませんわ。



もちろん書いてないと思いますよ。 僕が歴史的な事実をいろいろと引き出して推測して書いたのだから。。。

あらっ。。。マジでデンマンさんの独自のお考えなのでござ〜ますか?

そうです。

でも、阿修羅像がロマンの化身ということに、あたくしは納得できませんわ。

あのねぇ〜、阿修羅像を制作した仏師のことを考えてみてください。 飛鳥時代には、仏像制作技術を持った血縁集団が存在しており、その長たる者を仏師と称していたのです。 その大多数は、渡来系に属する技術者たちです。 鞍作止利(止利仏師)の名はちゃんと歴史にも残っています。

つまり、どこの馬の骨だか分からないような無教養な人たちではなかったとデンマンさんは言いたいのですか?

その通りですよ。 時代が下って奈良時代には、官立寺院の工房組織である造寺司の下で、仏像を造営する官立の造仏所(ぞうぶつしょ)が新設された。 飛鳥時代以来の仏師を中心とした技術者たちは、仏工(ぶっこう)として造仏所に所属したのですよ。 要するに、阿修羅像を造った仏師は、モデルになった阿部内親王の置かれている立場を充分に心得ていた。

それで、本来ならば阿修羅像は、怒髪憤怒(どはつふんぬ)が基本であるにもかかわらず、この荒々しさや猛々しさを無視して、むしろ阿修羅像の感じている深い“内なる精神”を阿部内親王の心の奥に見立てたと、デンマンさんは言いたいのですか?

さすがは京都の女子大学で「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授ですねぇ〜。。。 僕は卑弥子さんを改めて見直しましたよ。

このような時に、とって付けたようなお世辞を言わないでくださいましなァ。

まさに卑弥子さんが言った通りですよ。 それで仏師は阿部内親王をモデルにして見つめながら次のような“内なる精神”を感じとった。

■ 静謐(せいひつ)
■ 哀感
■ きびしさ
■ 敬虔なまなざし
■ まなざしの中に込められた奥深い苦悩
■ 引き締まった唇に表れた意志の強さ
■ 清純でひたむきな思い 

つまり、阿修羅像は、そのような思いで造った仏師のロマンの化身なのですよ。 ちなみに中宮寺の弥勒菩薩を見てください。


(chuugu2.jpg)



この弥勒菩薩像も仏師がロマンの化身として制作したのでござ〜♪〜ますか?



もちろんですよ! 弥勒菩薩という名を借りて仏師がロマンの化身を制作したのですよ。

。。。で、このモデルになった女性はどなたでござ〜ますか?

聖徳太子のママですよう。

ママあああァ〜。。。 マッマミィ〜ヤァ!。。。 マジでござ〜ますか? ご冗談でしょう!?

卑弥子さんは信じられないのですか?

だってぇ〜、そのような事は、どの美術書を見ても書いてござ〜ませんわア!

もちろんですよ。 僕が初めて言うことですから。。。

。。。で、その証拠でもあるのでござ〜ますか?

もちろんですよ! 僕は根拠のないことは言わないように、書かないように努力していますから。。。 (微笑)

じゃあ、その根拠とやらを見せてくださいましなァ。

あのねぇ〜、平安時代の『聖徳太子伝暦』には、中宮寺は聖徳太子の母・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ、間人皇后)の宮殿を寺としたと伝えられているのですよ。 鎌倉時代の顕真が著した『聖徳太子伝私記』の裏書には、「葦垣宮、岡本宮、鵤宮(いかるがのみや)の3つの宮の中にあった宮なので中宮といい、それを寺にした時に中宮寺と号した」と記載されている。

でも、それは単なる伝承で中宮寺創建の詳しい事情は不明である、と聞いていますわ。

だから、その不明を明確にしようと僕は試みたのですよう。

つまり、その中宮寺にある弥勒菩薩像は、仏師が制作する時に聖徳太子のママが自分の宮殿をお寺にしようとしたので、ママをモデルにしたとデンマンさんは断定するのですか?

その通りですよ。

でも、それはデンマンさんの単なる推定ではござ〜ませんか?

違いますよ。 単なる思い付きではありません。 弥勒菩薩像はインドでは水瓶を手にする像として造形されたのですよ。 中国では、唐代までは足を交差させ椅子に座る像として造られた。 一方、飛鳥時代の日本では半跏思惟像として造られたのですよ。

どうして。。。?

なぜなら、聖徳太子のママにはペルシア人の血が混じっていた。 その事実については、かつて僕は詳しく記事に書いたのです。 卑弥子さんも次のリンクをクリックして読んでみてください。



『聖徳太子の母親はペルシャ人だった?』

(2003年8月3日)



つまり、ペルシャ人の血が混じっていると、弥勒菩薩像のように座る時に左足を下ろし、右足を上げて左膝上に置き、右手で頬杖を付いて瞑想するのござ〜ますか?



その通りですよ。

そのような事は聞いたことがござ〜ませんわァ〜。。。

あれっ。。。 卑弥子さんは知らなかったのですか? 古代ペルシャ人の間では半ば常識だったのですよ。 その証拠があります。 次の写真を見てください。


(hankashi5.jpg)



これはパキスタン・ガンダーラにある菩薩半跏思惟坐像ですよ。 クシャーナ朝、つまり、1世紀から3世紀頃まで中央アジアから北インドにかけて栄えたイラン系(ペルシャ系)の王朝です。 アレキサンダー大王の東征をきっかけに、ギリシャ文化がペルシャ文明と融合して生まれたヘレニズムがシルクロードを伝わって東方に広がっていった。




(silkrd5.jpg)



そして日本にも伝わったのですよ。。。 聖徳太子のママの祖先も遡(さかのぼ)るとクシャーナ朝の古代ペルシャ人にゆきつくのです。



でも、歴史の時間に、あたくしはそのような事は教わりませんでしたわ。

だから言ったでしょう! これは僕の独自の説ですよ。 弥勒菩薩像はインドでは水瓶を手にする像として造形された。 中国では、唐代までは足を交差させ椅子に座る像として造られた。 一方、飛鳥時代の日本では半跏思惟像として造られたのですよ。 つまり、中宮寺の弥勒菩薩像のモデルがペルシャ人の血を引く聖徳太子のママだったからこそ、クシャーナ朝時代に造られた菩薩半跏思惟坐像のように左足を下ろし、右足を上げて左膝上に置き、右手で頬杖を付いて瞑想するポーズをとったのですよ。




(chuugu3.jpg)


(chuugu2.jpg)



分かるでしょう?。。。 中宮寺の弥勒菩薩像は、仏師が聖徳太子のママを見つめながら感じ取ったロマンを上のように造形したのですよ。



信じられませんわ。

卑弥子さん!。。。 上の写真をもう一度じっくりと見てくださいよ。 シルクロードを伝わってきた古(いにしえ)のロマンが中宮寺の弥勒菩薩像の表情にもポーズにも、はっきりと表れているではありませんか! そう思いませんかァ〜?




【ジューンの独り言】



ですってぇ〜。。。
確かにロマン溢れるお話ですわね。
あなたも中宮寺の弥勒菩薩を眺めていると、遠くガンダーラの風景が思い浮かんでくるのではありませんか?

ええっ。。。 北インドや中央アジアへ行ったこともないのでとても想像できないのですか?
じゃあ、卑弥子さんのセクシ〜なポーズを見て平安朝のロマン溢れる女性でも想像してみてくださいなァ。 (微笑)



ところで、卑弥子さんの面白い話をもっと読みたい人は
下のリンクをクリックして読んでみてくださいね。


『白い鯛焼き』

『真夜中のマリア』

『女に溺れる清盛』

『北本から見る富士』

『エロい源氏物語』


とにかく、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょう。
じゃあね。バーィ。






ィ〜ハァ〜♪〜!

メチャ面白い、

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